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第二話 因縁
宗次郎の描いた絵図
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宗次郎は乙八はクロだと、会って確信していた。あれはお美津さんの死に、大いに加担している……と。
この界隈にはもう一つ八幡宮があった。外堀沿いにある市ヶ谷八幡宮である。
人が絶えない市ヶ谷八幡宮は市ヶ谷御門の真向かいで、尾張藩の*上屋敷に隣接し、近所には立派な寺もある。
お美津はここの縁日に乙八と逢引きをしていたらしいが、縁日の賑わいを想像すると、偶然、出逢ったというわけではないだろうと思えて仕方がない。偶然を装い、誰かが二人を出逢わせたに違いない、と疑っていた。
裏の取れない、言わば憶測の枠を出ることがない仮説であるが、宗次郎にはその誰かが、誰なのかわかった気がするのだ。
そしてもう一つ確信したことがある。
乙八にとって、この界隈は忌々しい土地に違いないはずなのに、それでも恵光寺からほど近いこの地に居座っているのには、やはり理由があるのだ。
(それには、あの和歌を書いたもう一人の人物がかかわっとる)
その人物こそが、お美津と乙八を出逢わせた誰かなのだと推察し、その憶測に歯噛みする。
「嫌な結末になりそうや」
噛みしめた奥歯が耳障りな音を立てた。
(あとはどうやってお美津さんをどんどんまで運んだか……や)
船河原橋を渡りながら、行きかう舟を見送った。
乙八を張ると決めて、宗次郎が動いたのは、〈くめや〉へ行ったその夜だった。
一旦、紀伊国屋に戻り、雲雀に上様からの下知と、乙八を見張る旨を伝え、餌差の格好に着替えてから、再び筑土明神の門前町に戻った。
〈くめや〉の向かいの宿の屋根に潜む。
その夜、乙八はくめやから出ることはなかった。乙八が動いたのは明くる日の昼下がり……
乙八がくめやを出て向かったのは、筑土明神の末社。例の商家の若者との逢瀬だった。
しばらく人気のない雑木の陰で睦み合っていた。そのうち、どんよりとした空から雨が降り出した。
雨脚はそれほど強くないが、しとしととやみそうにない空を見上げると、名残惜しそうに別れて行った。
乙八の後ろ姿を見送った後、宗次郎が追ったのは、相手の若者。つかず離れす後をつけると、やがて揚場町の船宿に入って行った。
「お帰りなさいまし、若。傘も持たずにどこへ行ってらしたんですかい」
店先で客の相手をしていた船頭が声をかけていた。
(なるほど)と、宗次郎は納得した。
宗次郎の頭の中に、お美津の身投げに関する絵図が完成した。
◇
明くる日から、宗次郎は揚場町に近い外堀沿いの道や、寺社の杜の近くで雀を狙いながら船宿の若を見張っていた。今朝はあることを思い立ち、早朝から日本橋まで歩いて戻ってきたところだった。今はどんどんの手前の土手にて気ままに小鳥を狙っている。
そのうち柳の枝を揺らしていた小鳥を捕らえた。ヤマガラだ。
「お! すげえ」
ちょいっと軽くとり餅にくっつけたところで、九鬼丸の声がした。
振り返ると、川の向こう岸で九鬼丸が手を振っている。隣には求馬もいた。宗次郎は竿先でもがいている小鳥の羽根をなるべく傷つけぬよう注意深く剥がすと、腰の籠に突っ込み、駆け足で船河原橋を渡った。
「お二人そろって」
「おおよ。求馬のわがままに付き合わされている。ま、おかげで庭掃除を免れた」
九鬼丸が笑いながら求馬の脇腹を突く。
「今日はどこへ?」
すでに昼前だ。
「朝から城に出向いていた故、息抜きじゃ。飯を食って、その後は落語を聞きに行く」
答えた求馬の顔は朗らかに見えるが、どこか沈んでいるように思えた。
もしや、戸山屋敷の件について、何か掴んだのであろうか――と邪推する。それは求馬にとって心苦しい内情で、それを上様に報告するための登城であったのでは。それとも、上様からさらなる無理難題を吹っ掛けられたのか。あるいは……
頭の中で様々な憶測を巡らせている宗次郎に求馬が問うた。
「宗次郎、昼は食ったか」
「いいえ」と答えた宗次郎の肩を九鬼丸がガシッと組み、「では、求さまお気に入りの角吉でも行こうじゃねえか」と、求馬の前を歩き出す。
「きゅ、求馬様?」
主人の前を歩く不届き者の九鬼丸に、宗次郎が慌てて振り向くが、求馬は意に介さずといった表情で笑っていた。
「なんじゃ、その呼び方は、改まって。宗次郎は『求さん』で良い良い」
「そうじゃ、そうじゃ」
九鬼丸といっしょになって戯言を言う求馬は、すでにいつもの顔に戻っていた。
◇◇
二人と別れ、向かったのは北町奉行所。そこであの日、お美津の検視をしていた同心を紹介してもらった。
「お前さんはあの時の」
定廻りの同心は、嶋田という。午後は書付の仕事をしていたらしく、首を鳴らしながら宗次郎の前に現れた。
「はい、あの時の餌差にございます。嶋田様のお耳に入れたい件がございまして」
「もしや、まだ浅井殿の件を」
「嶋田様も諦めてはいないのでしょう」
乙八を張っていた今朝、同じように〈くめや〉を見張る小者の姿を見た。おおかた誰かの放った御用聞きか、手下であろうと踏んでいた。
宗次郎は真っ向から嶋田の目を見据えた。
「私はだいたいの絵図が描けましたよ」
「なんだと」
宗次郎の挑戦的な言葉を聞くや、嶋田は周りを見回し、顎で出口を指し示した。そしてふいと、奉行所を出て歩き出した。
呉服橋を渡ってから歩くことしばし。雨の上がった八丁堀は風が止まり、湿気だけが残って蒸せた。
宗次郎がついて来ていることを確かめると、嶋田はひなびた水茶屋に入り、腰を下ろした。客は居ず、嶋田と宗次郎の二人きりであった。
「上には止めておけと言われている。娘の身投げは覆しようがねえんだから、とさ。疑っていた与力殿も諦めちまったようだ」
「でも納得がいかない」
「ああ」
片や身投げ、片や自由になって新たな恋をしている。納得いくはずがない。
「お美津さんの身辺を探っても、乙八以外に男の影などなかった」
冷ました麦湯で喉を潤すと、嶋田は通りの方に目をやった。
嶋田の横顔に向かって問うた。
「身投げの前日の様子は聞かれていますか」
「もちろんだ」
その夜のお美津の行動がカギなのだ。それを確かめられれば、自分の描いた絵図を堂々と示すことができる。
「俺が自ら家の者に聴き取りをした。……美津は身投げの前日、夕餉を残し、気分がすぐれないと言って早々と部屋に入ったらしい。静かにしていたいから、誰も来ないでと言われたと、下女が泣きながら証言した」
その様子を思い出したのだろうか。一つ長いため息を逃がすように息を吐くと、麦湯で喉を潤す。
「……まさかあんなことになるとは思いもしなかったのだろうよ。その後は、お美津の部屋には近寄らなかったそうだ。一方、浅井殿は仕事の付き合いで帰宅が遅く、お美津の出迎えは受けていない。御内儀は浅井殿と共にいて、夕餉の後はお美津の姿を見ていない……とのことだ」
「やはり。お美津さんは夕餉の後すぐに家を出たのでしょう」
誘い出したのは乙八。それは手紙なのか、あるいはもっと前――例えば前回の縁日の逢瀬で約束したのか、そこまでは定かではないが。ただ仕掛けられた恋に抗えなかったお美津は、まんまと夜のうちに家を出てしまったのだ。
「だが、足取りはわからず仕舞いだ」
「あくまでも私の考えですが」
前置きして、宗次郎は自分の描いた絵図を説明した。
「浅井殿の屋敷は番町。牛込御門を越えれば、どんどんまですぐです」
「いや、それは我らも考えた。しかし、身投げしたのは夜明け前。夕刻からどうやって夜を明かしたというのだ。一応、その辺りの色茶屋にも聞き込みはしたぞ。明け前に宿を出た女にも、お美津らしい泊り客はなかった。まあ、俺たちが調べ切れていねえのかも知れねえが」
「そんなことはないでしょう。あの着物は目立ちますよ」
あの日のお美津の着物は、町娘が着るような縞や矢柄や小紋ではなく、大振りな牡丹の手描き友禅だった。質素倹約を掲げる吉宗の政策下、あの派手な着物で泊まっていたのなら、誰でも憶えているだろう。
「私たちはどんどんで死んでいたことを手掛かりにして探していたから見つけられなかったんです」
嶋田が怪訝な顔をした。
自分の描いた絵図を、筋道立てて説明するために、宗次郎は麦湯を喉に流し込むと目を閉じ、頭の中を整理した。
瞼を開け、嶋田の顔をうかがうように見上げる。
「多分、お美津さんは揚場の方には向かわず、日本橋に向かって歩いたと思われます」
「いや、それはねぇだろ。旗本のお嬢さんだ。しかも大奥で勤めていたとくりゃ、相当の箱入りだぞ」
嶋田の反論は百も承知だ。日本橋は入水現場であるどんどんと反対方向。歩くとなると二里近くはある。
反論する嶋田に、宗次郎は黙って首を振った。
彼女は月光院の使い版をしていたころ、神楽坂の料理茶屋だけでなく、日本橋の船宿にも通っているのだ。駕籠を使うことも舟を雇うことだって慣れたものだと推察する。その知恵を働かせたのが乙八ではなくお美津からだとしたら、乙八に罪の意識が薄いのも納得できる。
「少し歩いて麴町あたりで駕籠を雇ったとも考えられませんか」
「確かに、そっち方面への探索はやっちゃいねえが……日本橋まで下って何になるってんだ。どんどんとはまるっきり逆方向じゃねえか」
「舟を拾えます。あらかじめ待ち受けていた屋形船にでも乗り込み、そこで落ち合う」
「ふむ」
「そのまま神田川を上り、どんどんまで運んでもらう。その船で一夜を過ごしたのち、夜更けに揃って身投げの約束だった。だが、男は現れず、あるいは裏切って、お美津だけが水に沈められた。どうです?」
「なるほど。で、日本橋の船宿を探れと言いてえのか」
「いえ、揚場にある〈旭屋〉という船宿の坊ちゃんをしょっ引いてもらいたいのです」
「あの男か」
「ええ、旦那も調べはついているんでしょう」
やはり〈くめや〉に張り付いていた小者は、嶋田が放った手下だったようだ。
「あいつは乙八の今の男ですよ」
--------------------
*上屋敷
大名には江戸で駐在させるための屋敷地が幕府より下賜されていました。
上屋敷は藩主やその家族が住まい、藩庁機構などを構え、江戸での重要な役割を果たしていました。
中屋敷には隠居した前藩主や成人した御世継が住まうことが多かったようです。が、尾張家は30以上の屋敷地を拝領し、八カ所もの屋敷を持っていたそうです。逆に、財政苦を理由に屋敷地の返上を願う大名もありました。屋敷を維持するというのは、それほど経費が掛かったのです。
また、戸山荘のような下屋敷は、上屋敷が火事に遭った時の避難地や、貯蔵庫としての役割を果たすことが多く、中には妾を住まわせている藩も。ただ単に遊興のために造ったものもあります。下屋敷の用途は様々でした。
この界隈にはもう一つ八幡宮があった。外堀沿いにある市ヶ谷八幡宮である。
人が絶えない市ヶ谷八幡宮は市ヶ谷御門の真向かいで、尾張藩の*上屋敷に隣接し、近所には立派な寺もある。
お美津はここの縁日に乙八と逢引きをしていたらしいが、縁日の賑わいを想像すると、偶然、出逢ったというわけではないだろうと思えて仕方がない。偶然を装い、誰かが二人を出逢わせたに違いない、と疑っていた。
裏の取れない、言わば憶測の枠を出ることがない仮説であるが、宗次郎にはその誰かが、誰なのかわかった気がするのだ。
そしてもう一つ確信したことがある。
乙八にとって、この界隈は忌々しい土地に違いないはずなのに、それでも恵光寺からほど近いこの地に居座っているのには、やはり理由があるのだ。
(それには、あの和歌を書いたもう一人の人物がかかわっとる)
その人物こそが、お美津と乙八を出逢わせた誰かなのだと推察し、その憶測に歯噛みする。
「嫌な結末になりそうや」
噛みしめた奥歯が耳障りな音を立てた。
(あとはどうやってお美津さんをどんどんまで運んだか……や)
船河原橋を渡りながら、行きかう舟を見送った。
乙八を張ると決めて、宗次郎が動いたのは、〈くめや〉へ行ったその夜だった。
一旦、紀伊国屋に戻り、雲雀に上様からの下知と、乙八を見張る旨を伝え、餌差の格好に着替えてから、再び筑土明神の門前町に戻った。
〈くめや〉の向かいの宿の屋根に潜む。
その夜、乙八はくめやから出ることはなかった。乙八が動いたのは明くる日の昼下がり……
乙八がくめやを出て向かったのは、筑土明神の末社。例の商家の若者との逢瀬だった。
しばらく人気のない雑木の陰で睦み合っていた。そのうち、どんよりとした空から雨が降り出した。
雨脚はそれほど強くないが、しとしととやみそうにない空を見上げると、名残惜しそうに別れて行った。
乙八の後ろ姿を見送った後、宗次郎が追ったのは、相手の若者。つかず離れす後をつけると、やがて揚場町の船宿に入って行った。
「お帰りなさいまし、若。傘も持たずにどこへ行ってらしたんですかい」
店先で客の相手をしていた船頭が声をかけていた。
(なるほど)と、宗次郎は納得した。
宗次郎の頭の中に、お美津の身投げに関する絵図が完成した。
◇
明くる日から、宗次郎は揚場町に近い外堀沿いの道や、寺社の杜の近くで雀を狙いながら船宿の若を見張っていた。今朝はあることを思い立ち、早朝から日本橋まで歩いて戻ってきたところだった。今はどんどんの手前の土手にて気ままに小鳥を狙っている。
そのうち柳の枝を揺らしていた小鳥を捕らえた。ヤマガラだ。
「お! すげえ」
ちょいっと軽くとり餅にくっつけたところで、九鬼丸の声がした。
振り返ると、川の向こう岸で九鬼丸が手を振っている。隣には求馬もいた。宗次郎は竿先でもがいている小鳥の羽根をなるべく傷つけぬよう注意深く剥がすと、腰の籠に突っ込み、駆け足で船河原橋を渡った。
「お二人そろって」
「おおよ。求馬のわがままに付き合わされている。ま、おかげで庭掃除を免れた」
九鬼丸が笑いながら求馬の脇腹を突く。
「今日はどこへ?」
すでに昼前だ。
「朝から城に出向いていた故、息抜きじゃ。飯を食って、その後は落語を聞きに行く」
答えた求馬の顔は朗らかに見えるが、どこか沈んでいるように思えた。
もしや、戸山屋敷の件について、何か掴んだのであろうか――と邪推する。それは求馬にとって心苦しい内情で、それを上様に報告するための登城であったのでは。それとも、上様からさらなる無理難題を吹っ掛けられたのか。あるいは……
頭の中で様々な憶測を巡らせている宗次郎に求馬が問うた。
「宗次郎、昼は食ったか」
「いいえ」と答えた宗次郎の肩を九鬼丸がガシッと組み、「では、求さまお気に入りの角吉でも行こうじゃねえか」と、求馬の前を歩き出す。
「きゅ、求馬様?」
主人の前を歩く不届き者の九鬼丸に、宗次郎が慌てて振り向くが、求馬は意に介さずといった表情で笑っていた。
「なんじゃ、その呼び方は、改まって。宗次郎は『求さん』で良い良い」
「そうじゃ、そうじゃ」
九鬼丸といっしょになって戯言を言う求馬は、すでにいつもの顔に戻っていた。
◇◇
二人と別れ、向かったのは北町奉行所。そこであの日、お美津の検視をしていた同心を紹介してもらった。
「お前さんはあの時の」
定廻りの同心は、嶋田という。午後は書付の仕事をしていたらしく、首を鳴らしながら宗次郎の前に現れた。
「はい、あの時の餌差にございます。嶋田様のお耳に入れたい件がございまして」
「もしや、まだ浅井殿の件を」
「嶋田様も諦めてはいないのでしょう」
乙八を張っていた今朝、同じように〈くめや〉を見張る小者の姿を見た。おおかた誰かの放った御用聞きか、手下であろうと踏んでいた。
宗次郎は真っ向から嶋田の目を見据えた。
「私はだいたいの絵図が描けましたよ」
「なんだと」
宗次郎の挑戦的な言葉を聞くや、嶋田は周りを見回し、顎で出口を指し示した。そしてふいと、奉行所を出て歩き出した。
呉服橋を渡ってから歩くことしばし。雨の上がった八丁堀は風が止まり、湿気だけが残って蒸せた。
宗次郎がついて来ていることを確かめると、嶋田はひなびた水茶屋に入り、腰を下ろした。客は居ず、嶋田と宗次郎の二人きりであった。
「上には止めておけと言われている。娘の身投げは覆しようがねえんだから、とさ。疑っていた与力殿も諦めちまったようだ」
「でも納得がいかない」
「ああ」
片や身投げ、片や自由になって新たな恋をしている。納得いくはずがない。
「お美津さんの身辺を探っても、乙八以外に男の影などなかった」
冷ました麦湯で喉を潤すと、嶋田は通りの方に目をやった。
嶋田の横顔に向かって問うた。
「身投げの前日の様子は聞かれていますか」
「もちろんだ」
その夜のお美津の行動がカギなのだ。それを確かめられれば、自分の描いた絵図を堂々と示すことができる。
「俺が自ら家の者に聴き取りをした。……美津は身投げの前日、夕餉を残し、気分がすぐれないと言って早々と部屋に入ったらしい。静かにしていたいから、誰も来ないでと言われたと、下女が泣きながら証言した」
その様子を思い出したのだろうか。一つ長いため息を逃がすように息を吐くと、麦湯で喉を潤す。
「……まさかあんなことになるとは思いもしなかったのだろうよ。その後は、お美津の部屋には近寄らなかったそうだ。一方、浅井殿は仕事の付き合いで帰宅が遅く、お美津の出迎えは受けていない。御内儀は浅井殿と共にいて、夕餉の後はお美津の姿を見ていない……とのことだ」
「やはり。お美津さんは夕餉の後すぐに家を出たのでしょう」
誘い出したのは乙八。それは手紙なのか、あるいはもっと前――例えば前回の縁日の逢瀬で約束したのか、そこまでは定かではないが。ただ仕掛けられた恋に抗えなかったお美津は、まんまと夜のうちに家を出てしまったのだ。
「だが、足取りはわからず仕舞いだ」
「あくまでも私の考えですが」
前置きして、宗次郎は自分の描いた絵図を説明した。
「浅井殿の屋敷は番町。牛込御門を越えれば、どんどんまですぐです」
「いや、それは我らも考えた。しかし、身投げしたのは夜明け前。夕刻からどうやって夜を明かしたというのだ。一応、その辺りの色茶屋にも聞き込みはしたぞ。明け前に宿を出た女にも、お美津らしい泊り客はなかった。まあ、俺たちが調べ切れていねえのかも知れねえが」
「そんなことはないでしょう。あの着物は目立ちますよ」
あの日のお美津の着物は、町娘が着るような縞や矢柄や小紋ではなく、大振りな牡丹の手描き友禅だった。質素倹約を掲げる吉宗の政策下、あの派手な着物で泊まっていたのなら、誰でも憶えているだろう。
「私たちはどんどんで死んでいたことを手掛かりにして探していたから見つけられなかったんです」
嶋田が怪訝な顔をした。
自分の描いた絵図を、筋道立てて説明するために、宗次郎は麦湯を喉に流し込むと目を閉じ、頭の中を整理した。
瞼を開け、嶋田の顔をうかがうように見上げる。
「多分、お美津さんは揚場の方には向かわず、日本橋に向かって歩いたと思われます」
「いや、それはねぇだろ。旗本のお嬢さんだ。しかも大奥で勤めていたとくりゃ、相当の箱入りだぞ」
嶋田の反論は百も承知だ。日本橋は入水現場であるどんどんと反対方向。歩くとなると二里近くはある。
反論する嶋田に、宗次郎は黙って首を振った。
彼女は月光院の使い版をしていたころ、神楽坂の料理茶屋だけでなく、日本橋の船宿にも通っているのだ。駕籠を使うことも舟を雇うことだって慣れたものだと推察する。その知恵を働かせたのが乙八ではなくお美津からだとしたら、乙八に罪の意識が薄いのも納得できる。
「少し歩いて麴町あたりで駕籠を雇ったとも考えられませんか」
「確かに、そっち方面への探索はやっちゃいねえが……日本橋まで下って何になるってんだ。どんどんとはまるっきり逆方向じゃねえか」
「舟を拾えます。あらかじめ待ち受けていた屋形船にでも乗り込み、そこで落ち合う」
「ふむ」
「そのまま神田川を上り、どんどんまで運んでもらう。その船で一夜を過ごしたのち、夜更けに揃って身投げの約束だった。だが、男は現れず、あるいは裏切って、お美津だけが水に沈められた。どうです?」
「なるほど。で、日本橋の船宿を探れと言いてえのか」
「いえ、揚場にある〈旭屋〉という船宿の坊ちゃんをしょっ引いてもらいたいのです」
「あの男か」
「ええ、旦那も調べはついているんでしょう」
やはり〈くめや〉に張り付いていた小者は、嶋田が放った手下だったようだ。
「あいつは乙八の今の男ですよ」
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上屋敷は藩主やその家族が住まい、藩庁機構などを構え、江戸での重要な役割を果たしていました。
中屋敷には隠居した前藩主や成人した御世継が住まうことが多かったようです。が、尾張家は30以上の屋敷地を拝領し、八カ所もの屋敷を持っていたそうです。逆に、財政苦を理由に屋敷地の返上を願う大名もありました。屋敷を維持するというのは、それほど経費が掛かったのです。
また、戸山荘のような下屋敷は、上屋敷が火事に遭った時の避難地や、貯蔵庫としての役割を果たすことが多く、中には妾を住まわせている藩も。ただ単に遊興のために造ったものもあります。下屋敷の用途は様々でした。
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