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二
尚の問題
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帰るなり、尚はベッドに寝転んだ。
「ナオ、手を洗ったの? すぐに夕飯よ」
返事をしない息子に、母がため息を吐いているのが聞こえた。
返事などできない。
尚は泣いていたから。
――もう、あきらめていたのに……
突っ伏して泣いていた。
――友達なんていらない。恋だってしない!
それでも、母をこれ以上心配させるのも嫌だった。
――もう、散々泣いたんだ。
枕カバーで涙を拭うと、ぐずぐずと起き上がり、制服を脱いだ。
痩せた身体。白いシャツの上からそっと、胸を押さえる。
ほんの少し、柔らかな感触がした。
悔しくて、ぎゅっとシャツを握りしめた。
唇を噛みながら、だぼだぼのトレーナーに着替え、一階へ下りていく。
父親は今日も残業なのだろうか。
中企業の中間管理職。四月、五月はいつも忙しそうだ。
夕食は母親と二人きり。
テレビもつけない静かな食卓。
味噌汁を啜る音だけが、やけに大きく聞こえる。
何かを言いたいのか、母親がちらちらと尚の方に目線を向ける。
尚には何となく、母の言いたいことがわかっていた。
わかっていつつ、それを話されるのが嫌で、拒絶するかのように母の方を一切見なかった。
無言の問いかけに、イライラしながら食事を終えようとした時、ついに母親が口を開いた。
「ねえ、ナオ。病院の次の予約、もうすぐよね」
ほら来た。
――やっぱり、そのこと……
「行かないよ」
ガタン、と音を立てて立ち上がった。
「僕、行かないって何度も言ったよね」
「一度だけよ。ちゃんと聞いたのは」
母の声が心なしか高ぶって聞こえた。
冷静を装ってはいるが、彼女は明らかに息子を思いのままにしたくて焦っている。
「行かない。治療は受けない」
「どうして! ナオの為なのよ!」
結局、母親って生き物は、自分の思い通りにいかなきゃ、こうやってヒステリックに喚くのだ。
母が『ナオの為』と必死になればなるほどに、尚の心は冷めていく。
「僕の為じゃない。母さんの為だろ?」
こんな風に、冷たくしたいわけじゃない。
でも、嫌なんだ。そんな目で見られるのは。
「そんなこと……」
「治療を受けなくっても、僕が生きるには、問題ないんだろ? なら僕はこのままでいい。何も変えたくないんだ」
母の目が痛くって、尚は視線を落としテーブルの皿を睨んだ。できるだけ冷静な声を作って言葉を足す。
「男でも女でもどっちでもいい」
「駄目よ」
「今は、今は僕は僕のままでいい。……そのうち必要だと思えば、治療する」
ガチャガチャと乱暴に食器を台所に運んだ。耳障りな音が、母の声を掻き消せばいいと思いながら。
「お医者さまは、第二次性徴期の間から治療をした方がいいって」
それでも母親の声は尚の耳に届いた。
「……生きて行けるなら、必要の無い治療だよ」
「ナオ一人で決めないで。パパにも」
「僕の体と心だ!」
性の問題を、父親と相談するなんて考えられない。
無神経だと腹が立った。
もうこれ以上、話をしたくなかった。
この話題だけじゃない。母親と話をすること自体が鬱陶しくなってきた。
母を傷付けるような棘のある言葉を口にする前に、この場から逃げ出した。
――カチャ
ドアには鍵が無い。
だから、引きこもっていた小六の時に、自分で掛け金タイプのフックを取り付けたのだ。
無理やり外から押し開ければ、外れてしまうような代物。それでも尚にとっては、精いっぱいの反抗だった。
――「僕の世界には入って来ないで。僕の世界を壊さないで」という主張。
この小さなカギを、両親は壊さないでくれた。
だから尚は今、学校に通えている。
ドアにもたれ、六畳の部屋を見渡す。
ベッドには大好きなパンダのぬいぐるみ。
机の上には、アニメのフィギュアが三体。
サイドテーブルにはパソコンとヘッドホン。本棚には文庫本と少女コミックと植物図鑑が並ぶ。
FPSゲームが好き。意外にホラーゲームも好き。Kポップアイドルが好き。服はユニセックスなのが好み。読書が好き。でもラノベは苦手。植物図鑑を眺めるのが好き。異世界転生ヒーローのアニメが好き。でも少女漫画も大好き。
――ねえ、この部屋を見て、男の部屋だと思う? 女の子の部屋だと思うの?
「ここは僕の部屋だもんねえ」
手垢で汚れたパンダを抱きしめた。
帰るなり、尚はベッドに寝転んだ。
「ナオ、手を洗ったの? すぐに夕飯よ」
返事をしない息子に、母がため息を吐いているのが聞こえた。
返事などできない。
尚は泣いていたから。
――もう、あきらめていたのに……
突っ伏して泣いていた。
――友達なんていらない。恋だってしない!
それでも、母をこれ以上心配させるのも嫌だった。
――もう、散々泣いたんだ。
枕カバーで涙を拭うと、ぐずぐずと起き上がり、制服を脱いだ。
痩せた身体。白いシャツの上からそっと、胸を押さえる。
ほんの少し、柔らかな感触がした。
悔しくて、ぎゅっとシャツを握りしめた。
唇を噛みながら、だぼだぼのトレーナーに着替え、一階へ下りていく。
父親は今日も残業なのだろうか。
中企業の中間管理職。四月、五月はいつも忙しそうだ。
夕食は母親と二人きり。
テレビもつけない静かな食卓。
味噌汁を啜る音だけが、やけに大きく聞こえる。
何かを言いたいのか、母親がちらちらと尚の方に目線を向ける。
尚には何となく、母の言いたいことがわかっていた。
わかっていつつ、それを話されるのが嫌で、拒絶するかのように母の方を一切見なかった。
無言の問いかけに、イライラしながら食事を終えようとした時、ついに母親が口を開いた。
「ねえ、ナオ。病院の次の予約、もうすぐよね」
ほら来た。
――やっぱり、そのこと……
「行かないよ」
ガタン、と音を立てて立ち上がった。
「僕、行かないって何度も言ったよね」
「一度だけよ。ちゃんと聞いたのは」
母の声が心なしか高ぶって聞こえた。
冷静を装ってはいるが、彼女は明らかに息子を思いのままにしたくて焦っている。
「行かない。治療は受けない」
「どうして! ナオの為なのよ!」
結局、母親って生き物は、自分の思い通りにいかなきゃ、こうやってヒステリックに喚くのだ。
母が『ナオの為』と必死になればなるほどに、尚の心は冷めていく。
「僕の為じゃない。母さんの為だろ?」
こんな風に、冷たくしたいわけじゃない。
でも、嫌なんだ。そんな目で見られるのは。
「そんなこと……」
「治療を受けなくっても、僕が生きるには、問題ないんだろ? なら僕はこのままでいい。何も変えたくないんだ」
母の目が痛くって、尚は視線を落としテーブルの皿を睨んだ。できるだけ冷静な声を作って言葉を足す。
「男でも女でもどっちでもいい」
「駄目よ」
「今は、今は僕は僕のままでいい。……そのうち必要だと思えば、治療する」
ガチャガチャと乱暴に食器を台所に運んだ。耳障りな音が、母の声を掻き消せばいいと思いながら。
「お医者さまは、第二次性徴期の間から治療をした方がいいって」
それでも母親の声は尚の耳に届いた。
「……生きて行けるなら、必要の無い治療だよ」
「ナオ一人で決めないで。パパにも」
「僕の体と心だ!」
性の問題を、父親と相談するなんて考えられない。
無神経だと腹が立った。
もうこれ以上、話をしたくなかった。
この話題だけじゃない。母親と話をすること自体が鬱陶しくなってきた。
母を傷付けるような棘のある言葉を口にする前に、この場から逃げ出した。
――カチャ
ドアには鍵が無い。
だから、引きこもっていた小六の時に、自分で掛け金タイプのフックを取り付けたのだ。
無理やり外から押し開ければ、外れてしまうような代物。それでも尚にとっては、精いっぱいの反抗だった。
――「僕の世界には入って来ないで。僕の世界を壊さないで」という主張。
この小さなカギを、両親は壊さないでくれた。
だから尚は今、学校に通えている。
ドアにもたれ、六畳の部屋を見渡す。
ベッドには大好きなパンダのぬいぐるみ。
机の上には、アニメのフィギュアが三体。
サイドテーブルにはパソコンとヘッドホン。本棚には文庫本と少女コミックと植物図鑑が並ぶ。
FPSゲームが好き。意外にホラーゲームも好き。Kポップアイドルが好き。服はユニセックスなのが好み。読書が好き。でもラノベは苦手。植物図鑑を眺めるのが好き。異世界転生ヒーローのアニメが好き。でも少女漫画も大好き。
――ねえ、この部屋を見て、男の部屋だと思う? 女の子の部屋だと思うの?
「ここは僕の部屋だもんねえ」
手垢で汚れたパンダを抱きしめた。
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初回公開日時 2019.01.25 22:29
初回完結日時 2019.08.16 21:21
再連載 2024.6.26~2024.7.31 完結
❦イラストは有償画像になります。
2024.7 加筆修正(eb)したものを再掲載
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