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五章
五十二話
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望みが叶わないと知った途端、虎之助の存在理由がなくなった。
それはそのまま現世に留まる理由を失ったことと等しかった。
――ああ、俺はこのまま何も成し遂げられないまま成仏するのか。心の中に深く暗い蟠りを抱えたまま成仏するのか。結局騙されたままだし……何か、悔しいな。
虎之助は胸を締め付けられるような思いに唇を噛む。
自然と零れる涙が地面を濡らすことはなく、空気の一部となり消える。
虎之助の体もそんな涙や後悔とともに消えようとしていた。
ふわふわと宙を浮く虎之助の意識が少しずつ認識できなくなる程、薄弱なものになっていく。
――……と……、と……のす……!
そんな薄れゆく意識の中、虎之助の頭に懐かしい声が響く。
――虎之助、虎之助! 聞こえてる⁉
はっきりと聞こえたその声はまさしく虎之助が何よりも愛する人物の声であった。
――虎之助! 私、八千代よ。分かるかしら?
目を閉じているのに、目の前に悲しそうな表情を浮かべる八千代がそこにはいた。
しかし、突然の出来事を虎之助は信じていなかった。
――ああ、俺はもう、八千代の幻聴を聞くほどになってしまったのか……。
そして、それを振り払うように魂が天に向かっていく。
――ちょ、ちょっと、待ちなさいよ!
そんな虎之助の足首を八千代が掴む。
天へと向かっていた虎之助の体が物凄い力で引っ張られる。
何事かと下を向くとそこには頬を膨らませた美波がいた。
瞬きを繰り返すが、何度見返してもそれは間違いなく美波だった。
間違いない。
しかし、その実、虎之助はそんな美波に懐かしさを感じていた。
――もう忘れちゃったかしら?
そう言い優しくも悪戯な笑みを浮かべる美波は虎之助の知っている美波ではなかった。
――…………やちよ……なのか?
――そうよ。体は桜井美波さんだけど、あなたなら分かるでしょう?
たどたどしい口調で確認する虎之助を美波、もとい八千代が足を掴みながら見上げる。
本来であれば美波に生まれ変わった時点で八千代の魂そのものはなくなってしまう。それは間違いない。しかし、その原理を超えてなお八千代は虎之助の前に現れた。ある目的を果たすために……。
突然すぎる展開に虎之助は呆然とするが、涙は頬を伝っていた。
冷たく寂しさに満ちたものではなく、温かく嬉しさに満ちた涙であった。
頭の中で実感は湧かなくても感情はしっかりと動いていた。
虎之助が地面に足を着け、八千代を真正面から捉える。
――生まれ変わってしまったら、もう魂はなくなってしまうんじゃなかったのか?
――本来であればそう。私の自我はなくなっていた。……でも、桜井美波さんが私を呼んだのよ。
八千代が美波の胸に両手を当て目を閉じる。
――〝虎之助さんを助けてください!〟っていう心の声が響いたの。彼女自身は無意識だったかもしれないけど、その声がほとんどなかった私の自我を蘇らせたのね。
荒唐無稽な話で、俄かには信じられない話である。
普通の人であれば都市伝説化か与太話として笑って流すような話かもしれない。
虎之助も信じられないといった表情で目の前の出来事を必死に整理している。
しかし、それでも頭の処理速度が追いつくことはなく、すでにパンクしていた。
――ふふふ。混乱してる。
――そりゃ、そうでしょ! 訳が分からないし、それにいきなりは反則だろ!
八千代が笑い、それを赤く染まった頬と視線の定まらない瞳で虎之助が反論する。
――ふふふ、ごめんなさい。
――まったくだよ……でも……。
虎之助が八千代を見据え言う。
――ようやく、会えた。
混乱しながらも、二百年越しの八千代に虎之助は感無量であった。
――私もずっとあなたに会いたかった。……そして、あの時の事を謝りたかった。
そう言って、八千代は深々と頭を下げる。
――謝っても許されることではないけれど……本当にごめんなさい。
――いやいや、大丈夫だよ。俺の方こそ、君を守れなくてごめん。
虎之助も深々と頭を下げる。
数秒の後、同じタイミングで頭を上げた二人は視線を交わし柔らかく微笑み合う。
それはまるで当時に戻ったかのような空気感であった。
――……八千代、ひとつ訊いてもいいかい?
虎之助が意を決して訊く。
――……うん。
八千代が頷く。
――考えても考えてもずっと分からなかったんだ。どうして八千代があの時あんなことをしたのか……それだけが心残りだった。
その言葉に八千代が一度唾液を飲み込み、視線を下に向け、再度虎之助を見据える。
――実は私、あの時、爺に騙されたの。〝あの男と一度会わせてさえくれれば、悪いようにはしません。姫様とあの男の交際を黙認いたしましょう。寛大のことも含めて〟って言われて。私の腹違いの弟、寛大って覚えてる? 寛大は宮廷で奴隷のような扱いを受けてきた。だからね、言い訳かもしれないけれど、そうするしかなかったのよ。……本当にごめんなさい。
今一度、八千代が謝る。
その言葉を聞いて、虎之助が心底安堵した表情でゆっくり息を吐く。
――……そうか。そうだったんだ。やっぱり君が意図してやったことじゃなかったんだ。
――当り前じゃない。私はあなたのことを心から愛しているんだから。生きていた時は勿論、死んでしまった今でも、ずっと、ずっと……。
八千代が愛しそうな瞳で虎之助を見つめる。
虎之助が死んでから、十年、二十年、百年、二百年……待ち続けた。
そして、虎之助の願いは今叶った。
もう一度八千代に会うこと?
――違う。
八千代にあの時の真相を訊くこと?
――違う。
本当の望みは……。
八千代の気持ちを確かめることだった。
幾星霜、時間を重ねようが、変わらない真実。
それを直接八千代に確認することだったのだ。
虎之助と八千代がどちらからともなく抱き合う。
人目を憚ることなく、自身の立場やその後のことを何も考えることなく。
ただただお互いの体温を感じるためだけに体を重ねた。
本当であればこんな格好ではなく、生身の体同士を重ね合い温かさを感じたかったが、それももはや叶わない。
しかし、それでも虎之助はそれで満足だった。
それはそのまま現世に留まる理由を失ったことと等しかった。
――ああ、俺はこのまま何も成し遂げられないまま成仏するのか。心の中に深く暗い蟠りを抱えたまま成仏するのか。結局騙されたままだし……何か、悔しいな。
虎之助は胸を締め付けられるような思いに唇を噛む。
自然と零れる涙が地面を濡らすことはなく、空気の一部となり消える。
虎之助の体もそんな涙や後悔とともに消えようとしていた。
ふわふわと宙を浮く虎之助の意識が少しずつ認識できなくなる程、薄弱なものになっていく。
――……と……、と……のす……!
そんな薄れゆく意識の中、虎之助の頭に懐かしい声が響く。
――虎之助、虎之助! 聞こえてる⁉
はっきりと聞こえたその声はまさしく虎之助が何よりも愛する人物の声であった。
――虎之助! 私、八千代よ。分かるかしら?
目を閉じているのに、目の前に悲しそうな表情を浮かべる八千代がそこにはいた。
しかし、突然の出来事を虎之助は信じていなかった。
――ああ、俺はもう、八千代の幻聴を聞くほどになってしまったのか……。
そして、それを振り払うように魂が天に向かっていく。
――ちょ、ちょっと、待ちなさいよ!
そんな虎之助の足首を八千代が掴む。
天へと向かっていた虎之助の体が物凄い力で引っ張られる。
何事かと下を向くとそこには頬を膨らませた美波がいた。
瞬きを繰り返すが、何度見返してもそれは間違いなく美波だった。
間違いない。
しかし、その実、虎之助はそんな美波に懐かしさを感じていた。
――もう忘れちゃったかしら?
そう言い優しくも悪戯な笑みを浮かべる美波は虎之助の知っている美波ではなかった。
――…………やちよ……なのか?
――そうよ。体は桜井美波さんだけど、あなたなら分かるでしょう?
たどたどしい口調で確認する虎之助を美波、もとい八千代が足を掴みながら見上げる。
本来であれば美波に生まれ変わった時点で八千代の魂そのものはなくなってしまう。それは間違いない。しかし、その原理を超えてなお八千代は虎之助の前に現れた。ある目的を果たすために……。
突然すぎる展開に虎之助は呆然とするが、涙は頬を伝っていた。
冷たく寂しさに満ちたものではなく、温かく嬉しさに満ちた涙であった。
頭の中で実感は湧かなくても感情はしっかりと動いていた。
虎之助が地面に足を着け、八千代を真正面から捉える。
――生まれ変わってしまったら、もう魂はなくなってしまうんじゃなかったのか?
――本来であればそう。私の自我はなくなっていた。……でも、桜井美波さんが私を呼んだのよ。
八千代が美波の胸に両手を当て目を閉じる。
――〝虎之助さんを助けてください!〟っていう心の声が響いたの。彼女自身は無意識だったかもしれないけど、その声がほとんどなかった私の自我を蘇らせたのね。
荒唐無稽な話で、俄かには信じられない話である。
普通の人であれば都市伝説化か与太話として笑って流すような話かもしれない。
虎之助も信じられないといった表情で目の前の出来事を必死に整理している。
しかし、それでも頭の処理速度が追いつくことはなく、すでにパンクしていた。
――ふふふ。混乱してる。
――そりゃ、そうでしょ! 訳が分からないし、それにいきなりは反則だろ!
八千代が笑い、それを赤く染まった頬と視線の定まらない瞳で虎之助が反論する。
――ふふふ、ごめんなさい。
――まったくだよ……でも……。
虎之助が八千代を見据え言う。
――ようやく、会えた。
混乱しながらも、二百年越しの八千代に虎之助は感無量であった。
――私もずっとあなたに会いたかった。……そして、あの時の事を謝りたかった。
そう言って、八千代は深々と頭を下げる。
――謝っても許されることではないけれど……本当にごめんなさい。
――いやいや、大丈夫だよ。俺の方こそ、君を守れなくてごめん。
虎之助も深々と頭を下げる。
数秒の後、同じタイミングで頭を上げた二人は視線を交わし柔らかく微笑み合う。
それはまるで当時に戻ったかのような空気感であった。
――……八千代、ひとつ訊いてもいいかい?
虎之助が意を決して訊く。
――……うん。
八千代が頷く。
――考えても考えてもずっと分からなかったんだ。どうして八千代があの時あんなことをしたのか……それだけが心残りだった。
その言葉に八千代が一度唾液を飲み込み、視線を下に向け、再度虎之助を見据える。
――実は私、あの時、爺に騙されたの。〝あの男と一度会わせてさえくれれば、悪いようにはしません。姫様とあの男の交際を黙認いたしましょう。寛大のことも含めて〟って言われて。私の腹違いの弟、寛大って覚えてる? 寛大は宮廷で奴隷のような扱いを受けてきた。だからね、言い訳かもしれないけれど、そうするしかなかったのよ。……本当にごめんなさい。
今一度、八千代が謝る。
その言葉を聞いて、虎之助が心底安堵した表情でゆっくり息を吐く。
――……そうか。そうだったんだ。やっぱり君が意図してやったことじゃなかったんだ。
――当り前じゃない。私はあなたのことを心から愛しているんだから。生きていた時は勿論、死んでしまった今でも、ずっと、ずっと……。
八千代が愛しそうな瞳で虎之助を見つめる。
虎之助が死んでから、十年、二十年、百年、二百年……待ち続けた。
そして、虎之助の願いは今叶った。
もう一度八千代に会うこと?
――違う。
八千代にあの時の真相を訊くこと?
――違う。
本当の望みは……。
八千代の気持ちを確かめることだった。
幾星霜、時間を重ねようが、変わらない真実。
それを直接八千代に確認することだったのだ。
虎之助と八千代がどちらからともなく抱き合う。
人目を憚ることなく、自身の立場やその後のことを何も考えることなく。
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本当であればこんな格好ではなく、生身の体同士を重ね合い温かさを感じたかったが、それももはや叶わない。
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