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第二話 因縁
陰間の乙八
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高い塀に囲まれた武家屋敷の中を行き、そこから更にわき道に入ると道は狭くなり、曲がりくねった坂は、やがて筑土明神の門前町へと続いている。八幡宮の石段へと続く路の周りはうっそうとした杜があって、町と境内との境界を成していた。
奥の雑木の陰に隠れてごろつきが二人。辺りを見張るようにうろついている。目つきの悪さで、誰が見ても悪党にしか見えない。さしずめ境内に隠れて賭場でも開いているのだろう。
それを見下ろすような位置に、宿が五軒並んでいた。全て色茶屋(売春宿)である。その中の一軒、〈くめや〉と書かれた暖簾の前に立った。色褪せた暖簾は湿気の含んだ風に、やる気なく揺れている。
乙八がここを拠点にしていることは、すでに雲雀の調べでわかっている。入るべきだろうが、陰間という存在が、入ることを躊躇させていた。
「あれ、この間、九鬼と一緒にいた坊ちゃんだね」
『くき』という名に振り向くと、賭場の方から近付いて来たであろう男がいた。まぎれもなく乙八である。
あの時と同じ妖艶な白い着流しは、さらに近付くと、襟足が少し汚れていた。そして声は思ったよりも低く男らしい。
乙八を前に、何も答えず見ていた。すると、いきなり手が伸びて来たかと思うと、つるり、顎から首筋を撫でられた。
ぞわりと、背筋を虫が這うような感触に身震いする。それを勘付かれないよう、淡々と尋ねた。
「九鬼丸と知り合いなのか」
あの日、筑土明神の末社で乙八を盗み見ていたが、やはり彼もこちらに気付いていたのだ。
「知り合い? ハハ、ただの客だよ。馴染みのね」
宗次郎の問いに、悪びれもせず答える。寺を出てからの日数を考えれば、馴染みという言葉を使うには不自然だろうとは思ってもいないらしい。
「遊んでいくんだろ。あんたに女は似合わないもんねえ」
ため息が出そうになった。この顔のせいなのか、男色だと思われることも、男から手を出されることも少なくはないのだ。しかし嫌であろうが、ついて行かねばならない。せっかく向こうから誘ってきたのだ。むしろ飛んで火にいる何とやら……なのだから。
覚悟を決めて生唾を飲み込むと、宗次郎の上下した喉仏に何を勘違いしたのか、乙八が腕を絡めた。
「ほら、上がんなよ」
吉原など廓の遊女たちは囚われているのに、彼は背負っている借金など無いおかげなのか、自由に宿を出入りしている様子だった。つまり、職として身売りを選んだということなのだ。
宿の亭主に二階の間を使うことを告げると、さっさと宗次郎の手を引いて階段を上る。
そこはごく普通の六畳間だった。少々色気のある絵柄の衝立があって、部屋には不似合いな綿を使った贅沢な敷*布団と、派手な花模様の掻巻(夏用の夜着)が目に留まる。
「豪勢だろ。あたし専用の部屋だよ。とはいえ、普段は待合茶屋やら旅籠へ出向くことも多いけどさ」
幾らしたのか見当もつかないが、さぞかし値が張ったに違いない布団と掻巻を自慢して、宗次郎を招く様な仕草で、だらりと布団の上に足を投げ出し座った。
大金をどこで手に入れたのか分からないが、和尚に手切れ金を渡し、さらにこんな贅沢な布団まで手に入れている。
「……恵光寺から折角逃れたのに、結局、体を売っているのか」
宗次郎の口から、思わず本音が漏れた。と同時に、目の前の乙八の顔が険しくなった。
「なに? お前もあの噂を聞きつけて、この俺を嗤いに来たってのかい」
呼称が「あたし」から「俺」になった。
「噂?」
お美津との関係のことを指しているのだろうか。
「恵光寺の和尚の一番のお気に入り、『慰み者の乙八』と言えば、俺の事さ」
「慰みものの……」
乙八が顎を上げて天井を仰ぐ。
「あーあ、もっと若いうちにさっさと手放してくれりゃあ、どこぞのお武家や商家の養子にでもなれたのにさ。あの色爺、中々手放してくれやしない。そのうち付いた有り難くない仇名だよ」
「それで大金を積んだって噂なら聞いた」
ぴくりと乙八の眉が上がる。気に障ったのだ。それでも宗次郎は続けた。
「けど、寺を出ても出なくても、和尚が生きている間は、念者としてずっと金をせびれるだろうに」
そう、わざと挑発するようなことを言った。
世間では寺小姓なるもの、寺を出る時には同心株や*御家人株を買い与えられ、後も生きていける道筋を立ててもらえるのだと言われていた。だから、彼らは醜悪で色欲にまみれた坊主の慰み者になることも厭わないのだ――と。それが真実なら、乙八のやり方は器用とは言えない。
宗次郎の挑発に、乙八が鼻を鳴らした。
「ふん、そんなのは旗本の坊ちゃんの話さ。うちはね、ただたんに貧乏だったから、寺に売り飛ばされたってだけ。それに、この年になっちまうと、養子の話など来るものか! しかも、あいつから金を引き出すためには、いずれ床に入らなきゃならねえだろうが。だったら、手切れ金を渡してでも寺を出た方がましだ。せめてこの体を売れるうちにさ」
ごろりと夜具の上に腹ばいで寝ころぶと、煙草盆を引き寄せた。
「結局、あたしはさ、あの色狂いの和尚のもとに売られたせいで、こういう生き方しかできないんだよ。これだって、あと二、三年もすりゃ引き時だ。それまでに良い人を見つけなきゃあ、なんねえの」
気怠そうに、首だけを宗次郎に向けた。
「で? お前はあたしと寝ないのか。どう見ても生粋の衆道だと見たんだけどねぇ」
「俺は……」
宗次郎はさっきからずっと、衝立の前で正座したまま、膝の上に握り拳を並べている。ふと、その拳を開いた。
「俺は、色事が苦手なんだ。ガキの頃に嫌な目に遭った」
ついポロリと零した古傷。
「へえぇ、そう……。そいつぁ、御気の毒に。九鬼は随分お前に執心していたようだけどねえ」
知らず、解いた掌で自分のうなじを擦っていた。九鬼丸の名を聞いて、あの時の泡立つような熱が蘇った。
「あんたは……九鬼丸の何を知っているんだ。ただの客の割には詳しいじゃないか」
求馬からの探索依頼だと思われるが、九鬼丸はいったいこの男の懐にどこまで潜り込んでいるのか。乙八の九鬼丸に対する物言いが、どれも癇に障る。
「もしかして、それを調べに来たの? あたしと九鬼の仲を探りに?」
小馬鹿にするような態度にもムカついた。
「そんなこと、どうでもいい。俺が本当に聞きたいのは、お美津さんのことだ」
苛立ちを抑えきれず、宗次郎は真正面から要求を突き付けた。
「ふーん、なるほどねぇ。浅井の手の者ってことかい」
言われ、ハッとした。
「浅井殿とは」関係がない――と言いかけて止めた。関係もないのに探っているとなると、不自然極まりないと気付いたからだ。だから否定も肯定もせず続ける。
「お美津さんとの逢瀬を見られている限り、お美津さんの仲が疑われたとて仕方がないだろ」
「あーあ。はいはい。同じことを奉行所でも聴かれたよ。ほんと、うんざりだ。おまけに和歌まで書かされた」
丸めた煙草を雁首に詰めようとしたが、指が滑って高価な刻み煙草が散らばった。紅い口元から舌打ちが漏れる。
「縁日であの娘と会ったことは認めるさ。でもな、女だぜ? この商売を始めた今じゃ、男も女も関係なく抱くがね、正直、色恋の相手として、今さら女なんぞ眼中にねえっての」
乙八は明らかに苛ついていた。
「九鬼丸からは何も尋ねられなかったのか。あいつだってあの身投げの噂は知っていたはずだ」
乙八が上目遣いで睨んできたが、すぐにその顔は人を食ったような表情に変化した。
「なに? そんなに九鬼丸のことが気になるのか。言っとくけどね、あいつはそんな無粋なことを聞きゃあしないよ。ああ、『女も抱くのか』と聞かれたことならあるけどね」
その答えを知る必要などない。これは乙八の挑発なのだ。それなのに……
「で、あんたは何と答えたんだ」
美津のことだけを聴くつもりだった。それなのに何故にこうも、九鬼丸のことが気にかかるのか、自分でもわからなかった。
そんな宗次郎を、明らかに目の前の男は馬鹿にしてからかっているのだ。
はすっぱな赤い口が挑発するように弧を描く。
「さあな、睦言の一つ一つをいちいち憶えているわけないだろ。いや、金を貰ったら女でも抱いてやるって答えたかもしれねえ」
何が可笑しいのか、ケラケラと掻巻の上で嗤い転げている。
そう言えば九鬼丸が言っていた――「乙八は寺小姓だ。寺小姓は女を抱かない」と。
ならば、金を貰えば抱くというのであれば……そこまで考えて、今度は宗次郎から挑発的な台詞を投げた。なにせ売られた喧嘩だ。どうとでもなれ──ほとんど悔し紛れの台詞だった。
「和尚との手切れ金をもらうために、誰かに頼まれてお美津さんを抱いたんじゃないのか」
途端、乙八が弾かれたように起き上がり、煙管を畳に叩きつけた。
「はあ? 言ってくれるねえ。誰に何を頼まれたって? ずいぶんと妄想が過ぎるようだね」
怒りに染まって紅潮しても、乙八の顔は美しかった。
「あの女から俺に色目を使って来たんだぞ。俺に誰が惚れようが、そんなこと俺の知ったこっちゃねえ。だがなあ、悔しいことに、俺を飼っていたのは恵光寺の色爺だ。色恋などやりたくとも許されねえ、それが寺小姓ってもんなんだよ!」
大げさに芝居がかった仕種で、諸手を広げて見せた。そして己の胸を掌で叩く。
「着飾られ、うまいもん食わされ、手習いまで世話されて囲われてんだ。体の隅から隅まで、髪の毛も唇も胸も! 俺は尻の穴まであいつの物だったんだよ! わかったら、さっさと出てお行き! 俺と寝ないなら、お前なんぞに用はないよ‼」
話しているうちに興奮した乙八は、ほとんど怒鳴るように自分の境遇をぶちまけた。代わりに宗次郎の頭は、シンと凪いでしまった。
「ああ、出て行くよ。だが最後にもう一つ聞かせてくれ。お前は九鬼丸の正体を知って抱いたのか」
九鬼丸と乙八はただの陰間と客なのか――という素朴な疑問。
まさか、お美津の件を探るためだけに、わざわざ乙八を抱いたのか。
「知らねえな。渡り中間だと聞いているけど。知りたきゃ自分で尋ねたら。こっちこそ聞きたいよ。あんたと九鬼の関係をさ。だってさ、色事が苦手だとか言いながら、ちゃっかり惚れているんだろ、あんたもさ」
(あんたも?)
そのひと言に、腰を上げかけたまま止まる。
だが、もういいと思った。ゆるりとした動作で立ち上がると、乙八の時間を使った分だけの金子――一分金を敷布団の縁に置く。吉原と比べても高価すぎる。こういう岡場所に不似合いな金子だが、陰間とはそういうものらしい。
「……あのさ、お美津さんのことを疑われたくなければ、この界隈から離れたら良かったのに」
「馬鹿か。んなことすりゃ、逃げたと思われるだけだ」
「そうじゃなくて、未だ、和尚の金を当てにしてるんじゃないのか」
最後の憎まれ口は乙八への仕返しだ。九鬼丸との仲をからかわれたことへの。
眉をこれでもかと吊り上げた乙八が、宗次郎の置いた一分金を掴んで投げたのと、宗次郎が部屋の襖を閉めた瞬間がぴたりと合って、背後で金貨のぶつかる音が聞こえた。
----------------------
*布団――綿入りの布団が登場したのは戦国時代。掛け布団は着ていたものを羽織るだけだったのが、専用の綿入りが登場します。それが掻巻……着物の形をした「夜着」です。敷布団は今と同じく四角いもの。
しかし、使っていたのはあくまでも限られた人たち。一般の人々はわらやイグサを編んで作った〈むしろ〉を敷いて、ござや自分の着物を掛けるというのが通常でした。また、わらを和紙で覆った掛け布団代わりの物もありました。
綿(わた)が安価に流通するようになった明治のころから、今の形の布団が一般家庭にも広がったそうです。
浮世絵などに登場する遊女は、綿入りの敷布団三枚重ね……ふかふかの布団は、高級遊女のステイタスでもあったのです。
*御家人株、同心株――太平の世になると、役をもらえなかったり出世できなかった幕府役人である御家人の中には生活に困窮する家も出てきます。彼らは自分の家格を「養子縁組」という形で、農家や商家に売り渡しました。
それを寺の和尚たちは自分の寺小姓に買い与えることで、一生の保証をしたそうです。
念者とは、衆道、男色の関係で若衆を寵愛する側、兄者にあたる人を指します。
奥の雑木の陰に隠れてごろつきが二人。辺りを見張るようにうろついている。目つきの悪さで、誰が見ても悪党にしか見えない。さしずめ境内に隠れて賭場でも開いているのだろう。
それを見下ろすような位置に、宿が五軒並んでいた。全て色茶屋(売春宿)である。その中の一軒、〈くめや〉と書かれた暖簾の前に立った。色褪せた暖簾は湿気の含んだ風に、やる気なく揺れている。
乙八がここを拠点にしていることは、すでに雲雀の調べでわかっている。入るべきだろうが、陰間という存在が、入ることを躊躇させていた。
「あれ、この間、九鬼と一緒にいた坊ちゃんだね」
『くき』という名に振り向くと、賭場の方から近付いて来たであろう男がいた。まぎれもなく乙八である。
あの時と同じ妖艶な白い着流しは、さらに近付くと、襟足が少し汚れていた。そして声は思ったよりも低く男らしい。
乙八を前に、何も答えず見ていた。すると、いきなり手が伸びて来たかと思うと、つるり、顎から首筋を撫でられた。
ぞわりと、背筋を虫が這うような感触に身震いする。それを勘付かれないよう、淡々と尋ねた。
「九鬼丸と知り合いなのか」
あの日、筑土明神の末社で乙八を盗み見ていたが、やはり彼もこちらに気付いていたのだ。
「知り合い? ハハ、ただの客だよ。馴染みのね」
宗次郎の問いに、悪びれもせず答える。寺を出てからの日数を考えれば、馴染みという言葉を使うには不自然だろうとは思ってもいないらしい。
「遊んでいくんだろ。あんたに女は似合わないもんねえ」
ため息が出そうになった。この顔のせいなのか、男色だと思われることも、男から手を出されることも少なくはないのだ。しかし嫌であろうが、ついて行かねばならない。せっかく向こうから誘ってきたのだ。むしろ飛んで火にいる何とやら……なのだから。
覚悟を決めて生唾を飲み込むと、宗次郎の上下した喉仏に何を勘違いしたのか、乙八が腕を絡めた。
「ほら、上がんなよ」
吉原など廓の遊女たちは囚われているのに、彼は背負っている借金など無いおかげなのか、自由に宿を出入りしている様子だった。つまり、職として身売りを選んだということなのだ。
宿の亭主に二階の間を使うことを告げると、さっさと宗次郎の手を引いて階段を上る。
そこはごく普通の六畳間だった。少々色気のある絵柄の衝立があって、部屋には不似合いな綿を使った贅沢な敷*布団と、派手な花模様の掻巻(夏用の夜着)が目に留まる。
「豪勢だろ。あたし専用の部屋だよ。とはいえ、普段は待合茶屋やら旅籠へ出向くことも多いけどさ」
幾らしたのか見当もつかないが、さぞかし値が張ったに違いない布団と掻巻を自慢して、宗次郎を招く様な仕草で、だらりと布団の上に足を投げ出し座った。
大金をどこで手に入れたのか分からないが、和尚に手切れ金を渡し、さらにこんな贅沢な布団まで手に入れている。
「……恵光寺から折角逃れたのに、結局、体を売っているのか」
宗次郎の口から、思わず本音が漏れた。と同時に、目の前の乙八の顔が険しくなった。
「なに? お前もあの噂を聞きつけて、この俺を嗤いに来たってのかい」
呼称が「あたし」から「俺」になった。
「噂?」
お美津との関係のことを指しているのだろうか。
「恵光寺の和尚の一番のお気に入り、『慰み者の乙八』と言えば、俺の事さ」
「慰みものの……」
乙八が顎を上げて天井を仰ぐ。
「あーあ、もっと若いうちにさっさと手放してくれりゃあ、どこぞのお武家や商家の養子にでもなれたのにさ。あの色爺、中々手放してくれやしない。そのうち付いた有り難くない仇名だよ」
「それで大金を積んだって噂なら聞いた」
ぴくりと乙八の眉が上がる。気に障ったのだ。それでも宗次郎は続けた。
「けど、寺を出ても出なくても、和尚が生きている間は、念者としてずっと金をせびれるだろうに」
そう、わざと挑発するようなことを言った。
世間では寺小姓なるもの、寺を出る時には同心株や*御家人株を買い与えられ、後も生きていける道筋を立ててもらえるのだと言われていた。だから、彼らは醜悪で色欲にまみれた坊主の慰み者になることも厭わないのだ――と。それが真実なら、乙八のやり方は器用とは言えない。
宗次郎の挑発に、乙八が鼻を鳴らした。
「ふん、そんなのは旗本の坊ちゃんの話さ。うちはね、ただたんに貧乏だったから、寺に売り飛ばされたってだけ。それに、この年になっちまうと、養子の話など来るものか! しかも、あいつから金を引き出すためには、いずれ床に入らなきゃならねえだろうが。だったら、手切れ金を渡してでも寺を出た方がましだ。せめてこの体を売れるうちにさ」
ごろりと夜具の上に腹ばいで寝ころぶと、煙草盆を引き寄せた。
「結局、あたしはさ、あの色狂いの和尚のもとに売られたせいで、こういう生き方しかできないんだよ。これだって、あと二、三年もすりゃ引き時だ。それまでに良い人を見つけなきゃあ、なんねえの」
気怠そうに、首だけを宗次郎に向けた。
「で? お前はあたしと寝ないのか。どう見ても生粋の衆道だと見たんだけどねぇ」
「俺は……」
宗次郎はさっきからずっと、衝立の前で正座したまま、膝の上に握り拳を並べている。ふと、その拳を開いた。
「俺は、色事が苦手なんだ。ガキの頃に嫌な目に遭った」
ついポロリと零した古傷。
「へえぇ、そう……。そいつぁ、御気の毒に。九鬼は随分お前に執心していたようだけどねえ」
知らず、解いた掌で自分のうなじを擦っていた。九鬼丸の名を聞いて、あの時の泡立つような熱が蘇った。
「あんたは……九鬼丸の何を知っているんだ。ただの客の割には詳しいじゃないか」
求馬からの探索依頼だと思われるが、九鬼丸はいったいこの男の懐にどこまで潜り込んでいるのか。乙八の九鬼丸に対する物言いが、どれも癇に障る。
「もしかして、それを調べに来たの? あたしと九鬼の仲を探りに?」
小馬鹿にするような態度にもムカついた。
「そんなこと、どうでもいい。俺が本当に聞きたいのは、お美津さんのことだ」
苛立ちを抑えきれず、宗次郎は真正面から要求を突き付けた。
「ふーん、なるほどねぇ。浅井の手の者ってことかい」
言われ、ハッとした。
「浅井殿とは」関係がない――と言いかけて止めた。関係もないのに探っているとなると、不自然極まりないと気付いたからだ。だから否定も肯定もせず続ける。
「お美津さんとの逢瀬を見られている限り、お美津さんの仲が疑われたとて仕方がないだろ」
「あーあ。はいはい。同じことを奉行所でも聴かれたよ。ほんと、うんざりだ。おまけに和歌まで書かされた」
丸めた煙草を雁首に詰めようとしたが、指が滑って高価な刻み煙草が散らばった。紅い口元から舌打ちが漏れる。
「縁日であの娘と会ったことは認めるさ。でもな、女だぜ? この商売を始めた今じゃ、男も女も関係なく抱くがね、正直、色恋の相手として、今さら女なんぞ眼中にねえっての」
乙八は明らかに苛ついていた。
「九鬼丸からは何も尋ねられなかったのか。あいつだってあの身投げの噂は知っていたはずだ」
乙八が上目遣いで睨んできたが、すぐにその顔は人を食ったような表情に変化した。
「なに? そんなに九鬼丸のことが気になるのか。言っとくけどね、あいつはそんな無粋なことを聞きゃあしないよ。ああ、『女も抱くのか』と聞かれたことならあるけどね」
その答えを知る必要などない。これは乙八の挑発なのだ。それなのに……
「で、あんたは何と答えたんだ」
美津のことだけを聴くつもりだった。それなのに何故にこうも、九鬼丸のことが気にかかるのか、自分でもわからなかった。
そんな宗次郎を、明らかに目の前の男は馬鹿にしてからかっているのだ。
はすっぱな赤い口が挑発するように弧を描く。
「さあな、睦言の一つ一つをいちいち憶えているわけないだろ。いや、金を貰ったら女でも抱いてやるって答えたかもしれねえ」
何が可笑しいのか、ケラケラと掻巻の上で嗤い転げている。
そう言えば九鬼丸が言っていた――「乙八は寺小姓だ。寺小姓は女を抱かない」と。
ならば、金を貰えば抱くというのであれば……そこまで考えて、今度は宗次郎から挑発的な台詞を投げた。なにせ売られた喧嘩だ。どうとでもなれ──ほとんど悔し紛れの台詞だった。
「和尚との手切れ金をもらうために、誰かに頼まれてお美津さんを抱いたんじゃないのか」
途端、乙八が弾かれたように起き上がり、煙管を畳に叩きつけた。
「はあ? 言ってくれるねえ。誰に何を頼まれたって? ずいぶんと妄想が過ぎるようだね」
怒りに染まって紅潮しても、乙八の顔は美しかった。
「あの女から俺に色目を使って来たんだぞ。俺に誰が惚れようが、そんなこと俺の知ったこっちゃねえ。だがなあ、悔しいことに、俺を飼っていたのは恵光寺の色爺だ。色恋などやりたくとも許されねえ、それが寺小姓ってもんなんだよ!」
大げさに芝居がかった仕種で、諸手を広げて見せた。そして己の胸を掌で叩く。
「着飾られ、うまいもん食わされ、手習いまで世話されて囲われてんだ。体の隅から隅まで、髪の毛も唇も胸も! 俺は尻の穴まであいつの物だったんだよ! わかったら、さっさと出てお行き! 俺と寝ないなら、お前なんぞに用はないよ‼」
話しているうちに興奮した乙八は、ほとんど怒鳴るように自分の境遇をぶちまけた。代わりに宗次郎の頭は、シンと凪いでしまった。
「ああ、出て行くよ。だが最後にもう一つ聞かせてくれ。お前は九鬼丸の正体を知って抱いたのか」
九鬼丸と乙八はただの陰間と客なのか――という素朴な疑問。
まさか、お美津の件を探るためだけに、わざわざ乙八を抱いたのか。
「知らねえな。渡り中間だと聞いているけど。知りたきゃ自分で尋ねたら。こっちこそ聞きたいよ。あんたと九鬼の関係をさ。だってさ、色事が苦手だとか言いながら、ちゃっかり惚れているんだろ、あんたもさ」
(あんたも?)
そのひと言に、腰を上げかけたまま止まる。
だが、もういいと思った。ゆるりとした動作で立ち上がると、乙八の時間を使った分だけの金子――一分金を敷布団の縁に置く。吉原と比べても高価すぎる。こういう岡場所に不似合いな金子だが、陰間とはそういうものらしい。
「……あのさ、お美津さんのことを疑われたくなければ、この界隈から離れたら良かったのに」
「馬鹿か。んなことすりゃ、逃げたと思われるだけだ」
「そうじゃなくて、未だ、和尚の金を当てにしてるんじゃないのか」
最後の憎まれ口は乙八への仕返しだ。九鬼丸との仲をからかわれたことへの。
眉をこれでもかと吊り上げた乙八が、宗次郎の置いた一分金を掴んで投げたのと、宗次郎が部屋の襖を閉めた瞬間がぴたりと合って、背後で金貨のぶつかる音が聞こえた。
----------------------
*布団――綿入りの布団が登場したのは戦国時代。掛け布団は着ていたものを羽織るだけだったのが、専用の綿入りが登場します。それが掻巻……着物の形をした「夜着」です。敷布団は今と同じく四角いもの。
しかし、使っていたのはあくまでも限られた人たち。一般の人々はわらやイグサを編んで作った〈むしろ〉を敷いて、ござや自分の着物を掛けるというのが通常でした。また、わらを和紙で覆った掛け布団代わりの物もありました。
綿(わた)が安価に流通するようになった明治のころから、今の形の布団が一般家庭にも広がったそうです。
浮世絵などに登場する遊女は、綿入りの敷布団三枚重ね……ふかふかの布団は、高級遊女のステイタスでもあったのです。
*御家人株、同心株――太平の世になると、役をもらえなかったり出世できなかった幕府役人である御家人の中には生活に困窮する家も出てきます。彼らは自分の家格を「養子縁組」という形で、農家や商家に売り渡しました。
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念者とは、衆道、男色の関係で若衆を寵愛する側、兄者にあたる人を指します。
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