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第三話 復讐の形
消えた九鬼丸
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乙八が消されて二日後、同心の嶋田が紀伊国屋を訪ねてきた。
「旭屋の倅が吐きやがったよ。自分の手で美津を殺したと」
「へえ。よく、すんなりと認めたものですね」
捕らえた時、あれだけ激しく抵抗していたのだから、簡単には吐かないだろうと覚悟していたが。
「多少手荒なことをしても認めなかったくせに、乙八が死んだことを告げたらな……あっさり認めやがった」
宗次郎はそれを聞き、あの男は男で、乙八に本気で惚れていたのだ……と複雑な想いを抱く。
「あいつが言うには、乙八と良い仲になってしばらくした頃、『美津という武家の娘に付きまとわれて困っている』と、乙八に打ち明けられたそうだ」
その後の謀りは、宗次郎が描いた絵図とほぼ同じだった。
乙八がお美津に手紙を送り、旭屋の船で待ち合わせを約束する。
待ち合わせの手順はこうだ。
――夜の辻番に怪しまれぬ時間帯に番町を出て、日本橋は川沿いの堀江町まで駕籠で移動。そこで旭屋が用意した猪牙舟に乗り込み神田川まで運んでもらう。さらに両国橋の近くで待ち構えていた屋形船……これは旭屋の倅が自ら操り、お美津を迎える。船に乗り込んだお美津にあの和歌を見せたそうだ。お美津はそのまま一晩中、乙八が来るのを待っていたが、結局彼女に待ち受けていたのは、身投げを装い川に投げ捨てられるという最期だった……
さらにあの和歌は乙八から渡された物だと白状したそうだ。お美津を始末した後、草履と共に置くよう、指示されたと。
ちなみに猪牙舟を操っていた船頭も見つかり、確かにお美津さんを拾ったと証言したという。
同席して一部始終を聴いていた雲雀が首を傾げた。
「何の意味があって、そんな和歌を置いたのでしょうかね」
「身投げの理由を恋煩いの末と思わせるためだとさ。あれを見せたら案の定、初心な娘さんは心中を持ち掛けられたと信じ込んだ様子だったらしい。あとは眠らせて明け方薬が切れる頃に……」
嶋田の答に、雲雀はまだ納得いかない様子だ。
「それにしたって、彼女の手じゃないことくらいすぐにわかることじゃないですか。見せるのはともかく、あんなもの置いておくから、相手がいるという話になって、こうやって足がついてしまってのですから」
「まあ、罪を犯す人間というのは、愚かだということですよ。己の策に酔っちまっている。旭屋と乙八は、お互いの事しか見えていなかったということさ」
二人の会話を聞きながら宗次郎は思った。
(恋っちゅうもんは、人を愚かにするもんなんや)と。
あの和歌を置いた意味は、乙八にしかわからない。あれは乙八から九鬼丸に向けた伝言でもあったのだ。
乙八は命じられた仕事をやり遂げただけだ。ただ、それは己のためでも旭屋の若旦那のためでもなく、九鬼丸のためだけにしたことなんだと。だから、やり遂げたら迎えに来て欲しい――そういう意味が込められていたのではないか。
あくまでの宗次郎の空想にすぎない。
もう乙八はこの世にいないのだから、確かめようがないのだ。
「乙八殺しの調べはどうなっているのでしょう。まさか、あれも、旭屋が捕まったことで、心中だと決めたんじゃあ」
「いや、それはない。乙八は死んだ時、旭屋の捕縛を知らなかったはずだからな。しかし、正直、何の手がかりもない」
心底参ったというように、嶋田が月代をぽりぽりと掻く。
「旭屋の倅は乙八に惚れたお美津が邪魔で殺した――と吐いたが、となると、旭屋にその相談を持ち込んだ乙八が本星ということになる。その乙八が殺されたとなると……」
「誰かが乙八を使ってお美津さんを消させた……ということになりますね」
「そう考えるのが当前なのだが、手掛かりがなさ過ぎてな」
九鬼丸という男が怪しい――その一言を発しようにも、根拠となる物は何もない。しかも下手をすれば、求馬……ひいては尾張徳川家を巻き込みかねない。
神妙な顔で黙り込んでいる宗次郎を慰めるように、嶋田が言った。
「しかし、だからこそ、あの身投げはお嬢さんの意志ではないと明らかになったようなもんでね、多分、浅井殿の御家取り潰しは免れるだろうって話だ。もちろん、世継ぎの養子が見つかれば、の話だが。それでも、少しは浅井殿も救われるんじゃねえかな。娘を手に賭けた奴を捕まえただけでも、ましってことだ」
報告を終えて帰って行く嶋田の後ろ姿を見送りながら、宗次郎は何が自分をためらわせているのか、腹の中で何度も自問していた。
だが答えの出せない自問に、ただただ、心が重くなっただけだった。
◇
梅雨も半ばに差し掛かろうとしていた。
雨の続く中、宗次郎は少し遠出をして雀を追っていた。獲ったその日には紀伊国屋へ戻る日帰りの狩ではあったが、それでも鳥刺しに集中していると、少しは気がまぎれるかと思ったのだ。
だが、何をしていても九鬼丸のことが心に浮かんでくる。
あの和歌が九鬼丸の書いた物であるかぎり、乙八と九鬼丸の関係は疑う余地がない。
「でも……乙八が九鬼丸に振り向いてもらいたくて、勝手にやった自作自演の独り舞台やとしたら」
乙八が吹き矢の毒で死んだのも、他殺を装った自殺の可能性ということも考えられる。
――「九鬼丸じゃない。あいつが裏切るもんか」
死に際に遺した言葉の真意を考えれば考えるほど、胸が痛い。
九鬼丸に消されたにしろ自死したにしろ、あいつが九鬼丸をかばっていることも、九鬼丸に惚れぬいていたことも、覆ることのない事実だ。
その事実が一番苦しい。
九鬼丸のことを求馬に相談しようと決意したのは、それから間もなくだった。
しばらく角吉に通ってみたが、求馬に会えず弱っていた所だった。
「宗次郎さん、お客様です。主屋に来てくださいと旦那様がお呼びです」
と、紀伊国屋の下働きが、離れまで呼びに来た。
雨に濡れた庭石を見ながら考える。
店の客間に通される客と言うと……一瞬、頭を過ったのは、徳川組の親分、吉宗だった。だが、そこにいたのは……
「やあ、突然すまない」
「求さん」
久しぶりに再会した求馬は、明らか生気がなかった。あの、誰もが引き付けられてやまない朗らかさがすっかり失せていた。
「ちょっと困ったことになってな」
宗次郎は求馬が話そうとしている話の中身を、どれについてのことだろうかと、推し量りながら正面に座った。
「俺も求さんに会いに、何度も角吉を訪ねました」
「そうか、すまない。なかなか屋敷を出られなくてな……」
二人の間に沈黙が流れる。先に沈黙を破ったのは求馬であった。小さく息を吐き出すと、苦しそうに口を開いた。
「多分、宗次郎が俺を探していた理由と、俺がここに来た理由は同じであろうな」
「九鬼丸さんのこと……ですか」
「ああ。お主は何を知っている」
「お美津さんの件です」
目を上げた求馬は、泣きそうにも見えた。まるでそのことを隠すように、切れ長の目がすっと細められた。
宗次郎は求馬の心情を慮りながらも、今までのことを、順を追って説明した。
「私もお美津さんに件について、調べておりました。うちの下女が、乙八と言う寺小姓とお美津さんの噂を聞きつけて来たもので……」
そこで乙八と言う元寺小姓の陰間を探っていたこと。更にそこで九鬼丸が乙八の客だと知ったこと。お美津は、乙八とその思い人であった船宿の若旦那によって殺されたこと。船宿の若旦那が乙八に命じられ、あの和歌を置いたこと。そして崇徳院の和歌は九鬼丸から乙八に贈られた物だったこと……まで。
おまけに先日、その乙八もが殺されたのだと告げる。
目を瞑ってしばし耳を傾けていた求馬であったが、和歌を書いたのが九鬼丸であることを話した時には、天井を見上げ、じっと何もないはずの木目を睨んでいた。
聞き終えると、ため息とともに諦めとも取れるひと言を零した。
「あいつは、はなから何もかも知っていたのだな」
宗次郎と求馬が出会う前から、九鬼丸はこの事を謀っていたのだ。九鬼丸にとって、求馬が宗次郎と出会ったことが、誤算そのものであったのだろう。それをあの人懐っこくも色気を含んだ笑顔の下に隠していたのだ。
「のう、宗次郎はどう思う。乙八とやらは、誰に殺されたのだと考える」
「俺は……」
九鬼丸を信頼してそばに置いてきた求馬に、己の考えを告げるのは辛かった。それでも言わなくてはならない。
顔を上げ、求馬の目を見て打ち明けた。
「すべては九鬼丸が仕掛けたことだと思っております。九鬼丸が乙八をけしかけ、お美津さんを惑わせた。そして乙八が旭屋の倅をけしかけた。お美津さんの件、そもそもの発端は、九鬼丸だったと。よもや、大奥の女中であった頃にお美津さんが立花楼や笹舟屋で出会っていた人物とは、九鬼丸であったと思うのです」
「うむ」
「奥を出たお美津さんが九鬼丸と偶然再会して、自分の正体を知られたくない九鬼丸が、お美津さん殺しを企てたのでは……と」
求馬の顎がヒクと震えるように動く。おもむろに口を開いた。
「実は……九鬼丸が消えた。内輪の恥をさらすようで言いにくいのだが、とある不正が我が下屋敷で行われていてな」
戸山荘の件を言っているのだろう、と察した。吉宗はこの件を求馬に探らせていた。
「それを調べさせるために、九鬼丸を戸山の下屋敷に忍ばせたのだ。だが、それっきり戻って来ぬ。それどころか、屋敷内のどこにも奴は居らなんだ。奴がいたという形跡すら消えていたのだ」
「それはいつの……」
九鬼丸が消えたという告白に、自らの過ちを咄嗟に悟って息を呑んだ。
「旭屋の倅が吐きやがったよ。自分の手で美津を殺したと」
「へえ。よく、すんなりと認めたものですね」
捕らえた時、あれだけ激しく抵抗していたのだから、簡単には吐かないだろうと覚悟していたが。
「多少手荒なことをしても認めなかったくせに、乙八が死んだことを告げたらな……あっさり認めやがった」
宗次郎はそれを聞き、あの男は男で、乙八に本気で惚れていたのだ……と複雑な想いを抱く。
「あいつが言うには、乙八と良い仲になってしばらくした頃、『美津という武家の娘に付きまとわれて困っている』と、乙八に打ち明けられたそうだ」
その後の謀りは、宗次郎が描いた絵図とほぼ同じだった。
乙八がお美津に手紙を送り、旭屋の船で待ち合わせを約束する。
待ち合わせの手順はこうだ。
――夜の辻番に怪しまれぬ時間帯に番町を出て、日本橋は川沿いの堀江町まで駕籠で移動。そこで旭屋が用意した猪牙舟に乗り込み神田川まで運んでもらう。さらに両国橋の近くで待ち構えていた屋形船……これは旭屋の倅が自ら操り、お美津を迎える。船に乗り込んだお美津にあの和歌を見せたそうだ。お美津はそのまま一晩中、乙八が来るのを待っていたが、結局彼女に待ち受けていたのは、身投げを装い川に投げ捨てられるという最期だった……
さらにあの和歌は乙八から渡された物だと白状したそうだ。お美津を始末した後、草履と共に置くよう、指示されたと。
ちなみに猪牙舟を操っていた船頭も見つかり、確かにお美津さんを拾ったと証言したという。
同席して一部始終を聴いていた雲雀が首を傾げた。
「何の意味があって、そんな和歌を置いたのでしょうかね」
「身投げの理由を恋煩いの末と思わせるためだとさ。あれを見せたら案の定、初心な娘さんは心中を持ち掛けられたと信じ込んだ様子だったらしい。あとは眠らせて明け方薬が切れる頃に……」
嶋田の答に、雲雀はまだ納得いかない様子だ。
「それにしたって、彼女の手じゃないことくらいすぐにわかることじゃないですか。見せるのはともかく、あんなもの置いておくから、相手がいるという話になって、こうやって足がついてしまってのですから」
「まあ、罪を犯す人間というのは、愚かだということですよ。己の策に酔っちまっている。旭屋と乙八は、お互いの事しか見えていなかったということさ」
二人の会話を聞きながら宗次郎は思った。
(恋っちゅうもんは、人を愚かにするもんなんや)と。
あの和歌を置いた意味は、乙八にしかわからない。あれは乙八から九鬼丸に向けた伝言でもあったのだ。
乙八は命じられた仕事をやり遂げただけだ。ただ、それは己のためでも旭屋の若旦那のためでもなく、九鬼丸のためだけにしたことなんだと。だから、やり遂げたら迎えに来て欲しい――そういう意味が込められていたのではないか。
あくまでの宗次郎の空想にすぎない。
もう乙八はこの世にいないのだから、確かめようがないのだ。
「乙八殺しの調べはどうなっているのでしょう。まさか、あれも、旭屋が捕まったことで、心中だと決めたんじゃあ」
「いや、それはない。乙八は死んだ時、旭屋の捕縛を知らなかったはずだからな。しかし、正直、何の手がかりもない」
心底参ったというように、嶋田が月代をぽりぽりと掻く。
「旭屋の倅は乙八に惚れたお美津が邪魔で殺した――と吐いたが、となると、旭屋にその相談を持ち込んだ乙八が本星ということになる。その乙八が殺されたとなると……」
「誰かが乙八を使ってお美津さんを消させた……ということになりますね」
「そう考えるのが当前なのだが、手掛かりがなさ過ぎてな」
九鬼丸という男が怪しい――その一言を発しようにも、根拠となる物は何もない。しかも下手をすれば、求馬……ひいては尾張徳川家を巻き込みかねない。
神妙な顔で黙り込んでいる宗次郎を慰めるように、嶋田が言った。
「しかし、だからこそ、あの身投げはお嬢さんの意志ではないと明らかになったようなもんでね、多分、浅井殿の御家取り潰しは免れるだろうって話だ。もちろん、世継ぎの養子が見つかれば、の話だが。それでも、少しは浅井殿も救われるんじゃねえかな。娘を手に賭けた奴を捕まえただけでも、ましってことだ」
報告を終えて帰って行く嶋田の後ろ姿を見送りながら、宗次郎は何が自分をためらわせているのか、腹の中で何度も自問していた。
だが答えの出せない自問に、ただただ、心が重くなっただけだった。
◇
梅雨も半ばに差し掛かろうとしていた。
雨の続く中、宗次郎は少し遠出をして雀を追っていた。獲ったその日には紀伊国屋へ戻る日帰りの狩ではあったが、それでも鳥刺しに集中していると、少しは気がまぎれるかと思ったのだ。
だが、何をしていても九鬼丸のことが心に浮かんでくる。
あの和歌が九鬼丸の書いた物であるかぎり、乙八と九鬼丸の関係は疑う余地がない。
「でも……乙八が九鬼丸に振り向いてもらいたくて、勝手にやった自作自演の独り舞台やとしたら」
乙八が吹き矢の毒で死んだのも、他殺を装った自殺の可能性ということも考えられる。
――「九鬼丸じゃない。あいつが裏切るもんか」
死に際に遺した言葉の真意を考えれば考えるほど、胸が痛い。
九鬼丸に消されたにしろ自死したにしろ、あいつが九鬼丸をかばっていることも、九鬼丸に惚れぬいていたことも、覆ることのない事実だ。
その事実が一番苦しい。
九鬼丸のことを求馬に相談しようと決意したのは、それから間もなくだった。
しばらく角吉に通ってみたが、求馬に会えず弱っていた所だった。
「宗次郎さん、お客様です。主屋に来てくださいと旦那様がお呼びです」
と、紀伊国屋の下働きが、離れまで呼びに来た。
雨に濡れた庭石を見ながら考える。
店の客間に通される客と言うと……一瞬、頭を過ったのは、徳川組の親分、吉宗だった。だが、そこにいたのは……
「やあ、突然すまない」
「求さん」
久しぶりに再会した求馬は、明らか生気がなかった。あの、誰もが引き付けられてやまない朗らかさがすっかり失せていた。
「ちょっと困ったことになってな」
宗次郎は求馬が話そうとしている話の中身を、どれについてのことだろうかと、推し量りながら正面に座った。
「俺も求さんに会いに、何度も角吉を訪ねました」
「そうか、すまない。なかなか屋敷を出られなくてな……」
二人の間に沈黙が流れる。先に沈黙を破ったのは求馬であった。小さく息を吐き出すと、苦しそうに口を開いた。
「多分、宗次郎が俺を探していた理由と、俺がここに来た理由は同じであろうな」
「九鬼丸さんのこと……ですか」
「ああ。お主は何を知っている」
「お美津さんの件です」
目を上げた求馬は、泣きそうにも見えた。まるでそのことを隠すように、切れ長の目がすっと細められた。
宗次郎は求馬の心情を慮りながらも、今までのことを、順を追って説明した。
「私もお美津さんに件について、調べておりました。うちの下女が、乙八と言う寺小姓とお美津さんの噂を聞きつけて来たもので……」
そこで乙八と言う元寺小姓の陰間を探っていたこと。更にそこで九鬼丸が乙八の客だと知ったこと。お美津は、乙八とその思い人であった船宿の若旦那によって殺されたこと。船宿の若旦那が乙八に命じられ、あの和歌を置いたこと。そして崇徳院の和歌は九鬼丸から乙八に贈られた物だったこと……まで。
おまけに先日、その乙八もが殺されたのだと告げる。
目を瞑ってしばし耳を傾けていた求馬であったが、和歌を書いたのが九鬼丸であることを話した時には、天井を見上げ、じっと何もないはずの木目を睨んでいた。
聞き終えると、ため息とともに諦めとも取れるひと言を零した。
「あいつは、はなから何もかも知っていたのだな」
宗次郎と求馬が出会う前から、九鬼丸はこの事を謀っていたのだ。九鬼丸にとって、求馬が宗次郎と出会ったことが、誤算そのものであったのだろう。それをあの人懐っこくも色気を含んだ笑顔の下に隠していたのだ。
「のう、宗次郎はどう思う。乙八とやらは、誰に殺されたのだと考える」
「俺は……」
九鬼丸を信頼してそばに置いてきた求馬に、己の考えを告げるのは辛かった。それでも言わなくてはならない。
顔を上げ、求馬の目を見て打ち明けた。
「すべては九鬼丸が仕掛けたことだと思っております。九鬼丸が乙八をけしかけ、お美津さんを惑わせた。そして乙八が旭屋の倅をけしかけた。お美津さんの件、そもそもの発端は、九鬼丸だったと。よもや、大奥の女中であった頃にお美津さんが立花楼や笹舟屋で出会っていた人物とは、九鬼丸であったと思うのです」
「うむ」
「奥を出たお美津さんが九鬼丸と偶然再会して、自分の正体を知られたくない九鬼丸が、お美津さん殺しを企てたのでは……と」
求馬の顎がヒクと震えるように動く。おもむろに口を開いた。
「実は……九鬼丸が消えた。内輪の恥をさらすようで言いにくいのだが、とある不正が我が下屋敷で行われていてな」
戸山荘の件を言っているのだろう、と察した。吉宗はこの件を求馬に探らせていた。
「それを調べさせるために、九鬼丸を戸山の下屋敷に忍ばせたのだ。だが、それっきり戻って来ぬ。それどころか、屋敷内のどこにも奴は居らなんだ。奴がいたという形跡すら消えていたのだ」
「それはいつの……」
九鬼丸が消えたという告白に、自らの過ちを咄嗟に悟って息を呑んだ。
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