35 / 38
第5章 ヒカリノツバサ
翼の折れた天使
しおりを挟む
ライブ当日。
今度はリハーサルとは逆に、佑香たち三人が美奈子の車に乗って会場へ向かう。
「もうさとみな先生気を抜くとすぐ中央線はみ出すんだもん、本番前に冷や汗かいちゃったよぉ」
「大丈夫だ、こう見えてもまだ事故を起こしたことはないゴールド免許だぞ」
大倉山ジャンプ競技場の駐車場に車を入れて、佑香と美奈子がそんな会話をする。
「あ、亜紀と紗夜香先輩も来た」
玲が長い手を振る。タクシーから降りた紗夜香が手を振り返す。通勤通学では使われない大倉山行きのバスは始発の時間が遅いためリハーサルの開始時間にはまだ走っていない。そのため二人は最寄駅からタクシーに乗って来ていた。
まだ観客の来ていない会場に足を踏み入れる。選手は既に何人か会場に居て、ウォーミングアップ等を行っていた。
「あ、ちょっと待ってて」
控え室に向かう途中、美空が一人輪を離れてウォーミングアップを行っている選手の方へ向かう。選手も美空に気付き、笑顔で話し掛ける。
「あ、あれ原木選手やないか? オリンピック銀メダリストの」
美空の話し相手の顔にピンと来た亜紀が隣の佑香に話し掛ける。
「あー、テレビかどこかで見たことのある人だと思った!」
原木選手と親しげに会話している美空を見ながら、玲がつぶやく。
「美空、本当に凄い人だったんだ……」
★
スキージャンプの本来のシーズンは冬。冬場で、しかも高地の大倉山はマイナス気温になり厚手のコートでも着なければとてもではないが立っていられない。しかし、今日はサマージャンプ。初夏の札幌の陽気に、リハーサル用のTシャツから覗く素肌が風に当たって心地良かった。
「こんな大自然の中、衣装が着られて気持ちいいね、れいちゃん」
「うん……」
佑香の言葉に笑って答える玲。しかし、玲はさっきから美空がずっとジャンプ台の方を向いているのが気になっていた。
「ねえ美空、気になるの?」
その言葉にはっと振り返る美空。
「あ、ごめん。つい見ちゃってた。リハに集中しないとだね」
そう言って二人の所に駆け寄って来る美空。玲は安心してステージの方に目線を変える。そのため、駆け寄って来る美空の指先が細かく震えていたことに気付かなかった。
「ではゲネプロいきまーす!」
「「「よろしくお願いします!」」」
テレビ局スタッフの合図に、三人が元気よく返事をする。ゲネプロとは、業界用語で最終リハーサルのことである。三人のライブはあくまで試合前のイベントであり、テレビ中継されるのは本番のジャンプの試合だけである。テレビ局としても本放送の準備があるため、ステージでのリハーサルは通しの一回のみであった。
「♪小さなキャンディ ポケットいっぱいに詰め込んで」
一曲目のキャンストを歌い始める三人。佑香は、前回一度大倉山でリハーサルをしていたおかげで、イヤモニのタイムラグもあまり気にならずに、曲に集中できるようになっていた。
と同時に、曲に集中できているため、いつもより左側の美空の動きがぎこちないのが気になった。右手の玲が昔に比べてどんどん動けるようになってきている分、余計に美空にいつものキレがないことが気になった。
「♪届けみんなへ 魔法のストーリー」
キャンストを歌い終わる三人。見守っていた数名のスタッフから拍手をもらう。佑香はぺこりと礼をすると、美空の方を見る。
「みそらちゃん大丈夫? なんかいつもより動きがぎこちなかった気がするけど」
「え、そう、かな? 大丈夫だよ。次はもっとしっかり動くね」
美空はそう返すが、表情も心なしか曇っているようだった。佑香は更に言葉を掛けるべきか迷ったが、スタッフからの「次行きまーす」という声に、気持ちを切り替えざるをえなかった。
「♪ヒカリノツバサ広げ 飛び立とう」
二曲目のヒカリノツバサを歌い始める三人。前奏が終わって三人揃ってのツーステップになるが、やはり美空だけ動きが硬かった。
「♪不安よりも期待持って行くよ」
ヒカリノツバサの最大の見せ場である、Bメロ終わりの美空の大ジャンプ。だが、美空はなんと助走で躓いてしまい、転んでしまう。
「みそらちゃん!?」
美空が、ただ転んだだけですぐにダンスに復帰できる感じではなく、転んだ後に呆然としているのを見て、佑香が咄嗟に声を上げる。
「すみません、リハ中断でお願いします!」
★
ゲネプロを中断した三人は、控え室に戻ってきていた。椅子に座った美空は、虚ろな表情をしていて、目の焦点が合っていなかった。
「みそらちゃん……」
佑香が恐る恐るといった感じで美空に声を掛ける。その声に気付いてか、美空がうつむきながら口を開く。
「あの時のことが脳内にフラッシュバックするんだ」
「あの時って」
「……去年のここでの転倒事故」
そう言ってより一層肩を小さくすぼめる美空。美空は普段冷静で自信に満ちているから感じなかったが、本当はこんなに小柄な少女なんだ、と佑香はその姿を見て思った。
「みそらちゃん、この前のリハーサルの時は大丈夫だったのに……」
「自分でも、この前なんともなかったからもう大丈夫だと思っていたんだ。でも、今日他の選手が飛んでいるところを見て。踏み切りの音がする度にあの時のことが脳内に甦るんだ」
ぐっと顔を両手で塞ぐ美空。
「歌えない、踊れない……。どうしよう……」
いつもどちらかというと天才肌で淡々とこなしていく美空の、こんな姿を見るのは初めてだった。
「みそらちゃん……」
佑香も、どんな言葉を掛ければいいのかわからず困っていた。美空の苦悩がどれだけ深いものなのか、佑香には想像することもできなかった。
その時、それまでずっと黙っていた玲が、つかつかと美空の元へ歩み寄った。
今度はリハーサルとは逆に、佑香たち三人が美奈子の車に乗って会場へ向かう。
「もうさとみな先生気を抜くとすぐ中央線はみ出すんだもん、本番前に冷や汗かいちゃったよぉ」
「大丈夫だ、こう見えてもまだ事故を起こしたことはないゴールド免許だぞ」
大倉山ジャンプ競技場の駐車場に車を入れて、佑香と美奈子がそんな会話をする。
「あ、亜紀と紗夜香先輩も来た」
玲が長い手を振る。タクシーから降りた紗夜香が手を振り返す。通勤通学では使われない大倉山行きのバスは始発の時間が遅いためリハーサルの開始時間にはまだ走っていない。そのため二人は最寄駅からタクシーに乗って来ていた。
まだ観客の来ていない会場に足を踏み入れる。選手は既に何人か会場に居て、ウォーミングアップ等を行っていた。
「あ、ちょっと待ってて」
控え室に向かう途中、美空が一人輪を離れてウォーミングアップを行っている選手の方へ向かう。選手も美空に気付き、笑顔で話し掛ける。
「あ、あれ原木選手やないか? オリンピック銀メダリストの」
美空の話し相手の顔にピンと来た亜紀が隣の佑香に話し掛ける。
「あー、テレビかどこかで見たことのある人だと思った!」
原木選手と親しげに会話している美空を見ながら、玲がつぶやく。
「美空、本当に凄い人だったんだ……」
★
スキージャンプの本来のシーズンは冬。冬場で、しかも高地の大倉山はマイナス気温になり厚手のコートでも着なければとてもではないが立っていられない。しかし、今日はサマージャンプ。初夏の札幌の陽気に、リハーサル用のTシャツから覗く素肌が風に当たって心地良かった。
「こんな大自然の中、衣装が着られて気持ちいいね、れいちゃん」
「うん……」
佑香の言葉に笑って答える玲。しかし、玲はさっきから美空がずっとジャンプ台の方を向いているのが気になっていた。
「ねえ美空、気になるの?」
その言葉にはっと振り返る美空。
「あ、ごめん。つい見ちゃってた。リハに集中しないとだね」
そう言って二人の所に駆け寄って来る美空。玲は安心してステージの方に目線を変える。そのため、駆け寄って来る美空の指先が細かく震えていたことに気付かなかった。
「ではゲネプロいきまーす!」
「「「よろしくお願いします!」」」
テレビ局スタッフの合図に、三人が元気よく返事をする。ゲネプロとは、業界用語で最終リハーサルのことである。三人のライブはあくまで試合前のイベントであり、テレビ中継されるのは本番のジャンプの試合だけである。テレビ局としても本放送の準備があるため、ステージでのリハーサルは通しの一回のみであった。
「♪小さなキャンディ ポケットいっぱいに詰め込んで」
一曲目のキャンストを歌い始める三人。佑香は、前回一度大倉山でリハーサルをしていたおかげで、イヤモニのタイムラグもあまり気にならずに、曲に集中できるようになっていた。
と同時に、曲に集中できているため、いつもより左側の美空の動きがぎこちないのが気になった。右手の玲が昔に比べてどんどん動けるようになってきている分、余計に美空にいつものキレがないことが気になった。
「♪届けみんなへ 魔法のストーリー」
キャンストを歌い終わる三人。見守っていた数名のスタッフから拍手をもらう。佑香はぺこりと礼をすると、美空の方を見る。
「みそらちゃん大丈夫? なんかいつもより動きがぎこちなかった気がするけど」
「え、そう、かな? 大丈夫だよ。次はもっとしっかり動くね」
美空はそう返すが、表情も心なしか曇っているようだった。佑香は更に言葉を掛けるべきか迷ったが、スタッフからの「次行きまーす」という声に、気持ちを切り替えざるをえなかった。
「♪ヒカリノツバサ広げ 飛び立とう」
二曲目のヒカリノツバサを歌い始める三人。前奏が終わって三人揃ってのツーステップになるが、やはり美空だけ動きが硬かった。
「♪不安よりも期待持って行くよ」
ヒカリノツバサの最大の見せ場である、Bメロ終わりの美空の大ジャンプ。だが、美空はなんと助走で躓いてしまい、転んでしまう。
「みそらちゃん!?」
美空が、ただ転んだだけですぐにダンスに復帰できる感じではなく、転んだ後に呆然としているのを見て、佑香が咄嗟に声を上げる。
「すみません、リハ中断でお願いします!」
★
ゲネプロを中断した三人は、控え室に戻ってきていた。椅子に座った美空は、虚ろな表情をしていて、目の焦点が合っていなかった。
「みそらちゃん……」
佑香が恐る恐るといった感じで美空に声を掛ける。その声に気付いてか、美空がうつむきながら口を開く。
「あの時のことが脳内にフラッシュバックするんだ」
「あの時って」
「……去年のここでの転倒事故」
そう言ってより一層肩を小さくすぼめる美空。美空は普段冷静で自信に満ちているから感じなかったが、本当はこんなに小柄な少女なんだ、と佑香はその姿を見て思った。
「みそらちゃん、この前のリハーサルの時は大丈夫だったのに……」
「自分でも、この前なんともなかったからもう大丈夫だと思っていたんだ。でも、今日他の選手が飛んでいるところを見て。踏み切りの音がする度にあの時のことが脳内に甦るんだ」
ぐっと顔を両手で塞ぐ美空。
「歌えない、踊れない……。どうしよう……」
いつもどちらかというと天才肌で淡々とこなしていく美空の、こんな姿を見るのは初めてだった。
「みそらちゃん……」
佑香も、どんな言葉を掛ければいいのかわからず困っていた。美空の苦悩がどれだけ深いものなのか、佑香には想像することもできなかった。
その時、それまでずっと黙っていた玲が、つかつかと美空の元へ歩み寄った。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
わたしの下着 母の私をBBA~と呼ぶことのある息子がまさか...
MisakiNonagase
青春
39才の母・真知子は息子が私の下着を持ち出していることに気づいた。
ネットで同様の事象がないか調べると、案外多いようだ。
さて、真知子は息子を問い詰める? それとも気づかないふりを続けてあげるか?
そのほかに外伝も綴りました。
母の下着 タンスと洗濯籠の秘密
MisakiNonagase
青春
この物語は、思春期という複雑で繊細な時期を生きる少年の内面と、彼を取り巻く家族の静かなる絆を描いた作品です。
颯真(そうま)という一人の高校生の、ある「秘密」を通して、私たちは成長の過程で誰もが抱くかもしれない戸惑い、罪悪感、そしてそれらを包み込む家族の無言の理解に触れます。
物語は、現在の颯真と恋人・彩花との関係から、中学時代にさかのぼる形で展開されます。そこで明らかになるのは、彼がかつて母親の下着に対して抱いた抑えがたい好奇心と、それに伴う一連の行為です。それは彼自身が「歪んだ」と感じる過去の断片であり、深い恥ずかしさと自己嫌悪を伴う記憶です。
しかし、この物語の核心は、単なる過去の告白にはありません。むしろ、その行為に「気づいていたはず」の母親が、なぜ一言も問い詰めず、誰にも告げず、ただ静かに見守り続けたのか——という問いにこそあります。そこには、親子という関係を超えた、深い人間理解と、言葉にされない優しさが横たわっています。
センシティブな題材を、露骨な描写や扇情的な表現に頼ることなく、あくまで颯真の内省的な視点から丁寧に紡ぎ出しています。読者は、主人公の痛みと恥ずかしさを共有しながら、同時に、彼を破綻から救った「沈黙の救済」の重みと温かさを感じ取ることでしょう。
これは、一つの過ちと、その赦しについての物語です。また、成長とは時に恥ずかしい過去を背負いながら、他者の無償の寛容さによって初めて前を向けるようになる過程であること、そして家族の愛が最も深く現れるのは、時に何も言わない瞬間であることを、静かにしかし確かに伝える物語です。
どうか、登場人物たちの静かなる心の襞に寄り添いながら、ページをめくってください。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
罪悪と愛情
暦海
恋愛
地元の家電メーカー・天の香具山に勤務する20代後半の男性・古城真織は幼い頃に両親を亡くし、それ以降は父方の祖父母に預けられ日々を過ごしてきた。
だけど、祖父母は両親の残した遺産を目当てに真織を引き取ったに過ぎず、真織のことは最低限の衣食を与えるだけでそれ以外は基本的に放置。祖父母が自身を疎ましく思っていることを知っていた真織は、高校卒業と共に就職し祖父母の元を離れる。業務上などの必要なやり取り以外では基本的に人と関わらないので友人のような存在もいない真織だったが、どうしてかそんな彼に積極的に接する後輩が一人。その後輩とは、頗る優秀かつ息を呑むほどの美少女である降宮蒔乃で――
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる