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第三話 復讐の形
相賀家の闇 二
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全ての目が宗次郎に注がれる。矢のように突き刺さる視線に、心臓がずきずきと脈打つ。
ずっと奥に仕舞いこんでいた事実。杢右衛門にも言えず、忘れたふりをしてやり過ごしてきた。今の今まで……
まさか、この様な形で、あの時の地獄が人目にさらされるとは、つい昨日までは思いもしなかった。
「な、なにを言うか」
杢右衛門が取り繕うように言ったが、宗次郎には届かなかった。
今、宗次郎の目の前には暗闇が広がり、ありもしない血の海が見えていた。
――父の身体から滲み出る血……目の前の男の頭から吹き出す血飛沫……己の顔を濡らした血反吐は誰の物なのか……
あの日、鉄味を帯びた生臭い臭いは鼻から喉を犯し、声を奪った。そしてあの事件の直後、宗次郎はひと月以上、口をきかなかった。
しかし、今こそ声を出す時なのだと、喉の奥で停滞していた真実を絞り出した。
「わ、私のはなしを……私が話せなかったあの時の……」
「そう……」
身を乗り出した杢右衛門が吐き出そうとした言葉を呑み込み、宗次郎の声に耳を傾けるため、体を戻した。
「あ、あの日……伯父貴が訪ねて来た時から父は不機嫌で、私は一人、奥の台所で隠れるように飯を……独り、飯を食っておりました」
あの日の重苦しい空気が蘇る。
暗くひんやりとした台所。季節は冬に向かう前の霜月。「雪が降る前にここを出ろ」という声。重々しい二人の会話。嘲るような客人の甲高い笑い声。
ひっそりと、声を殺すように煮干しをかじっては飲み込み、麦飯を咀嚼しては、ごくりと飲み込むその音が外に聞こえやしないかと気をかける。なぜか、自分がここにいることを客人に知られてはまずいと、本能が教えていた。
「……そのうち、二人が外に出て、多分斬り合いになったのだと……。けど私は、耳を塞いで……父が戻るのをじっと待っておりました」
いつしか二人のやり取りに諍いが生じていた。大人同士の怒鳴り合いは、それまで父と二人きりで静かに暮らしていた宗次郎には、ひどく恐ろしく感じ、だから耳を手で覆い、うずくまっていたのだ。外に出たのはわかった。外から聞こえてきた声が、気合の声であったことから、二人はとうとう斬り合いになったのだということも察した。
身震いが止まらない程怖かったが、最強だと信じていた父が負けるとは思ってもいなかった。
「しかし、戻ってきたのは父ではなく、伯父貴でした。私は伯父貴に……」
ドスドスと板の間を踏み鳴らし大股で近づく男の威圧感を思い出し、奥歯を噛みしめる。
あれは獣。異様に赤く血走った目に捕らえられた己は、まるで小動物のように怯えていた。
「伯父貴は……私に覆いかぶさり、私の……体を開き、私の首筋を」
「もうよい!」
遮った杢右衛門の声が聞こえないのか、虚ろな眼差しのまま続ける。
「舐めながら、手ぇは着物を剥いで、腹を……撫でながら言うたんです。『親父はもう死んだ。お前は俺が連れて帰る』と。その、父を斬った血だらけの指で俺の」
「宗次郎! やめなさい!」
「気持ち悪うて、我慢できへんなって、ほいで、気ぃついたら、俺は火箸であいつを刺しとった。そうしたら若い男が喚きながら入ってきて、目の前まで刀が迫ってきたとこまでは憶えとるんやが……いつの間にか、俺は父上の下敷きになっとって、父上が……」
(父上が最期に言うたんや。『生きろ』と。『死ぬな、逃げて生き延びろ』と)
耳元で絶え絶えに聞こえた父の声。だから生きてきた。父に救われた命を消さないように、必死で……
まるで童子のように震える宗次郎を、求馬が掻き抱いた。
「それは辛かったのう」と。
その様子を見守りつつ、村垣が当時を思い返す。
「つまりなんだ、あの時、正蔵を刺したのは宗次郎で、宗次郎を庇って周作殿は、あの若者に」
「その若者こそが、通温殿の隠密であったという相賀辰蔵。つまり正蔵の息子」
「九鬼丸でございまするか」
村垣が思い出した過去に、杢右衛門が結論を出し、求馬が九鬼丸の素性を理解した。
求馬の腕の中で、宗次郎は茫然としたままポツリと漏らした。
「……俺は九鬼丸の親父様の仇なんやなあ」
杢右衛門が宗次郎の手を引き、自分の方へと向き直らせた。
「違うぞ、宗次郎! あれは正蔵、自ら招いた災いじゃ。お主が殺さずとも、周作殿が殺しておった。それにあの状況だ。瀕死の周作殿に勝ち目はなく、正蔵の息子に殺されたのも、致し方ないことだったのじゃ」
それでも、九鬼丸にそのような言い訳が通用するだろうか。二人目の義父の目を見ながら思う。
ふと思いついたように村垣が言った。
「まさか、九鬼丸とやらは、宗次郎が父親の仇だと知って、近付いたのであろうか」
村垣の思い付きを、求馬が否定した。
「だったら、即、殺していたでしょう。あいつはそういう所で躊躇するような男ではありませぬ。それにその時の若者が辰蔵であったとするならば、互いが仇。たとえ士分でなかろうが、敵討ちを申し込むでありましょう」
しかし、九鬼丸が知っていようが知らなかろうが、宗次郎にとってはどうでも良かった。
己は真実を知ってしまったのだから。己は九鬼丸の父の仇で、九鬼丸は自分の父の仇なのだと。そして血の繋がりが無いとはいえ、自分と九鬼丸は従兄弟だったのだ。
それなのに、呑気に九鬼丸に対し、思いを寄せていたとは……
(笑てまう)
◇
雑司ヶ谷の御鷹屋敷に、乗り物と呼ばれる豪奢な駕籠が到着した。それと一緒に、尾張家から三人の供侍が迎えに来た。
求馬から「これからどうするのか」と、尋ねられたが、宗次郎は何も考えられず、「一晩だけ泊まる」としか答えられなかった。
未だ顔色が悪く意気消沈している宗次郎に、求馬の手が伸びた。その人差し指が宗次郎の額を弾く。
「いたっ」
驚いて、求馬の顔を見上げた。
「九鬼丸のしていたことを、この俺ですら見抜けなかったのじゃ。たかが数回会っただけのお前に何が見抜けるというのじゃ。戯けたことで悩むな」
呑気な求馬に怒りさえ感じ、つい問い返した。
「求馬様は、俺のしたことを何とも思わないのですか」
求馬からまっすぐな視線が返ってきた。
「お前の過去のことか? 子供をあそこまで追い込んだ九鬼丸の親父に胸糞が悪くなっただけじゃ」
「でも俺は!」
弾かれるように言い返したものの、その後の声はどんどん萎んでいった。
「お、おれは、町人餌差のふりをした、紀伊和歌山の隠密にございます……昔、人を殺したこの手で、いまなお殺生人として生きる、血塗られた生き方しかできない鬼にございます。求馬様に身分を偽り近づいた不届き者にございまする」
泣き出しそうな情けない声で訴える。
それでも求馬は笑っていた。
「それがどうした。過去のことは災難にすぎぬ。宮井殿の言う通り、どう転んでもあの結末にしかならなかったのだ。それに俺にとってお主は〈相賀十吉〉でも〈殺生人の宗次郎〉でもない。ただの宗次郎じゃ。俺の友の宗次郎なんだよ」
宗次郎の目が潤む。どこまでも甘く、どこまでも純真な求馬の態度が、宗次郎の胸を締め付ける。
「そんな過去になど捕らわれず、お主はもっと自由に生きて良いと思うぞ」
『自由』という言葉に、宗次郎は唖然とした。武士という身分と自由という生き方は対極にある。
「我らに自由など」
「確かに我らは生き方を選べぬ。だがな、心まで縛られてどうするか。生業を全うすることと、心の芯の持ちようは別物だと、俺は思うておる」
去り際にもう一度、求馬が振り向いた。
「だから次に会う時も、『求さん』と呼んでくれ」
ずっと奥に仕舞いこんでいた事実。杢右衛門にも言えず、忘れたふりをしてやり過ごしてきた。今の今まで……
まさか、この様な形で、あの時の地獄が人目にさらされるとは、つい昨日までは思いもしなかった。
「な、なにを言うか」
杢右衛門が取り繕うように言ったが、宗次郎には届かなかった。
今、宗次郎の目の前には暗闇が広がり、ありもしない血の海が見えていた。
――父の身体から滲み出る血……目の前の男の頭から吹き出す血飛沫……己の顔を濡らした血反吐は誰の物なのか……
あの日、鉄味を帯びた生臭い臭いは鼻から喉を犯し、声を奪った。そしてあの事件の直後、宗次郎はひと月以上、口をきかなかった。
しかし、今こそ声を出す時なのだと、喉の奥で停滞していた真実を絞り出した。
「わ、私のはなしを……私が話せなかったあの時の……」
「そう……」
身を乗り出した杢右衛門が吐き出そうとした言葉を呑み込み、宗次郎の声に耳を傾けるため、体を戻した。
「あ、あの日……伯父貴が訪ねて来た時から父は不機嫌で、私は一人、奥の台所で隠れるように飯を……独り、飯を食っておりました」
あの日の重苦しい空気が蘇る。
暗くひんやりとした台所。季節は冬に向かう前の霜月。「雪が降る前にここを出ろ」という声。重々しい二人の会話。嘲るような客人の甲高い笑い声。
ひっそりと、声を殺すように煮干しをかじっては飲み込み、麦飯を咀嚼しては、ごくりと飲み込むその音が外に聞こえやしないかと気をかける。なぜか、自分がここにいることを客人に知られてはまずいと、本能が教えていた。
「……そのうち、二人が外に出て、多分斬り合いになったのだと……。けど私は、耳を塞いで……父が戻るのをじっと待っておりました」
いつしか二人のやり取りに諍いが生じていた。大人同士の怒鳴り合いは、それまで父と二人きりで静かに暮らしていた宗次郎には、ひどく恐ろしく感じ、だから耳を手で覆い、うずくまっていたのだ。外に出たのはわかった。外から聞こえてきた声が、気合の声であったことから、二人はとうとう斬り合いになったのだということも察した。
身震いが止まらない程怖かったが、最強だと信じていた父が負けるとは思ってもいなかった。
「しかし、戻ってきたのは父ではなく、伯父貴でした。私は伯父貴に……」
ドスドスと板の間を踏み鳴らし大股で近づく男の威圧感を思い出し、奥歯を噛みしめる。
あれは獣。異様に赤く血走った目に捕らえられた己は、まるで小動物のように怯えていた。
「伯父貴は……私に覆いかぶさり、私の……体を開き、私の首筋を」
「もうよい!」
遮った杢右衛門の声が聞こえないのか、虚ろな眼差しのまま続ける。
「舐めながら、手ぇは着物を剥いで、腹を……撫でながら言うたんです。『親父はもう死んだ。お前は俺が連れて帰る』と。その、父を斬った血だらけの指で俺の」
「宗次郎! やめなさい!」
「気持ち悪うて、我慢できへんなって、ほいで、気ぃついたら、俺は火箸であいつを刺しとった。そうしたら若い男が喚きながら入ってきて、目の前まで刀が迫ってきたとこまでは憶えとるんやが……いつの間にか、俺は父上の下敷きになっとって、父上が……」
(父上が最期に言うたんや。『生きろ』と。『死ぬな、逃げて生き延びろ』と)
耳元で絶え絶えに聞こえた父の声。だから生きてきた。父に救われた命を消さないように、必死で……
まるで童子のように震える宗次郎を、求馬が掻き抱いた。
「それは辛かったのう」と。
その様子を見守りつつ、村垣が当時を思い返す。
「つまりなんだ、あの時、正蔵を刺したのは宗次郎で、宗次郎を庇って周作殿は、あの若者に」
「その若者こそが、通温殿の隠密であったという相賀辰蔵。つまり正蔵の息子」
「九鬼丸でございまするか」
村垣が思い出した過去に、杢右衛門が結論を出し、求馬が九鬼丸の素性を理解した。
求馬の腕の中で、宗次郎は茫然としたままポツリと漏らした。
「……俺は九鬼丸の親父様の仇なんやなあ」
杢右衛門が宗次郎の手を引き、自分の方へと向き直らせた。
「違うぞ、宗次郎! あれは正蔵、自ら招いた災いじゃ。お主が殺さずとも、周作殿が殺しておった。それにあの状況だ。瀕死の周作殿に勝ち目はなく、正蔵の息子に殺されたのも、致し方ないことだったのじゃ」
それでも、九鬼丸にそのような言い訳が通用するだろうか。二人目の義父の目を見ながら思う。
ふと思いついたように村垣が言った。
「まさか、九鬼丸とやらは、宗次郎が父親の仇だと知って、近付いたのであろうか」
村垣の思い付きを、求馬が否定した。
「だったら、即、殺していたでしょう。あいつはそういう所で躊躇するような男ではありませぬ。それにその時の若者が辰蔵であったとするならば、互いが仇。たとえ士分でなかろうが、敵討ちを申し込むでありましょう」
しかし、九鬼丸が知っていようが知らなかろうが、宗次郎にとってはどうでも良かった。
己は真実を知ってしまったのだから。己は九鬼丸の父の仇で、九鬼丸は自分の父の仇なのだと。そして血の繋がりが無いとはいえ、自分と九鬼丸は従兄弟だったのだ。
それなのに、呑気に九鬼丸に対し、思いを寄せていたとは……
(笑てまう)
◇
雑司ヶ谷の御鷹屋敷に、乗り物と呼ばれる豪奢な駕籠が到着した。それと一緒に、尾張家から三人の供侍が迎えに来た。
求馬から「これからどうするのか」と、尋ねられたが、宗次郎は何も考えられず、「一晩だけ泊まる」としか答えられなかった。
未だ顔色が悪く意気消沈している宗次郎に、求馬の手が伸びた。その人差し指が宗次郎の額を弾く。
「いたっ」
驚いて、求馬の顔を見上げた。
「九鬼丸のしていたことを、この俺ですら見抜けなかったのじゃ。たかが数回会っただけのお前に何が見抜けるというのじゃ。戯けたことで悩むな」
呑気な求馬に怒りさえ感じ、つい問い返した。
「求馬様は、俺のしたことを何とも思わないのですか」
求馬からまっすぐな視線が返ってきた。
「お前の過去のことか? 子供をあそこまで追い込んだ九鬼丸の親父に胸糞が悪くなっただけじゃ」
「でも俺は!」
弾かれるように言い返したものの、その後の声はどんどん萎んでいった。
「お、おれは、町人餌差のふりをした、紀伊和歌山の隠密にございます……昔、人を殺したこの手で、いまなお殺生人として生きる、血塗られた生き方しかできない鬼にございます。求馬様に身分を偽り近づいた不届き者にございまする」
泣き出しそうな情けない声で訴える。
それでも求馬は笑っていた。
「それがどうした。過去のことは災難にすぎぬ。宮井殿の言う通り、どう転んでもあの結末にしかならなかったのだ。それに俺にとってお主は〈相賀十吉〉でも〈殺生人の宗次郎〉でもない。ただの宗次郎じゃ。俺の友の宗次郎なんだよ」
宗次郎の目が潤む。どこまでも甘く、どこまでも純真な求馬の態度が、宗次郎の胸を締め付ける。
「そんな過去になど捕らわれず、お主はもっと自由に生きて良いと思うぞ」
『自由』という言葉に、宗次郎は唖然とした。武士という身分と自由という生き方は対極にある。
「我らに自由など」
「確かに我らは生き方を選べぬ。だがな、心まで縛られてどうするか。生業を全うすることと、心の芯の持ちようは別物だと、俺は思うておる」
去り際にもう一度、求馬が振り向いた。
「だから次に会う時も、『求さん』と呼んでくれ」
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