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三
諺臍の宿替
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片山が帰ったその日の午後、坊ちゃんは何事もなかったように店番に入った。
俺は行商に出る準備を済ませて、そろそろ出かけようと思っていた矢先だった。
「ごめんください」
若い女性の柔らかな声がしたもんで、振り返ると、店の入り口に豆千代さんが立っていた。
坊ちゃんが声をかける。
「おや、豆千代さん、珍しいね」
「あの、今日はうちには来られないと思って」
豆千代さんがちらりと俺の顔を見たので、俺も首だけで軽く会釈した。
伊勢屋さんはご近所ではあるが、芸者らは忙しいこともあって、週に一、二度の割合で俺が本を背負って通っている。
それでもやっぱり店の方が本や錦絵の数も多いことから、こんなふうに直接、店までに来てくれることも少なくない。
けど……彼女が来店してくれたのは初めてじゃないかな。
「珠緒姐さんに頼まれたの。何か借りて来てと」
「へえ、珠緒さんに」
珠緒さんは石川が殺された後、御座敷を休んでいると聞いている。
「えっと……人情ものの気軽に読める本がいいって言うの。気が滅入って仕方が無いからって」
それを聞くと、坊ちゃんは体をずらして壁面の本棚へと這って行った。
入れ替わるように、俺が上がり框に腰を下ろして豆千代さんに声を掛けた。ほんの挨拶がわりの言葉のつもりで。
「珠緒さん、どんな様子だい」
すると豆千代さんの顔がグシャりと歪んで、俯いてしまったのだ。
しまった――と、迂闊な質問をしたことを後悔する。この子もあの現場に居たんだ。それなのに俺としたことが。
きっと思い出させてしまった。
豆千代さんは俯いたまま、ぼそぼそと答える。
「……うん、ずっと臥せっている。やっぱり石川様が殺されたのが怖かったみたい。長くご贔屓にして下さっていたから」
取り繕うように慰めの言葉をかけるしかなった。
「君は大丈夫かい。あんな現場に居合わせて」
自分の客であろうとなかろうと、死体と鉢合わせた豆千代の方が珠緒さんよりか余程怖かったと思うのだ。
だが、豆千代さんは小さく首を振った。
「うん、大丈夫」
一生懸命に、笑顔を貼り付けて俺を見上げる。
「だって、うちまで気を病んでしまったら、女将さんが心配するから。うち、女将さんに拾ってもらって、ずっと良くしてもらっているから。あまり迷惑をかけたくないの」
その健気な言葉に俺の鼻の奥がきゅっと熱くなっちまった。
幼くして妓楼や芸者屋に売られた少女らは、皆、それ相応の苦労を重ねているもんだ。それなのに腐ることもなく、気遣いを忘れずにいる豆千代の背景を考えると、同情心が疼くのだ。
「三四郎、これ渡して」
いきなり坊ちゃんに三冊の本を手渡された。
新作だった。
「私家版(自費出版のようなもの)の新作で、確か珠緒さんはこの作者が好きだったと思う。面白かったら、続きは三四郎に持って行かせるって言っておいてよ。今、六巻まで出ているからって」
版元をしていたお絹さんの実家では、こういった無名の作家を多く抱えている。
「ほらよ。三冊あるから、あんたも珠緒さんから借りて読んだらいい。連作だけど、一遍ずつでも面白く読める話ばかりだから」
坊ちゃんから受け取った本を豆千代さんに差し出す。だが、豆千代さんは首を横に振った。
「うち、字が読めないから、姐さんが読むのを聞いているの」
なるほど……だから、うちに来ることが無かったんだな。
洋灯が流行り出して、黙読が増えたとはいえ、未だ音読が主流だ。
本は一人で黙々と読むのではなく、声を出して読むことの方が多い。こういった大衆向けのは挿絵が多いのも楽しみの一つで、本は皆で楽しみ合うもんなんだ。
「じゃあ、これも付けてあげてよ。四冊で三冊の貸し賃でいいからね」と、坊ちゃんからもう一冊手渡された。
「『諺臍の宿替』?」
表紙を見てええっと思う。
しかし俺の戸惑いとは裏腹に、豆千代さんは本を受け取ると、感嘆の声を上げていた。
「わあ! 面白そう」
そして嬉しそうに何度も頭を下げつつ帰って行った。
「あんな本、おなごが喜ぶかよ」
俺には坊ちゃんの選択がよくわからねえ。
「現に喜んでいたじゃないか。それにあれはフリガナが振ってあるし、勉強にもなるだろ」
「ええ、あれが勉強になるかぁ」
諺を絵にしたという滑稽本の流行作だが、諺の解説というよりはむしろ諺を弄んで小馬鹿にしたような、しかもかなり風刺めいた内容なのだ。
(けっこう、下品だしなあ。)
だがまあ、それが庶民には受けるのだろう。幕府時代から変わらず何度も再版されている。
坊ちゃんが机に肘をつきながら俺の方を見て笑う。
「こんなくだらないことを考える奴がいて、それを滑稽がる読み手がいる。そういうことを知るだけでも世界が広がるような気がしないか」
(へえ、なるほどね。)
なんだかよぉ、こういったところが坊ちゃんの思いやりなんだろうな。胸がじんとした。
狭い花街の世界で生きている彼女に対し、真面目でつまらない諺ですら面白おかしく茶化す世界があるのだということを、坊ちゃんは教えたかったのかもしれない――と。
俺は行商に出る準備を済ませて、そろそろ出かけようと思っていた矢先だった。
「ごめんください」
若い女性の柔らかな声がしたもんで、振り返ると、店の入り口に豆千代さんが立っていた。
坊ちゃんが声をかける。
「おや、豆千代さん、珍しいね」
「あの、今日はうちには来られないと思って」
豆千代さんがちらりと俺の顔を見たので、俺も首だけで軽く会釈した。
伊勢屋さんはご近所ではあるが、芸者らは忙しいこともあって、週に一、二度の割合で俺が本を背負って通っている。
それでもやっぱり店の方が本や錦絵の数も多いことから、こんなふうに直接、店までに来てくれることも少なくない。
けど……彼女が来店してくれたのは初めてじゃないかな。
「珠緒姐さんに頼まれたの。何か借りて来てと」
「へえ、珠緒さんに」
珠緒さんは石川が殺された後、御座敷を休んでいると聞いている。
「えっと……人情ものの気軽に読める本がいいって言うの。気が滅入って仕方が無いからって」
それを聞くと、坊ちゃんは体をずらして壁面の本棚へと這って行った。
入れ替わるように、俺が上がり框に腰を下ろして豆千代さんに声を掛けた。ほんの挨拶がわりの言葉のつもりで。
「珠緒さん、どんな様子だい」
すると豆千代さんの顔がグシャりと歪んで、俯いてしまったのだ。
しまった――と、迂闊な質問をしたことを後悔する。この子もあの現場に居たんだ。それなのに俺としたことが。
きっと思い出させてしまった。
豆千代さんは俯いたまま、ぼそぼそと答える。
「……うん、ずっと臥せっている。やっぱり石川様が殺されたのが怖かったみたい。長くご贔屓にして下さっていたから」
取り繕うように慰めの言葉をかけるしかなった。
「君は大丈夫かい。あんな現場に居合わせて」
自分の客であろうとなかろうと、死体と鉢合わせた豆千代の方が珠緒さんよりか余程怖かったと思うのだ。
だが、豆千代さんは小さく首を振った。
「うん、大丈夫」
一生懸命に、笑顔を貼り付けて俺を見上げる。
「だって、うちまで気を病んでしまったら、女将さんが心配するから。うち、女将さんに拾ってもらって、ずっと良くしてもらっているから。あまり迷惑をかけたくないの」
その健気な言葉に俺の鼻の奥がきゅっと熱くなっちまった。
幼くして妓楼や芸者屋に売られた少女らは、皆、それ相応の苦労を重ねているもんだ。それなのに腐ることもなく、気遣いを忘れずにいる豆千代の背景を考えると、同情心が疼くのだ。
「三四郎、これ渡して」
いきなり坊ちゃんに三冊の本を手渡された。
新作だった。
「私家版(自費出版のようなもの)の新作で、確か珠緒さんはこの作者が好きだったと思う。面白かったら、続きは三四郎に持って行かせるって言っておいてよ。今、六巻まで出ているからって」
版元をしていたお絹さんの実家では、こういった無名の作家を多く抱えている。
「ほらよ。三冊あるから、あんたも珠緒さんから借りて読んだらいい。連作だけど、一遍ずつでも面白く読める話ばかりだから」
坊ちゃんから受け取った本を豆千代さんに差し出す。だが、豆千代さんは首を横に振った。
「うち、字が読めないから、姐さんが読むのを聞いているの」
なるほど……だから、うちに来ることが無かったんだな。
洋灯が流行り出して、黙読が増えたとはいえ、未だ音読が主流だ。
本は一人で黙々と読むのではなく、声を出して読むことの方が多い。こういった大衆向けのは挿絵が多いのも楽しみの一つで、本は皆で楽しみ合うもんなんだ。
「じゃあ、これも付けてあげてよ。四冊で三冊の貸し賃でいいからね」と、坊ちゃんからもう一冊手渡された。
「『諺臍の宿替』?」
表紙を見てええっと思う。
しかし俺の戸惑いとは裏腹に、豆千代さんは本を受け取ると、感嘆の声を上げていた。
「わあ! 面白そう」
そして嬉しそうに何度も頭を下げつつ帰って行った。
「あんな本、おなごが喜ぶかよ」
俺には坊ちゃんの選択がよくわからねえ。
「現に喜んでいたじゃないか。それにあれはフリガナが振ってあるし、勉強にもなるだろ」
「ええ、あれが勉強になるかぁ」
諺を絵にしたという滑稽本の流行作だが、諺の解説というよりはむしろ諺を弄んで小馬鹿にしたような、しかもかなり風刺めいた内容なのだ。
(けっこう、下品だしなあ。)
だがまあ、それが庶民には受けるのだろう。幕府時代から変わらず何度も再版されている。
坊ちゃんが机に肘をつきながら俺の方を見て笑う。
「こんなくだらないことを考える奴がいて、それを滑稽がる読み手がいる。そういうことを知るだけでも世界が広がるような気がしないか」
(へえ、なるほどね。)
なんだかよぉ、こういったところが坊ちゃんの思いやりなんだろうな。胸がじんとした。
狭い花街の世界で生きている彼女に対し、真面目でつまらない諺ですら面白おかしく茶化す世界があるのだということを、坊ちゃんは教えたかったのかもしれない――と。
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