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第三話 復讐の形
寂しさの正体
しおりを挟む珍しい鳥の声が聴こえてきてハッと顔を上げた。知らずのうちにうつらうつらとしていたようだ。
甲高く澄んだ鳴き声は、アカハラのさえずりだろう。窓に目をやると、障子越しの闇が浅くなっていた。
三九郎の方を見ると、熱が下がって来たのか、額に刻まれていた皺が緩んでいた。今は穏やかな寝息が、しとしとと降る雨音と共に聞こえている。
規則正しい寝息を聞き、宗次郎は腰を上げると障子窓の隙間を広げ風を入れた。
夜のうちは熱にうなされ、息づかいも苦しそうだった夫の姿に、さすがのお鶴も泣きそうな顔で、ひたすら三九郎の手を握っていた。宗次郎はそのそばで、一緒に寝ずの看病をしていた。
「あとは、わたくしが付いておりますゆえ、宗さんはお休みになって」
乾いた布巾で三九郎の額の汗を拭うと、お鶴が宗次郎を気遣うように、控えめな声を発した。
「いえ、義姉上こそ、少し休んでください。朝の支度もありましょう。俺なら昼間にでも寝ますから」
お鶴はしばし宗次郎の顔を眺めていたが、小さくため息を吐くと、「では」と立ち上がった。
「あまり、根を詰めませぬように。ね?」
慰める立場が、慰められてしまったことに気付いた時には、お鶴の姿はなかった。
夜明けの鐘から二度目の鐘が聞こえてきた頃、三九郎が少しのうめき声と共に目を覚ました。
「兄上!」
「……父上は」
かすれた声で聞いてきた。三九郎が乾いた唇の中央を舌で少し舐めた。それを見て、宗次郎は濡れた手拭いで三四郎の口を湿らせる。
「御鷹の世話に戻りました」
「そっか。すまなんだ。迷惑をかけた」
「そんな。迷惑など。俺のせいやのに」
三九郎が訝しげな顔をした。
「なんでそうなんのや」
事情を知らない三九郎にすれば、確かにそうであろうが、宗次郎の頭には、兄に対する謝罪の念しか浮かんでこないのだ。
「俺が、あがの仕事に迂闊やったさかい、こないなことになってもうた」
うつむき、膝の上の拳を握りしめる。
「事情はわからんが、上様に頼まれとる仕事け?」
問いかけに、黙って首を縦に振る。
「敵やと気付かんと……」
相手に情を持ってしまった――とまでは暴露できなかった。その相手が昔、己が殺した男の息子であったことも、自分の父の仇であることも、従兄弟であることも。そして、好きでたまらないことも……。
結局何も打ち明けられず、全て胸の内に仕舞いこんだ。
そんな宗次郎の様子を眺めていた三九郎が、ふっと鼻で笑った。
「おまん(お前)は心が優しいさけなあ。けど、そいつが俺を襲ったと決まったわけやないやろが」
「やけど、戸山荘。あの件が絡んでるに違いないと」
斬られた肩が痛むのか、体の位置を微妙にずらしながら、宗次郎の方へ顔を向けた。
「父上が探っとった件か? 尾張殿の下屋敷で餌鳥の不正な取引があったとか」
「はい」
「けどよ、せやさかいって、なんでいきなし、俺を襲う必要があんのや」
「鳥屋だけで不正をするのは難しいと。それを仲介する公儀の人間がおるんでは、と」
「父上がそない言うてたんか」
宗次郎は無言で肯いた。
「やとしたら、おまんの所為とちゃうやんけ」
「いや、それに関わってたかもしれん人物を! ……俺は、見逃したかもしれんのや」
つい情けなさで、語尾が小さくなる。
「そやかて……」
話し続けることに苦しくなったのか、三九郎が上を向き、目を瞑った。
「すまん、ちょっと閉めてくれ」
目を瞑ったまま、右手を弱々しく掲げると、中庭に向かって少し開いた障子の隙間を示した。
「暑くないですか」
「ええから」
そのまま目を開け、障子が閉められたことを確認すると、今度は宗次郎の着物の裾を引いた。
「ええか」
潜められた声に、宗次郎が身を屈め、耳を近づけた。
「和歌山では、己の鷹は、己で世話をしとった。せやけど江戸では鷹の世話は鷹匠やのうて鷹匠同心がすんのが普通や。けど、此度の〈横尾〉は同心らでは手ぇを焼いとったさかい、あがで訓練をしとったんや。つまり、もしかしたら俺を襲った奴は、その同心を消したかったかも知れんちゅうことも考えられるやろ」
(裏切りは尾張の中ではなく、御鷹屋敷の中っちゅうことか)
宗次郎の眉間にも深いしわが刻まれた。
「ええか、ここの役人どもは、和歌山の城のもんとはちゃうんや。気を許すな。敵やとわかりやすい奴ほど敵やないかもしれん。あがの手下やと信じとる者こそ裏切りもんっちゅうこともあるぞ。上様がなんであがらみたいな下っ端のもんをわざわざ国から江戸に下らせたんか、宗次郎、よう考えてみよ」
わざわざ、一介の餌差であった宗次郎を将軍専属の殺生人に仕立てた理由にも当てはまりそうな、上様の思惑。
「俺はどうしたら」
「さっさと帰って、あがの仕事の続きに励め」
三九郎がきっぱりとした口調で命ずる。
気丈にふるまっているが、首を伝う汗や顔色で、苦しいのが丸わかりだ。
だが結局、三九郎には逆らえず、宗次郎は渋々雑司ヶ谷の御鷹屋敷を後にした。
◇
己が兄の側にいたとて、何の役にも立たないことは百も承知である。それならば少しでも九鬼丸の跡を探った方が――とはわかっているが、それでも苦しそうな兄を残して行くのは辛かった。
雨はとうに上がっていた。梅雨の晴れ間。虹を背に歩く先は、おふみのいる茶店。
「あら、宮井さん。おひさしぶり。全然お顔を見せてくれなかったから、寂しかったじゃない」
明るいおふみの声を聞くと、少しは心が晴れる気がした。
「ここんとこ、斎藤さんも全然いらっしゃらなくて。言ってもね、雨続きだったから、お客も少なかったのだけど」
お茶を置くと、少し眉を下げた笑みを浮かべ、御鷹部屋の方角に目をやった。鬼子母神堂へ向かう道も、雨の日は人が少ない。
「雨続きだと近場で雀が獲れなきゃ、遠出をしているのかもしれませんね」
とは答えたものの、まだまだあいつ一人では遠出しても成果を出すのは難しいだろう。誰かと組んで、仕事に励んでいるのだろうか……と、宗次郎も御鷹部屋の方を見ながら、半平太の仕事ぶりを思った。
一緒にのんびりと雀を追っていた春の日が懐かしい。
あの日、葵の餌差札を賜った日から、もう、己の居場所は、あの御鷹屋敷の中ではない。
「なんだか宮井さんも寂しそうなお顔をなさってるね」
ふと、おふみにのぞき込まれ、思わず自分の顔を撫でた。
「そ、そうか?」
「うん。何かあった?」
「いや、特に何も……」
まさか鷹匠見習いの兄が斬られたと話題にするわけにもいかず。しかし確かに悔しさと申し訳なさに押しつぶされそうではあるが。
(寂しい?)
意外な言葉に己の心を見つめ直す。
水田の向こうに鷹を据えた同心が三人連れで行くのが見えた。三九郎が斬られたことから、用心のため一人で出かけることを禁じたのだろうと思われる。
(認めたくなんぞないけど……)
消えたのはたった一人の渡り中間だ。
けれど、幕府も尾張家も敵に回したであろう男に、自分は確かに魅かれていた。好いた惚れたではなく、純粋に彼を慕っていた。
無意識に首を擦りながら、宗次郎は込み上げてくる寂しさと折り合いがつくまで、三人組で歩む鷹匠同心の姿を見つめていた。
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