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四章
四十五話
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事が起こったのは八千代の謹慎が開けて半年が経った時のことだった。
八千代と虎之助は夜な夜な人の目を盗んでは山の中の小屋で逢瀬を繰り返し、互いの気持ちを確認しては密かに愛を育んでいた。
大っぴらに町中を歩いたり、茶屋で笑い合ったり、歌舞伎を見たりということが出来ないのは勿論、文のやり取りをしていることさえ秘密裏にしなくてはいけないような関係。
いくら気持ちを重ねようが、唇を重ねようが、一緒になることは出来ないことは当の本人たちが一番理解していることだった。
しかし、決して結ばれない関係であると分かっていてもこの気持ちを止めることは出来なかった。
いつの日か、一緒になれるような未来が来る、一縷の希望を夢見て……。
「……今日は、大丈夫か」
虎之助が呟きながら夜道を歩く。
この辺りは毎日ではないが、岡っ引きが巡回している経路。
誰もいないことを確認し、最小限の灯りで一歩一歩進む。灯りがないと何度も転んでしまうような獣道だが、何度か来ているうちに慣れてきており、今では仮に灯りがなくても迷わないほどになっていた。
――今日はどんな話をしようか。
虎之助は今日も八千代に会えるのを楽しみにしていた。
町から少し離れた山小屋。
そこが虎之助と八千代がいつも逢瀬に用いていた秘密の場所だった。
虎之助が薄暗い小屋の引き戸を開けると、そこにはすでに八千代の姿があった。
「…………虎之助」
肌理の細かい肌、大きな瞳、一本筋の通った鼻梁、若干赤みがさした頬、薄めの唇。
そのどれもが絶妙な均整を保っており、どれかが僅かに大きくても小さくても成り立たないその顔に虎之助は安心する。
「八千代、良かった……っと、どうした?」
安心しながらも、虎之助はいつもとは明らかに違う表情に違和感を覚える。
「……わ、わ、わたし……」
何かに怯えるように体を小刻みに震わせる八千代の背中に手を回し抱き寄せる。
「大丈夫、大丈夫……」
八千代を安心させるように背中をさする。
なぜ八千代がここまで怯えているのか、虎之助には全く分からなかった。
「八千代、どうしたんだ?」
震えがおさまり徐々に落ち着いてきた八千代に虎之助が訊く。
「……虎之助、ごめんなさい」
虎之助の胸に顔を埋めたまま、八千代が小さく言う。
「それは、どういう」
――――ガラガラ、バン!
虎之助が訊こうとした瞬間に扉が乱暴に開けられた。
「何をしている⁉」
鋭い声が虎之助の背中に突き刺さる。
八千代を抱く力を強め、虎之助が後ろを振り向くと、そこにいたのは数人の岡っ引きとその横で腕を組む爺の姿だった。
「これは……」
虎之助が八千代の顔を見るが、八千代は怯えた表情のまま体を小刻みに震わせる。
八千代はこうなることを知っていた。
何を隠そう手引きしたのが八千代本人だったのだ。
「貴様、姫様に何をしておるのだ! 今すぐに離れろ!」
岡っ引きが静かな小屋の中で怒号を飛ばし、そして虎之助に手を伸ばす。
いまだに状況を掴めていない虎之助は訳も分からず、しかし、反射的に伸ばしてきた岡っ引きの手を払い、体を反転させる。
――八千代だけは何が何でも守らなくては!
「こいつ、抵抗する気か! かかれ!」
手を払われた岡っ引きが鬼の形相で声を張ると、それを合図に近くにいた数人の岡っ引きが一斉に虎之助に飛びかかる。
虎之助は小さい体を思い切り動かし抵抗するが、さしもの虎之助も数に敵うわけもなく、地面に押さえつけられる。
「……ぐはっ!」
背中を足で押され息をすることもままならない。
「よし。じゃあ、そいつを連れていけ」
爺が岡っ引き達に指示を出す。
「爺!」
後ろで震えていた八千代が去ろうとする爺を止める。
「……これで、良いのよね? 虎之助と虎之助の母、寛大の三人は、これで大丈夫なのよね?」
「はい。勿論ですとも。それと、今日のことは殿には黙っておきますので、姫様も風邪を引かないうちにお戻りください」
そう言って、爺は小屋を出る。
「や、やちよ! これはどういう」
後ろ手に組まれ、無理やり歩かされる虎之助は背後に爺と話す八千代に言う。
「ほら、さっさと歩け!」
岡っ引き達がそれを許さない。
「しかし、本当に良かったのですか?」
一人の岡っ引きが爺に問う。
「まあ、仕方ないだろ。本当は饅頭で殺す予定だったのだが、姫様もこの男も……それなら、いっそ……ころ……しまうしか……」
ところどころ聞こえないところはあったが、聞こえた部分だけでも八千代が絶望するには十分だった。
そして、最後に虎之助が見た八千代の顔もそんな絶望に打ちひしがれた表情だった。
その後、虎之助は事情も分からぬまま、その日の内に処刑された。
そのため、八千代がなぜあんな事をしたのか、訊くことが出来なかった。
それが一番の心残りだ、と虎之助は言う。
それから八千代の魂が生まれ変わるまで虎之助は待ち続けた。
十年、二十年、三十年……百年、二百年……。
待てど暮らせどやってこない八千代の生まれ変わりに諦めようとさえ思った時もあった。
いっそのこと、自分も全てを忘れて生まれ変わった方がいいのでは、とさえ思った。
しかし、虎之助はどうしても諦められなかった。
八千代の思いを訊くまでは、自分を捨てることができない。
それは結局、虎之助の自己満足なのかもしれない。
それでもこの思いを忘れてしまうことは死ぬことや消えることよりも辛いことだった。
八千代と虎之助は夜な夜な人の目を盗んでは山の中の小屋で逢瀬を繰り返し、互いの気持ちを確認しては密かに愛を育んでいた。
大っぴらに町中を歩いたり、茶屋で笑い合ったり、歌舞伎を見たりということが出来ないのは勿論、文のやり取りをしていることさえ秘密裏にしなくてはいけないような関係。
いくら気持ちを重ねようが、唇を重ねようが、一緒になることは出来ないことは当の本人たちが一番理解していることだった。
しかし、決して結ばれない関係であると分かっていてもこの気持ちを止めることは出来なかった。
いつの日か、一緒になれるような未来が来る、一縷の希望を夢見て……。
「……今日は、大丈夫か」
虎之助が呟きながら夜道を歩く。
この辺りは毎日ではないが、岡っ引きが巡回している経路。
誰もいないことを確認し、最小限の灯りで一歩一歩進む。灯りがないと何度も転んでしまうような獣道だが、何度か来ているうちに慣れてきており、今では仮に灯りがなくても迷わないほどになっていた。
――今日はどんな話をしようか。
虎之助は今日も八千代に会えるのを楽しみにしていた。
町から少し離れた山小屋。
そこが虎之助と八千代がいつも逢瀬に用いていた秘密の場所だった。
虎之助が薄暗い小屋の引き戸を開けると、そこにはすでに八千代の姿があった。
「…………虎之助」
肌理の細かい肌、大きな瞳、一本筋の通った鼻梁、若干赤みがさした頬、薄めの唇。
そのどれもが絶妙な均整を保っており、どれかが僅かに大きくても小さくても成り立たないその顔に虎之助は安心する。
「八千代、良かった……っと、どうした?」
安心しながらも、虎之助はいつもとは明らかに違う表情に違和感を覚える。
「……わ、わ、わたし……」
何かに怯えるように体を小刻みに震わせる八千代の背中に手を回し抱き寄せる。
「大丈夫、大丈夫……」
八千代を安心させるように背中をさする。
なぜ八千代がここまで怯えているのか、虎之助には全く分からなかった。
「八千代、どうしたんだ?」
震えがおさまり徐々に落ち着いてきた八千代に虎之助が訊く。
「……虎之助、ごめんなさい」
虎之助の胸に顔を埋めたまま、八千代が小さく言う。
「それは、どういう」
――――ガラガラ、バン!
虎之助が訊こうとした瞬間に扉が乱暴に開けられた。
「何をしている⁉」
鋭い声が虎之助の背中に突き刺さる。
八千代を抱く力を強め、虎之助が後ろを振り向くと、そこにいたのは数人の岡っ引きとその横で腕を組む爺の姿だった。
「これは……」
虎之助が八千代の顔を見るが、八千代は怯えた表情のまま体を小刻みに震わせる。
八千代はこうなることを知っていた。
何を隠そう手引きしたのが八千代本人だったのだ。
「貴様、姫様に何をしておるのだ! 今すぐに離れろ!」
岡っ引きが静かな小屋の中で怒号を飛ばし、そして虎之助に手を伸ばす。
いまだに状況を掴めていない虎之助は訳も分からず、しかし、反射的に伸ばしてきた岡っ引きの手を払い、体を反転させる。
――八千代だけは何が何でも守らなくては!
「こいつ、抵抗する気か! かかれ!」
手を払われた岡っ引きが鬼の形相で声を張ると、それを合図に近くにいた数人の岡っ引きが一斉に虎之助に飛びかかる。
虎之助は小さい体を思い切り動かし抵抗するが、さしもの虎之助も数に敵うわけもなく、地面に押さえつけられる。
「……ぐはっ!」
背中を足で押され息をすることもままならない。
「よし。じゃあ、そいつを連れていけ」
爺が岡っ引き達に指示を出す。
「爺!」
後ろで震えていた八千代が去ろうとする爺を止める。
「……これで、良いのよね? 虎之助と虎之助の母、寛大の三人は、これで大丈夫なのよね?」
「はい。勿論ですとも。それと、今日のことは殿には黙っておきますので、姫様も風邪を引かないうちにお戻りください」
そう言って、爺は小屋を出る。
「や、やちよ! これはどういう」
後ろ手に組まれ、無理やり歩かされる虎之助は背後に爺と話す八千代に言う。
「ほら、さっさと歩け!」
岡っ引き達がそれを許さない。
「しかし、本当に良かったのですか?」
一人の岡っ引きが爺に問う。
「まあ、仕方ないだろ。本当は饅頭で殺す予定だったのだが、姫様もこの男も……それなら、いっそ……ころ……しまうしか……」
ところどころ聞こえないところはあったが、聞こえた部分だけでも八千代が絶望するには十分だった。
そして、最後に虎之助が見た八千代の顔もそんな絶望に打ちひしがれた表情だった。
その後、虎之助は事情も分からぬまま、その日の内に処刑された。
そのため、八千代がなぜあんな事をしたのか、訊くことが出来なかった。
それが一番の心残りだ、と虎之助は言う。
それから八千代の魂が生まれ変わるまで虎之助は待ち続けた。
十年、二十年、三十年……百年、二百年……。
待てど暮らせどやってこない八千代の生まれ変わりに諦めようとさえ思った時もあった。
いっそのこと、自分も全てを忘れて生まれ変わった方がいいのでは、とさえ思った。
しかし、虎之助はどうしても諦められなかった。
八千代の思いを訊くまでは、自分を捨てることができない。
それは結局、虎之助の自己満足なのかもしれない。
それでもこの思いを忘れてしまうことは死ぬことや消えることよりも辛いことだった。
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