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第三話 復讐の形
襲われた鷹匠見習い
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「九鬼丸が姿を見せなくなったのは、十日近く前だ。だが、探索のためにどこかに潜り込んだのであろうと思い込んでおったから気にしなかったのじゃ。奴はそういう男だったからな」
自らの過ち――よもや情に流され、九鬼丸という男の本質を見誤っていたことへの懸念が大きく膨らんで、宗次郎は息苦しささえ感じていた。細かくなった呼吸の隙間に言葉を挟む。
「……あいつは何者ですか」
「奴は……」
少しばかり逡巡した後、求馬は声を潜めて告げた。
「あ奴は、我が藩専属の中間の一人だ。だが、世襲で仕えている中間は、元根来衆が多いと聞く。あいつもその一人だ。あれを俺に紹介したのは、じじい……あ、いや、うちの留守居役である」
心の臓がバクバクと音を立てる。散り散りになっていた欠片が少しずつ集まってきて形を成そうとしていた。
「宗次郎から乙八が殺されたことを聞いた時、俺は迂闊にも、九鬼丸が俺の下知無しでお美津さんの仇を討ったのではと、思ってしまった。だから、姿を消したのだと。だが……あの和歌を書いたのが奴だとすると話はひっくり返る」
「はい」
「逃げたと確信したのは四日前だ。じじいも奴の消息を把握できておらなんだ。だが藩邸での不正を探らせ消えたとなると、あいつもその一味だったと思わざるを得ぬ。しかし美津殿の件にも絡んでおったとなると、宗次郎の言うように、兄上が飼っていた中間の一人とも考えられるな」
「それを……」
宗次郎が問いかけようとしたその時、何の呼びかけもなく庭に面した障子がいきなり開けられた。
「すまん! 火急の報せだ」
客間に飛び込んできた無礼者は、雨に濡れた村垣であった。
「宮井殿が、三九郎殿が襲われた!」
二人の間に緊張が走る。
「兄上が? どこで」
「姿見橋近くの畑地だと聞いているが、詳しくはわからん。今は鷹部屋に帰っているらしいが」
「命は? 傷は浅いのか!」
駆け寄り村垣の衿元を掴んで揺する宗次郎を、求馬が押さえる。
「落ち着け。それでは話せぬではないか」
言われ、慌てて手を引っ込めた。
「すまない」
「いや。案ずるな。三九郎殿は無事だ。だが浅手とは言い難い。命に別状はないが、肩をやられた」
そこまで聞くと、部屋を飛び出した。
◇
小日向は本降りだったが、雑司ヶ谷は小雨だった。それでもぬかるんだ道を、泥を跳ねさせながら走り切り、兄の家の玄関を足も拭かずに上った。
「兄上! 兄上!」
どたどたと足音を響かせ、寝室の襖を開けた。
三九郎が臥せている床の横に、父、杢右衛門が座っていた。
「静かにせぬか。三九郎が休めぬであろう」
「しかし、父上」
「足ぐらい拭きなさい」
叱られ、泣きそうな面で三九郎の側に寄る。
血止めに使ったであろう血まみれの晒布を見て、息が詰まる。
「んな顔すんな、宗。大丈夫や。死ぬような傷やないさけ」
床に寝たままの三九郎が口を開いた。
「兄上!」
宗次郎に弱々しい笑みで応える。
「ちいっと肩を斬られてしもうただけや。なに、鷹を据える左手は無事やさかいに」
額に玉の汗が滲んでいる。痛みが強いのか、唇は色を失っていた。この時期の刀傷が怖いのは膿みやすいからだ。浅手であっても、上手く塞がらずに膿んでしまうと命にかかわることは誰もが知っている。
さっきまで小雨だったが、雨は本降りに変わったらしく、血の臭いの充満する部屋にも雨音が聞こえてきた。
手当を済ませた紀州の藩医が周囲の者に言い渡す。
「とにかく安静にしておくのが一番である。三九郎殿を疲れさせてはならぬぞ。あとはこまめに晒布を取り換えることだ。だが、とにかく今は安静だ」
その言葉に従い、三九郎の寝ている部屋から退室するとすぐに、三九郎の妻、お鶴が宗次郎と杢右衛門を上の間へと案内した。
そこには、宗次郎を追いかけてきた村垣と共に、求馬が並んで座っていた。
「で、この御方は……」
杢右衛門には初見である。
「さきほど、宗次郎さんが到着されてすぐ後に、村垣様とご一緒にお見えになりましたの。なので宗次郎さんのお友達かと思いまして、お通ししたんですのよ、ね?」
夫が斬られて動転しているかと思いきや、お鶴は気丈にも何気ない風に振る舞い、求馬にも人懐こい笑顔を向けた。彼女は少々不器量ではあるが、とにかく明るく気立ての良い女で、杢右衛門は彼女をいたく可愛がっていた。
「父上、紹介いたします。この御方は」
宗次郎が言いかけたところで、求馬が制した。そして居住まいを正すと、自ら名乗った。
「御子息と親しく致しております。拙者、尾張徳川家、松平求馬通春と申しまする」
流石の杢右衛門も、そこに同席している村垣も驚きを隠せず、目を見開く。
「尾張殿の……」
「はっ?」
村垣など、宗次郎と求馬を交互に二度見している。
「此度の件、何かお力になれることがございましたら、何なりとお申し付けくだされ」
「いや、その……」
村垣が困った風に頭を掻いた。それはそうだろう。尾張に極秘で下屋敷内の不正を暴いていたのだから。ここにいる誰もが、その件に三九郎が巻き込まれたと思っていることは明白だった。
戸惑う村垣を一瞥した杢右衛門が、説明を始めた。
「実は我々鷹役人の間で、奇妙な事件が頻発しておりましてな」
「事件、でござるか」
「はい」
杢右衛門が、先月の鳥見役人殺しの件を話して聞かせた。
「さらに町方の餌差の間でも不正取引やら違法の猟やら、不穏な騒ぎが相次ぎましてな。倅はたまたま、この騒動に巻き込まれただけでしょう。あいつにはこのことを伏せておりましたゆえ」
その発端が尾張の戸山荘にあることは伏せて話していたのだが、弾かれたかのように求馬が頭を下げた。
「相すまぬ! その不正、我が下屋敷にて取引しておったこと、ついぞ上様より伺い、こちらでも内通者を使い探っておった次第でござる」
「まことに面目ない」と、再び頭を下げた求馬に、村垣がまたもや目を瞬かせている。
求馬のこういう部分……高い身分に似つかわしくない潔さというか正直さは、裏の駆け引きばかりを追って来た隠密の男には珍しくて仕方ないのだろう。
杢右衛門は求馬の頭を上げさせると、柔らかい口調で話した。
「そうでございますか。しかし、それは我々も同様にござる。町人餌差や鳥屋がいかに細工をしようが、彼奴らの管理は町奉行の管轄。実際に金子を動かすとなると、公儀の餌差、あるいは鷹匠が関わっておったのではと、我らも内々で探りを入れておる最中にござった」
杢右衛門の言う内々とは。当然この雑司ヶ谷の御鷹役人全てを指している。ここまで事情を明かすのは、杢右衛門が求馬のことをこの寸時で信用した証である。
「父上、兄上はどこで何をして襲われたのでしょう」
宗次郎は居ても立ってもいられなかった。もしこれに九鬼丸が噛んでいるのだとすると、もっと面倒なことになるような気がした。
「うむ、御鷹を据えて歩いておったのじゃ。三月に津軽様(津軽藩藩主)より献上された黄鷹(若鷹)を三九郎が預かるようになってな。普段なら鷹匠同心が世話をするのだが、この〈横尾〉という名の黄鷹には随分手を焼いておって、三九郎自らが訓練しておったのじゃ。秋には狩りに出せるようにと。ここ最近では雑司ヶ谷の畑地を出て、姿見の橋に向いて少しずつ据えて歩く範囲を広げておった」
「で、襲われたのは」
「南蔵院を過ぎ、氷川の杜辺りだと言っておった。あいつは鷹を据えておった左手を庇い、右肩に刀を受けたのだが、据えておった横尾がなあ……倅を護るように敵に襲い掛かったようで、羽を斬られて。そのおかげでとどめを免れたようじゃ」
「横尾が……」
羽をやられてしまっては、もう狩に使うことはできないだろう。上様にどう詫びるのか。三九郎の心中を考えると、胸がつぶれる。
杢右衛門が大きく肩を落とす。
「三九郎をいつもの同心と勘違いして襲ったのか、それとも宮井三九郎だとわかって襲ったのか……何にせよ、襲った輩は一人だったのが不幸中の幸いだ」
求馬が杢右衛門に向かって問うだ。
「戸山荘での件が尾を引いているとお考えでござるか」
「いや。そこまでは」
「拙者の話を聞いて、判断してくだされ」
求馬が杢右衛門の正面へと、体を向けた。
自らの過ち――よもや情に流され、九鬼丸という男の本質を見誤っていたことへの懸念が大きく膨らんで、宗次郎は息苦しささえ感じていた。細かくなった呼吸の隙間に言葉を挟む。
「……あいつは何者ですか」
「奴は……」
少しばかり逡巡した後、求馬は声を潜めて告げた。
「あ奴は、我が藩専属の中間の一人だ。だが、世襲で仕えている中間は、元根来衆が多いと聞く。あいつもその一人だ。あれを俺に紹介したのは、じじい……あ、いや、うちの留守居役である」
心の臓がバクバクと音を立てる。散り散りになっていた欠片が少しずつ集まってきて形を成そうとしていた。
「宗次郎から乙八が殺されたことを聞いた時、俺は迂闊にも、九鬼丸が俺の下知無しでお美津さんの仇を討ったのではと、思ってしまった。だから、姿を消したのだと。だが……あの和歌を書いたのが奴だとすると話はひっくり返る」
「はい」
「逃げたと確信したのは四日前だ。じじいも奴の消息を把握できておらなんだ。だが藩邸での不正を探らせ消えたとなると、あいつもその一味だったと思わざるを得ぬ。しかし美津殿の件にも絡んでおったとなると、宗次郎の言うように、兄上が飼っていた中間の一人とも考えられるな」
「それを……」
宗次郎が問いかけようとしたその時、何の呼びかけもなく庭に面した障子がいきなり開けられた。
「すまん! 火急の報せだ」
客間に飛び込んできた無礼者は、雨に濡れた村垣であった。
「宮井殿が、三九郎殿が襲われた!」
二人の間に緊張が走る。
「兄上が? どこで」
「姿見橋近くの畑地だと聞いているが、詳しくはわからん。今は鷹部屋に帰っているらしいが」
「命は? 傷は浅いのか!」
駆け寄り村垣の衿元を掴んで揺する宗次郎を、求馬が押さえる。
「落ち着け。それでは話せぬではないか」
言われ、慌てて手を引っ込めた。
「すまない」
「いや。案ずるな。三九郎殿は無事だ。だが浅手とは言い難い。命に別状はないが、肩をやられた」
そこまで聞くと、部屋を飛び出した。
◇
小日向は本降りだったが、雑司ヶ谷は小雨だった。それでもぬかるんだ道を、泥を跳ねさせながら走り切り、兄の家の玄関を足も拭かずに上った。
「兄上! 兄上!」
どたどたと足音を響かせ、寝室の襖を開けた。
三九郎が臥せている床の横に、父、杢右衛門が座っていた。
「静かにせぬか。三九郎が休めぬであろう」
「しかし、父上」
「足ぐらい拭きなさい」
叱られ、泣きそうな面で三九郎の側に寄る。
血止めに使ったであろう血まみれの晒布を見て、息が詰まる。
「んな顔すんな、宗。大丈夫や。死ぬような傷やないさけ」
床に寝たままの三九郎が口を開いた。
「兄上!」
宗次郎に弱々しい笑みで応える。
「ちいっと肩を斬られてしもうただけや。なに、鷹を据える左手は無事やさかいに」
額に玉の汗が滲んでいる。痛みが強いのか、唇は色を失っていた。この時期の刀傷が怖いのは膿みやすいからだ。浅手であっても、上手く塞がらずに膿んでしまうと命にかかわることは誰もが知っている。
さっきまで小雨だったが、雨は本降りに変わったらしく、血の臭いの充満する部屋にも雨音が聞こえてきた。
手当を済ませた紀州の藩医が周囲の者に言い渡す。
「とにかく安静にしておくのが一番である。三九郎殿を疲れさせてはならぬぞ。あとはこまめに晒布を取り換えることだ。だが、とにかく今は安静だ」
その言葉に従い、三九郎の寝ている部屋から退室するとすぐに、三九郎の妻、お鶴が宗次郎と杢右衛門を上の間へと案内した。
そこには、宗次郎を追いかけてきた村垣と共に、求馬が並んで座っていた。
「で、この御方は……」
杢右衛門には初見である。
「さきほど、宗次郎さんが到着されてすぐ後に、村垣様とご一緒にお見えになりましたの。なので宗次郎さんのお友達かと思いまして、お通ししたんですのよ、ね?」
夫が斬られて動転しているかと思いきや、お鶴は気丈にも何気ない風に振る舞い、求馬にも人懐こい笑顔を向けた。彼女は少々不器量ではあるが、とにかく明るく気立ての良い女で、杢右衛門は彼女をいたく可愛がっていた。
「父上、紹介いたします。この御方は」
宗次郎が言いかけたところで、求馬が制した。そして居住まいを正すと、自ら名乗った。
「御子息と親しく致しております。拙者、尾張徳川家、松平求馬通春と申しまする」
流石の杢右衛門も、そこに同席している村垣も驚きを隠せず、目を見開く。
「尾張殿の……」
「はっ?」
村垣など、宗次郎と求馬を交互に二度見している。
「此度の件、何かお力になれることがございましたら、何なりとお申し付けくだされ」
「いや、その……」
村垣が困った風に頭を掻いた。それはそうだろう。尾張に極秘で下屋敷内の不正を暴いていたのだから。ここにいる誰もが、その件に三九郎が巻き込まれたと思っていることは明白だった。
戸惑う村垣を一瞥した杢右衛門が、説明を始めた。
「実は我々鷹役人の間で、奇妙な事件が頻発しておりましてな」
「事件、でござるか」
「はい」
杢右衛門が、先月の鳥見役人殺しの件を話して聞かせた。
「さらに町方の餌差の間でも不正取引やら違法の猟やら、不穏な騒ぎが相次ぎましてな。倅はたまたま、この騒動に巻き込まれただけでしょう。あいつにはこのことを伏せておりましたゆえ」
その発端が尾張の戸山荘にあることは伏せて話していたのだが、弾かれたかのように求馬が頭を下げた。
「相すまぬ! その不正、我が下屋敷にて取引しておったこと、ついぞ上様より伺い、こちらでも内通者を使い探っておった次第でござる」
「まことに面目ない」と、再び頭を下げた求馬に、村垣がまたもや目を瞬かせている。
求馬のこういう部分……高い身分に似つかわしくない潔さというか正直さは、裏の駆け引きばかりを追って来た隠密の男には珍しくて仕方ないのだろう。
杢右衛門は求馬の頭を上げさせると、柔らかい口調で話した。
「そうでございますか。しかし、それは我々も同様にござる。町人餌差や鳥屋がいかに細工をしようが、彼奴らの管理は町奉行の管轄。実際に金子を動かすとなると、公儀の餌差、あるいは鷹匠が関わっておったのではと、我らも内々で探りを入れておる最中にござった」
杢右衛門の言う内々とは。当然この雑司ヶ谷の御鷹役人全てを指している。ここまで事情を明かすのは、杢右衛門が求馬のことをこの寸時で信用した証である。
「父上、兄上はどこで何をして襲われたのでしょう」
宗次郎は居ても立ってもいられなかった。もしこれに九鬼丸が噛んでいるのだとすると、もっと面倒なことになるような気がした。
「うむ、御鷹を据えて歩いておったのじゃ。三月に津軽様(津軽藩藩主)より献上された黄鷹(若鷹)を三九郎が預かるようになってな。普段なら鷹匠同心が世話をするのだが、この〈横尾〉という名の黄鷹には随分手を焼いておって、三九郎自らが訓練しておったのじゃ。秋には狩りに出せるようにと。ここ最近では雑司ヶ谷の畑地を出て、姿見の橋に向いて少しずつ据えて歩く範囲を広げておった」
「で、襲われたのは」
「南蔵院を過ぎ、氷川の杜辺りだと言っておった。あいつは鷹を据えておった左手を庇い、右肩に刀を受けたのだが、据えておった横尾がなあ……倅を護るように敵に襲い掛かったようで、羽を斬られて。そのおかげでとどめを免れたようじゃ」
「横尾が……」
羽をやられてしまっては、もう狩に使うことはできないだろう。上様にどう詫びるのか。三九郎の心中を考えると、胸がつぶれる。
杢右衛門が大きく肩を落とす。
「三九郎をいつもの同心と勘違いして襲ったのか、それとも宮井三九郎だとわかって襲ったのか……何にせよ、襲った輩は一人だったのが不幸中の幸いだ」
求馬が杢右衛門に向かって問うだ。
「戸山荘での件が尾を引いているとお考えでござるか」
「いや。そこまでは」
「拙者の話を聞いて、判断してくだされ」
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