幻日~遠い日の夢

森野あとり

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幻日

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 あくる朝、やはりハツはいつものように早起きをして、庭を散策していた。

 日課のように、瓢箪池の鯉を眺める。
 金色に光る鯉は、戦の間もこの池で優雅に泳いていたのだろうか。肥った体をしなやかにくねらせ、水面に顔を出した。音もたてず静かに水紋を作ると、再びどこかへ泳ぎ去った。
 鯉に見飽きて空を見上げると、淡い紫から桃色に変わりゆく境目の所々が、薄雲で覆われていた。空の色が仕事に行く時間だと教えてくれる。
 ハツは立ち上がり、陣屋の方へと歩き出した。その時、人目を忍ぶように、通用門を出て行く人影が見えた。

「あれ?」

 ――あれは、確か昨日の……市村さまだ。間違いない。

 後を追って、こっそり門を出た。
 鉄之助は汚い風呂敷を襷がけにして甲州街道を西に向かって歩く。
 ハツはその後ろを黙ってつけた。
 少しばかり前を歩いていた鉄之助が、すぐに左の小路に折れた。思わず駆け寄り、彼の背後から声を掛けた。

「そっち行っても、行き止まりだべ。林に入ってくだけだよ。どこ行くつもりなの!」

 鉄之助が立ち止り振り返った。

「君がついて来るから、撒こうとしただけや。抜け出したりしたら、また叱られるぞ。さっさとけえろや」

 お国言葉で罵った。

「あんたこそ、どこ行くつもりだべ?」

 鉄之助を睨みつけ、再度同じ質問を投げた。
 鉄之助は目線を逸らし、呟くように言った。

「大垣にけえる。ここは辛い」

 ハツの頭に血が上る。

「なんでぇ?! おかみさんや旦那さんに挨拶も無しでか?礼儀知らず!」

 ――皆して、あんたの帰還をあんなに喜んでいたってのに、黙って出て行くなんて、ありえない!

 脳裏に、ノブのがっかりする顔が浮かんだ。
 それなのに、ふてくされた顔で鉄之助が言い訳をした。

「……挨拶なんかしたら、引き留められるだけだろ。ええか、俺は、副長の足手まといやったんじゃ。だから、最期まで一緒に居られんかった。届けもんは届けた。だからもう、俺の役目は、」

 ――バシッ!

 つつ、と近寄り、思い切り鉄之助の頬をひっぱたいた。

「なに、馬鹿なこと言ってんだあよ! 歳三さまが、どんな思いであんたをここに寄越したか、そんなことも分かんねえくらい、あんたはお子様なの? 歳三さまはね、あんたに大事な遺品を預けたんだよ。あんたが生きてここにたどり着くのを信じてたんだあよ。あんたは歳三さまから旦那さんへの最後の便りなんだって、わがらねえのけ! 旦那さんだって、もっともっと、歳三さまの話を聞きたいに違いないべ。ねえ、わかる? 歳三さまは、旦那さんにあんたを託したの! 旦那さんが帰れって言うまでは、勝手に出て行ったら駄目に決まってる! 命令違反だべえ!」

 言いたいことは山ほどあって、ハツは支離滅裂な文句を喚きながら泣いていた。
 なぜだか、ものすごく悔しい。

「なんで、君が泣くんや」

 バツが悪くなった鉄之助が、問いかける。
 ハツは感情に任せて言い放った。

「知るもんか!」

 ジーワジーワと、蝉が鳴き始めた。もう、太陽は昇りきっていた。
 はあぁーと、大きなため息を吐いて、鉄之助が苦笑いをこぼす。

「源之助さんにも『馬鹿だ』って言われたよ」
「馬鹿じゃもん」

 睨みをきかせたハツの顔を、悲しそうな目で見た。

「……君、幾つだ」
「なんで。幾つだって、あんたに関係ねえべ」
「俺に偉そうな口を利いたんだ。それに俺を叩いたろ。気になる」
「……十四」

 ベシっとハツのおでこを、指で弾いた。

「いだっ」
「俺は十六だ。年上に偉そうな口を利くな」

 ぐいっと、ハツの手を引いた。鉄之助の手はごつごつした硬い手だった。

「けえろか」

 ハツの手を引いて、さっき来た道を戻っていく。
 手を引かれながら、東に向かう空を見上げた。

「あっ」
「ああ」

 二人同時に見たものは……

「彩雲?五色だ」
「いんや、幻日げんじつや。副長と夕空の甲板で見た。お天道様の横で、おんなじ様に輝く五色の光……お天道様の幻」

 まだ低い位置にある太陽の真横。ちょうど左側の巻雲が、虹色に輝いていた。

「綺麗……」
「そうだな」

 また何か思い出したのだろうか。鉄之助がきゅっと強く、ハツの手を握った。

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