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第二話 因縁
若様のわがまま
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「誰だ、貴様!」
手首をかばいながらも、どすの利いた声で威嚇しようとする男に、宗次郎が諭すように言った。
「こんな人混みで、相手の素性も確かめずに刀を振り回すなんざ、御乱心もいいところだ」
「宗次郎!」
求馬の嬉しそうな声を無視して、宗次郎はひたすら男の顔を見据えた。むさくるしい無精髭、それでいて仕立ての良い袴。浪人ではなさそうだが……
「おのれ、武士を愚弄する気か!」
町人をいじめ、さらに止めに入った武士に無体を働いておいて、それでも己は武士だと威張り散らす。紀州ではこういう輩に遭ったことが無かった。だが、江戸では珍しくない。
「愚弄はどちらでございますか。さっき貴殿が言いがかりをつけて絡んでいたお人は、どこかの大店の者でしょう。言いがかりでもつけて強請るおつもりだったのですかね」
二人の仲間にも順ににらみを利かす。
「強請りたかりは番所へ届けよとの御触れ、ご存知ないとは言いますまい」
男の弛んだ涙袋が、ピクピクと痙攣している。堪えきれない怒りをすり潰すように歯ぎしりをすると、脇差の鯉口を切った。男の声が地を這うほどに低くなった。
「おのれ、ガキが舐めやがって」
それを合図に仲間の二人も抜刀した。
宗次郎は大きくため息を吐く。いくら腹が立ったとはいえ、真昼間の往来で、しかも城の西側と来れば武家の町である。こんな場所で武士が一度抜いた刀を、どう引っ込めるつもりなのだ。本気で血を流すつもりなのだろうかと、あまりにも愚かしい行動に、情けなくなる。
太平の世、市民を守るべき武士はここまで落ちぶれたのですよ……徳川の大親分。宗次郎は心の中で吉宗に向かって悪態を吐いた。
「罪状を増やしてどうするおつもりですか……」
ため息交じりに言いつつ、素早く膝を折った。
多分男たちの視界からは、宗次郎が消えたように見えたのだろう。慌てて視線を彷徨わせるも、すでに遅かった。
背後に回った宗次郎が大男の膝裏を蹴ると、男は無様に胸から倒れ込み、砂埃の舞う地面で顎を強打した。その背を踏みつけるように立つと、斬りかかってきた二人の刀をするりと避けた。
ガツン――返す勢いで繰り出した右手の裏拳が、目の前の男の鼻を射止める。もう一人は、刀を避けられた勢いで転んだまま、茫然とした顔で倒された二人を見ている。
シンと静まった大通りで、見ぬふりを決め込んでいた通行人までもが、足を止めて成り行きを見守っていた。
「おのれ、この無礼、赦されるとでも思うのか!」
倒れて足蹴にされたまま、なおも唸る男に、宗次郎は鼻で嗤った。そしてかがみこんで歯噛みする顔を覗き込む。
「これ、見えますか」
野次馬たちには見えないよう、そっと袖の中の餌差札をのぞかせた。
そこに見える紋様を見た男が息を呑む。怒りに染まっていた顔が一転、真っ青になった。
「あおい……の? え、げげ、まさか」
絶句し、言葉を失った男の耳にささやく。
「大きな声では言えませぬが、私、これでも公儀に隠密をしておりまする。あの遊び人を護るが私の役目」
真っ赤な大嘘だが、男には効果があったようだ。中途半端に開いた唇が震えている。
「わかったら、さっさと立ち去った方がいい。ついでに言うと、あんたが突き飛ばした遊び人は、かなりの大身でございますよ。下手すりゃ、その汚い腹を詰めただけでは追いつかない大事になりますが、どうします?」
「ひ、ひいぃ!」
飛び起きて逃げ去る大男に、残った二人も訳が分からないといった表情のまま追いかけた。走り去った三人の背中を冷ややかな眼差しで見送ると、求馬の方に向き直る。
「さて……と」
初めに絡まれていた町人は、抜刀騒ぎに発展したところで逃げていた。
残された求馬だけが、ぽかんとした顔で座り込んでいる。
「お武家さん、腰抜けちゃいましたかね」
呆れ顔を隠しもせず、求馬に向かって手を差し伸べた。
着流しを砂だらけにした求馬は、座り込んだまま嬉しそうな顔で宗次郎を見上げた。
「あいや、かたじけない、平気じゃ。ああいう弱い者いじめは許せなくてな」
あっけらかんと答え、宗次郎の手を取る。
「だが剣術はともかく、組手は苦手でなあ。ついでに手が汚れるのも好かぬ」
着物の裾をはたいた後で背を伸ばすと、笑みの形に細くなった二重の瞼は、宗次郎の目線よりもうんと高い位置になった。
改めて立ち居振る舞いを見ると、さほど弱そうに見えないから不思議である。
「手を出すための正当な言い訳を付けるためにわざとやられて見せたのですか」
「まさか、それは買いかぶりすぎじゃ。しかし、宗次郎、お主は見かけに似合わず、本当に強いのだな。そうだ! 助けてくれた礼だ。角吉へ行こうぞ」
結果、当初の目論見通り、求馬と出会うことが叶ったのだった。
◇
派手な紅を差した角吉の女将は、次々と出入りする客それぞれに愛嬌を振りまきながらも、宗次郎と求馬の前に小鉢を並べていく。
「今朝はね、活きのいいセイゴが入ってさ、新牛蒡と煮たんだよ。あとは焼き豆腐にそれから煮豆、飯は握りにするかい?」
急に色っぽい微笑みを向けられ、宗次郎はつっかえながら答える。
「え、あ、はい、握り飯で」
女将が頬を緩めて猫なで声を出す。
「かわいいねえ、あんたみたいな美人さんなら、毎日でも奢ってやりたいよ」
それに対して求馬が応える。
「そいつぁ、ありがてえが、そんなことをすりゃあ、旦那に叱られちまうんじゃねえか」
「あらま、求さんてば、心配してくれるのかい。で、求さんは何にするんだい」
「俺にはさっぱりとした汁をくれ。それと」
「お酒、でしょ」
宗次郎にしたよりも、もっと色気のあるしなを作って答えた。
女将の豊満な尻を眺めていた求馬が宗次郎の方へ向き直る。
「で、お主は俺に会いに来てくれたのか」
求馬もまた、半平太のように歯を見せ、にかっと笑った。
「お武家様が、そのように歯を見せて笑うもんじゃごさいません」
図星なのが悔しくて、つい可愛くない嫌味を口走ってしまった。だが、求馬に嫌味は通じなかったようだ。それどころか、肯定の返事だととらえたのか、さらに嬉しそうに声を立てて笑うではないか。
「そうか、そうか、嬉しいなあ」と。
「で、今日はは、九鬼丸さんは」
「またこんな所で」と、叱られやしないかと、店の出入り口を見ながら問うと、全く違う答えが返ってきた。
「宗次郎は和歌山の出か?」
問いで返され、戸惑ってしまった。しかも郷里を言い当てられている。
「いや、『今日は』のことを『今日わわ』と『は』を二度言うのは、和歌山のお国言葉だと、前に紀州殿が言うておったのを思い出してな」
思わず口に手をやった。お国言葉を出さぬよう気を付けていたのに、つい、こういう所でボロが出る。
別に求馬相手に、里を知られたところで何も困ることはないが、以後、気を付けようと思う。
しかし、上様とそんな会話を交わす間柄とは……
(ますます、油断ならないお方だ)
「まあ、そんなとこですね。雇い主の鳥屋の亭主が紀州の出なのです」
「ほう……そういや、九鬼丸の親父も紀伊の出だと聞いたことがあったな。あぁ、九鬼丸なら、今日も迷子じゃ。さっきまで座敷落語など聴きに行っておったのだが、気付いたら消えておった」
呆れた。
だが、九鬼丸の名を聞いて、ふと、昨日のことが頭に過った。
九鬼丸から、戸山荘のことは聞いていないのだろうかと。隠すような件ではない。むしろ耳に入れておくべきことだ。何しろ、求馬の遣いの後で遭遇した殺しの現場なのだから。
もしや自分を庇って黙っていてくれたのか……と九鬼丸に思いを馳せていると、求馬が顔を近づけて、とんでもないことを言った。
「どうした? 浮かぬ顔だな。それほどまでに九鬼丸が恋しいか」
「た、戯れを! ちがいます!」
慌ててかぶりを振る。その仕草が可笑しかったのか、余計に求馬を笑わせる羽目になってしまった。
「しかし、落語や見世物小屋も良いが、余は『ゆや』というものに行ってみたいと思うのじゃ」
「はあ?」
仰々しい物の言い方をしているが、とんでもないことを言い出された気がする。
「ゆや……とは、まさか湯屋のことにございますか」
「そうじゃ! それそれ。江戸っ子は朝も早うから湯屋にて体を清め、仕事を終えてはまた、湯屋にて埃と垢を落とすのだと言うじゃねえか」
「求さんなら、屋敷で体を清めることができますでしょうに」
豪華な内風呂と立派な桧の浴槽があって、それも侍女か何かに清めてもらえるのではなかろうか、と勝手な想像をする。
「しかも混浴にござるぞ」
声をひそめるほどの話でもあるまいと思うが、求馬の顔は大真面目である。
宗次郎は眉間に皺を作ると、
「じじい様にご相談なされまし。それで良いと仰せになられたのなら、九鬼丸殿に連れて行ってもらいなされ」
冷たく、きっぱりとお断り申し上げた。
求馬の眉間にも皺が寄る。
「素っ気ないことを申すな。つい先ほど土埃まみれになった。今すぐ清めたいのじゃ」
とにかく偉いお方というのは強引である。要望は通るものだと信じて疑っていないのだ。
◇◇
「ほう、ここから入るのか」
湯屋の石榴口(浴槽の部屋への入り口)を物珍し気に覗き見る求馬の尻を、九鬼丸がパチンと叩いた。
「さっさと入ってくれ、後ろがつかえている。まったく、何が悲しゅうて、昼間っから求馬と湯に入らにゃならねえんだ」
ぶつぶつと小言を垂れ流す九鬼丸は、あの後すぐに角吉にて求馬を見つけるという好機に恵まれたのだが、そのまま、しっかり丸め込まれ、求馬の我儘に付き合わされているというわけだ。
普段は盥の行水ですませている宗次郎は、久しぶりに湯屋の洗い場で体を擦って、ややひりひりしている背中を気にしながら、九鬼丸たちの後に続いた。
「ごめんよ、冷者でござんす、ごめんなすって」
九鬼丸が声をかけながら湯船に入っていく。
中は薄暗い上に湯気が立ち込め、湯に浸かっている者の人相すらわからない。
板の塀の向こう側は女湯らしく、姦しい声が男湯にまで聞こえていた。
「混浴じゃねえのか」
心なしか、いや、明らかにがっかりした表情の求馬に、
「当り前だ!」
と、九鬼丸が憮然と答えた。
「この湯屋は男と女に分かれておる。入込湯(混浴湯)などに連れて行ったことがばれたら、じじいに殺されちまう」
宗次郎は九鬼丸に尋ねてみた。
「その、『じじい様』とはいったいどういう御方ですか」
求馬を脅すに一番効果のある人物であることには違いない。
「ただの江戸留守居役じゃ。だが鬼の如く口うるさい。あやつは真面目に糞がつく。一緒に風呂場でこすり落としてしまいたいほど頑固な糞じゃ」
「求馬様が自由すぎるだけだ。我儘な若様を持つと、配下の者は気苦労が絶えぬ。じじいもまだまだわけぇのに、すっかり禿げ上がっちまったじゃねえか」
「それは俺のせいじゃねえぞ」
彼らの会話が面白すぎるのか、隣で体を沈めている男たちの肩が揺れている。
「……しかし、あれは捨ておけぬな」
求馬が声を落として呟いた。
宗次郎は昨日斬り捨てた賊のことを思い出し、どきりとした。
しかし九鬼丸が呑気な声で問い返す。
「あれ、とは」
「浅井殿の娘のことに決まっておろうが。聞くところによると、葬儀も出せず、ひっそりと弔われたというじゃねえか」
「おい、本気で首を突っ込む気か」
昨日の戸山荘の件ではなかったことに、やや安堵した宗次郎は、他人事のように二人の会話を聴いていた。
「あの思わせぶりな和歌を贈った男は生きているはずだ」
「だとしても、道ならざる恋路ならば、そっとしておいた方が御家のためじゃねえか」
九鬼丸が声を低くした。それに対して求馬の声は苛立ちを含んでいる。
「だからよ。だからその弱みにつけ込んで、たぶらかしたとも考えられねえか」
「やめてくれ。あっしは手を貸さねえぜ」
「宗次郎はどう思うよ」
求馬が宗次郎に話を振った。
「ど、どうもこうも、俺には……男と女のことはよくわかんねえから……」
「だろ、坊ちゃんにはまだ早すぎる案件だぜ」
九鬼丸が茶化す。
「死してでも、貴女のもとへ飛んでいきたい」とも取れる歌を手に、来ない男を待ちこがれ、そして独り寂しく身を投げた娘の心を慮る。
あの歌を贈った男は今……
のぼせそうな頭の隅に、濡れそぼった牡丹の花の紅が過った。
手首をかばいながらも、どすの利いた声で威嚇しようとする男に、宗次郎が諭すように言った。
「こんな人混みで、相手の素性も確かめずに刀を振り回すなんざ、御乱心もいいところだ」
「宗次郎!」
求馬の嬉しそうな声を無視して、宗次郎はひたすら男の顔を見据えた。むさくるしい無精髭、それでいて仕立ての良い袴。浪人ではなさそうだが……
「おのれ、武士を愚弄する気か!」
町人をいじめ、さらに止めに入った武士に無体を働いておいて、それでも己は武士だと威張り散らす。紀州ではこういう輩に遭ったことが無かった。だが、江戸では珍しくない。
「愚弄はどちらでございますか。さっき貴殿が言いがかりをつけて絡んでいたお人は、どこかの大店の者でしょう。言いがかりでもつけて強請るおつもりだったのですかね」
二人の仲間にも順ににらみを利かす。
「強請りたかりは番所へ届けよとの御触れ、ご存知ないとは言いますまい」
男の弛んだ涙袋が、ピクピクと痙攣している。堪えきれない怒りをすり潰すように歯ぎしりをすると、脇差の鯉口を切った。男の声が地を這うほどに低くなった。
「おのれ、ガキが舐めやがって」
それを合図に仲間の二人も抜刀した。
宗次郎は大きくため息を吐く。いくら腹が立ったとはいえ、真昼間の往来で、しかも城の西側と来れば武家の町である。こんな場所で武士が一度抜いた刀を、どう引っ込めるつもりなのだ。本気で血を流すつもりなのだろうかと、あまりにも愚かしい行動に、情けなくなる。
太平の世、市民を守るべき武士はここまで落ちぶれたのですよ……徳川の大親分。宗次郎は心の中で吉宗に向かって悪態を吐いた。
「罪状を増やしてどうするおつもりですか……」
ため息交じりに言いつつ、素早く膝を折った。
多分男たちの視界からは、宗次郎が消えたように見えたのだろう。慌てて視線を彷徨わせるも、すでに遅かった。
背後に回った宗次郎が大男の膝裏を蹴ると、男は無様に胸から倒れ込み、砂埃の舞う地面で顎を強打した。その背を踏みつけるように立つと、斬りかかってきた二人の刀をするりと避けた。
ガツン――返す勢いで繰り出した右手の裏拳が、目の前の男の鼻を射止める。もう一人は、刀を避けられた勢いで転んだまま、茫然とした顔で倒された二人を見ている。
シンと静まった大通りで、見ぬふりを決め込んでいた通行人までもが、足を止めて成り行きを見守っていた。
「おのれ、この無礼、赦されるとでも思うのか!」
倒れて足蹴にされたまま、なおも唸る男に、宗次郎は鼻で嗤った。そしてかがみこんで歯噛みする顔を覗き込む。
「これ、見えますか」
野次馬たちには見えないよう、そっと袖の中の餌差札をのぞかせた。
そこに見える紋様を見た男が息を呑む。怒りに染まっていた顔が一転、真っ青になった。
「あおい……の? え、げげ、まさか」
絶句し、言葉を失った男の耳にささやく。
「大きな声では言えませぬが、私、これでも公儀に隠密をしておりまする。あの遊び人を護るが私の役目」
真っ赤な大嘘だが、男には効果があったようだ。中途半端に開いた唇が震えている。
「わかったら、さっさと立ち去った方がいい。ついでに言うと、あんたが突き飛ばした遊び人は、かなりの大身でございますよ。下手すりゃ、その汚い腹を詰めただけでは追いつかない大事になりますが、どうします?」
「ひ、ひいぃ!」
飛び起きて逃げ去る大男に、残った二人も訳が分からないといった表情のまま追いかけた。走り去った三人の背中を冷ややかな眼差しで見送ると、求馬の方に向き直る。
「さて……と」
初めに絡まれていた町人は、抜刀騒ぎに発展したところで逃げていた。
残された求馬だけが、ぽかんとした顔で座り込んでいる。
「お武家さん、腰抜けちゃいましたかね」
呆れ顔を隠しもせず、求馬に向かって手を差し伸べた。
着流しを砂だらけにした求馬は、座り込んだまま嬉しそうな顔で宗次郎を見上げた。
「あいや、かたじけない、平気じゃ。ああいう弱い者いじめは許せなくてな」
あっけらかんと答え、宗次郎の手を取る。
「だが剣術はともかく、組手は苦手でなあ。ついでに手が汚れるのも好かぬ」
着物の裾をはたいた後で背を伸ばすと、笑みの形に細くなった二重の瞼は、宗次郎の目線よりもうんと高い位置になった。
改めて立ち居振る舞いを見ると、さほど弱そうに見えないから不思議である。
「手を出すための正当な言い訳を付けるためにわざとやられて見せたのですか」
「まさか、それは買いかぶりすぎじゃ。しかし、宗次郎、お主は見かけに似合わず、本当に強いのだな。そうだ! 助けてくれた礼だ。角吉へ行こうぞ」
結果、当初の目論見通り、求馬と出会うことが叶ったのだった。
◇
派手な紅を差した角吉の女将は、次々と出入りする客それぞれに愛嬌を振りまきながらも、宗次郎と求馬の前に小鉢を並べていく。
「今朝はね、活きのいいセイゴが入ってさ、新牛蒡と煮たんだよ。あとは焼き豆腐にそれから煮豆、飯は握りにするかい?」
急に色っぽい微笑みを向けられ、宗次郎はつっかえながら答える。
「え、あ、はい、握り飯で」
女将が頬を緩めて猫なで声を出す。
「かわいいねえ、あんたみたいな美人さんなら、毎日でも奢ってやりたいよ」
それに対して求馬が応える。
「そいつぁ、ありがてえが、そんなことをすりゃあ、旦那に叱られちまうんじゃねえか」
「あらま、求さんてば、心配してくれるのかい。で、求さんは何にするんだい」
「俺にはさっぱりとした汁をくれ。それと」
「お酒、でしょ」
宗次郎にしたよりも、もっと色気のあるしなを作って答えた。
女将の豊満な尻を眺めていた求馬が宗次郎の方へ向き直る。
「で、お主は俺に会いに来てくれたのか」
求馬もまた、半平太のように歯を見せ、にかっと笑った。
「お武家様が、そのように歯を見せて笑うもんじゃごさいません」
図星なのが悔しくて、つい可愛くない嫌味を口走ってしまった。だが、求馬に嫌味は通じなかったようだ。それどころか、肯定の返事だととらえたのか、さらに嬉しそうに声を立てて笑うではないか。
「そうか、そうか、嬉しいなあ」と。
「で、今日はは、九鬼丸さんは」
「またこんな所で」と、叱られやしないかと、店の出入り口を見ながら問うと、全く違う答えが返ってきた。
「宗次郎は和歌山の出か?」
問いで返され、戸惑ってしまった。しかも郷里を言い当てられている。
「いや、『今日は』のことを『今日わわ』と『は』を二度言うのは、和歌山のお国言葉だと、前に紀州殿が言うておったのを思い出してな」
思わず口に手をやった。お国言葉を出さぬよう気を付けていたのに、つい、こういう所でボロが出る。
別に求馬相手に、里を知られたところで何も困ることはないが、以後、気を付けようと思う。
しかし、上様とそんな会話を交わす間柄とは……
(ますます、油断ならないお方だ)
「まあ、そんなとこですね。雇い主の鳥屋の亭主が紀州の出なのです」
「ほう……そういや、九鬼丸の親父も紀伊の出だと聞いたことがあったな。あぁ、九鬼丸なら、今日も迷子じゃ。さっきまで座敷落語など聴きに行っておったのだが、気付いたら消えておった」
呆れた。
だが、九鬼丸の名を聞いて、ふと、昨日のことが頭に過った。
九鬼丸から、戸山荘のことは聞いていないのだろうかと。隠すような件ではない。むしろ耳に入れておくべきことだ。何しろ、求馬の遣いの後で遭遇した殺しの現場なのだから。
もしや自分を庇って黙っていてくれたのか……と九鬼丸に思いを馳せていると、求馬が顔を近づけて、とんでもないことを言った。
「どうした? 浮かぬ顔だな。それほどまでに九鬼丸が恋しいか」
「た、戯れを! ちがいます!」
慌ててかぶりを振る。その仕草が可笑しかったのか、余計に求馬を笑わせる羽目になってしまった。
「しかし、落語や見世物小屋も良いが、余は『ゆや』というものに行ってみたいと思うのじゃ」
「はあ?」
仰々しい物の言い方をしているが、とんでもないことを言い出された気がする。
「ゆや……とは、まさか湯屋のことにございますか」
「そうじゃ! それそれ。江戸っ子は朝も早うから湯屋にて体を清め、仕事を終えてはまた、湯屋にて埃と垢を落とすのだと言うじゃねえか」
「求さんなら、屋敷で体を清めることができますでしょうに」
豪華な内風呂と立派な桧の浴槽があって、それも侍女か何かに清めてもらえるのではなかろうか、と勝手な想像をする。
「しかも混浴にござるぞ」
声をひそめるほどの話でもあるまいと思うが、求馬の顔は大真面目である。
宗次郎は眉間に皺を作ると、
「じじい様にご相談なされまし。それで良いと仰せになられたのなら、九鬼丸殿に連れて行ってもらいなされ」
冷たく、きっぱりとお断り申し上げた。
求馬の眉間にも皺が寄る。
「素っ気ないことを申すな。つい先ほど土埃まみれになった。今すぐ清めたいのじゃ」
とにかく偉いお方というのは強引である。要望は通るものだと信じて疑っていないのだ。
◇◇
「ほう、ここから入るのか」
湯屋の石榴口(浴槽の部屋への入り口)を物珍し気に覗き見る求馬の尻を、九鬼丸がパチンと叩いた。
「さっさと入ってくれ、後ろがつかえている。まったく、何が悲しゅうて、昼間っから求馬と湯に入らにゃならねえんだ」
ぶつぶつと小言を垂れ流す九鬼丸は、あの後すぐに角吉にて求馬を見つけるという好機に恵まれたのだが、そのまま、しっかり丸め込まれ、求馬の我儘に付き合わされているというわけだ。
普段は盥の行水ですませている宗次郎は、久しぶりに湯屋の洗い場で体を擦って、ややひりひりしている背中を気にしながら、九鬼丸たちの後に続いた。
「ごめんよ、冷者でござんす、ごめんなすって」
九鬼丸が声をかけながら湯船に入っていく。
中は薄暗い上に湯気が立ち込め、湯に浸かっている者の人相すらわからない。
板の塀の向こう側は女湯らしく、姦しい声が男湯にまで聞こえていた。
「混浴じゃねえのか」
心なしか、いや、明らかにがっかりした表情の求馬に、
「当り前だ!」
と、九鬼丸が憮然と答えた。
「この湯屋は男と女に分かれておる。入込湯(混浴湯)などに連れて行ったことがばれたら、じじいに殺されちまう」
宗次郎は九鬼丸に尋ねてみた。
「その、『じじい様』とはいったいどういう御方ですか」
求馬を脅すに一番効果のある人物であることには違いない。
「ただの江戸留守居役じゃ。だが鬼の如く口うるさい。あやつは真面目に糞がつく。一緒に風呂場でこすり落としてしまいたいほど頑固な糞じゃ」
「求馬様が自由すぎるだけだ。我儘な若様を持つと、配下の者は気苦労が絶えぬ。じじいもまだまだわけぇのに、すっかり禿げ上がっちまったじゃねえか」
「それは俺のせいじゃねえぞ」
彼らの会話が面白すぎるのか、隣で体を沈めている男たちの肩が揺れている。
「……しかし、あれは捨ておけぬな」
求馬が声を落として呟いた。
宗次郎は昨日斬り捨てた賊のことを思い出し、どきりとした。
しかし九鬼丸が呑気な声で問い返す。
「あれ、とは」
「浅井殿の娘のことに決まっておろうが。聞くところによると、葬儀も出せず、ひっそりと弔われたというじゃねえか」
「おい、本気で首を突っ込む気か」
昨日の戸山荘の件ではなかったことに、やや安堵した宗次郎は、他人事のように二人の会話を聴いていた。
「あの思わせぶりな和歌を贈った男は生きているはずだ」
「だとしても、道ならざる恋路ならば、そっとしておいた方が御家のためじゃねえか」
九鬼丸が声を低くした。それに対して求馬の声は苛立ちを含んでいる。
「だからよ。だからその弱みにつけ込んで、たぶらかしたとも考えられねえか」
「やめてくれ。あっしは手を貸さねえぜ」
「宗次郎はどう思うよ」
求馬が宗次郎に話を振った。
「ど、どうもこうも、俺には……男と女のことはよくわかんねえから……」
「だろ、坊ちゃんにはまだ早すぎる案件だぜ」
九鬼丸が茶化す。
「死してでも、貴女のもとへ飛んでいきたい」とも取れる歌を手に、来ない男を待ちこがれ、そして独り寂しく身を投げた娘の心を慮る。
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