45 / 46
第三話 復讐の形
軒先の雀
しおりを挟む
◇
夏が深む。
吉兵衛が縁日で買い求めた朝顔は次々と蕾をつけ、毎朝、紀伊国屋の家人や客人の目を楽しませてくれていた。
文月(旧暦七月)に入ったこの日、あまりにも日差しが暑かったので、宗次郎は昼四ツ過ぎには早々に鳥刺しを止め、紀伊国屋へ戻ってきた。
つしに上がり、「暑かったよなあ」などと、話しかけながら、巣箱に雀を放つ。
階段を降りると、待ち構えていたように、柱にもたれて腕を組んだまま佇む雲雀がいた。
「そろそろ元気にならないと笑われますよ」
(ほっとけ、お節介)
雲雀への反論は口の出さず、そっぽを向くだけにとどめた。
いつまでもあの件に囚われているつもりはなかったが、それでも周りにわかるほど、宗次郎は抜け殻のように見えた。
「これ、宗次郎さんに届いていたそうですよ」
そっぽを向いた宗次郎の鼻先に、雲雀が紙をひらひらとさせた。
「文?」
「さあ。差出人は書かれていませんの。朝の軽子が他の荷物と一緒に持って来たそうですよ。なんでも、文月に入ってから届ける様にと、水無月(旧暦六月)の頃から預かっていたとのことです」
鼻先に突きつけられたそれを訝しげな思いで受け取る。
書簡の表には、『金剛寺坂紀伊国屋方 宮井宗次郎殿』とだけ書かれている。
町人餌差である宗次郎を宮井家の者だと知っているのは、紀伊国屋の亭主と雲雀くらいのものだ。
「いったい、誰が……」
どこか見覚えのある文字に、ハッと目を見開いた。
途端、竿やら笠やら、仕事道具いっさいを土間に放ったまま、書簡だけを持って奥の仕事部屋に駆け込んだ。
(まさか、まさか!)
心音がうるさい。
「ちゃんと後で片して下さいませ」
追いかけて来る雲雀の小言も耳に入らなかった。
震える手で、三つ折りになった封書を開くと、中から一枚の手紙が出てきた。
「和歌……」
美しい行書で書かれた文字を、指でなぞりながら声に出して読む。
「我死なば……雀となりて、君がそば、宿の軒にて……ねぐら……さだ……めむ」
崇徳院の恋和歌をもじった歌。
宗次郎は雀の文字を愛おしく撫でた。
――「俺はね、本気で惚れた相手には、自分の言葉で恋を詠んでやるさ」
九鬼丸の言葉が頭の中に蘇る。
和歌に添えられ、たった一言。『我後悔せず』との走り書きがあった。
――「あれで良かったのさ」
耳たぶの横で、九鬼丸の囁きが聞こえたような気がして、体を固くする。
忘れようとしていたのに、九鬼丸の吐息や、首筋に触れる少しささくれた指先の感触が、次々と目くるめくばかりに蘇った。
「く、九鬼丸……九鬼丸……九鬼丸、九鬼丸」
もう二度と逢うことの叶わない男の名を何度も呼ぶ。
「九鬼丸……九鬼丸……くきまる……」
宗次郎の声に呼応するように、蝉時雨が割って入った。
名を口にしてしまうと、ついに堪えきれず、和歌を胸に抱いた。そして体を折って慟哭した。
いったい、どれほどの間、そうやっていたのだろう。
いつの間に蝉の声が止んだのか、物売りの呑気な声が部屋の中に届いた。
ござや、ござぁ、門前のごさぁ、花ござに門前ござー
声は小さくなりながら、遠ざかって行く。
ござや、ござぁー、花ござに門前ござぁー
ござや、ござぁー
軒先で日差しを避けていた雀が一羽、窓の桟へと飛んできて、時が止まったような部屋の中を、黒い瞳でじっと見ていた。
夏が深む。
吉兵衛が縁日で買い求めた朝顔は次々と蕾をつけ、毎朝、紀伊国屋の家人や客人の目を楽しませてくれていた。
文月(旧暦七月)に入ったこの日、あまりにも日差しが暑かったので、宗次郎は昼四ツ過ぎには早々に鳥刺しを止め、紀伊国屋へ戻ってきた。
つしに上がり、「暑かったよなあ」などと、話しかけながら、巣箱に雀を放つ。
階段を降りると、待ち構えていたように、柱にもたれて腕を組んだまま佇む雲雀がいた。
「そろそろ元気にならないと笑われますよ」
(ほっとけ、お節介)
雲雀への反論は口の出さず、そっぽを向くだけにとどめた。
いつまでもあの件に囚われているつもりはなかったが、それでも周りにわかるほど、宗次郎は抜け殻のように見えた。
「これ、宗次郎さんに届いていたそうですよ」
そっぽを向いた宗次郎の鼻先に、雲雀が紙をひらひらとさせた。
「文?」
「さあ。差出人は書かれていませんの。朝の軽子が他の荷物と一緒に持って来たそうですよ。なんでも、文月に入ってから届ける様にと、水無月(旧暦六月)の頃から預かっていたとのことです」
鼻先に突きつけられたそれを訝しげな思いで受け取る。
書簡の表には、『金剛寺坂紀伊国屋方 宮井宗次郎殿』とだけ書かれている。
町人餌差である宗次郎を宮井家の者だと知っているのは、紀伊国屋の亭主と雲雀くらいのものだ。
「いったい、誰が……」
どこか見覚えのある文字に、ハッと目を見開いた。
途端、竿やら笠やら、仕事道具いっさいを土間に放ったまま、書簡だけを持って奥の仕事部屋に駆け込んだ。
(まさか、まさか!)
心音がうるさい。
「ちゃんと後で片して下さいませ」
追いかけて来る雲雀の小言も耳に入らなかった。
震える手で、三つ折りになった封書を開くと、中から一枚の手紙が出てきた。
「和歌……」
美しい行書で書かれた文字を、指でなぞりながら声に出して読む。
「我死なば……雀となりて、君がそば、宿の軒にて……ねぐら……さだ……めむ」
崇徳院の恋和歌をもじった歌。
宗次郎は雀の文字を愛おしく撫でた。
――「俺はね、本気で惚れた相手には、自分の言葉で恋を詠んでやるさ」
九鬼丸の言葉が頭の中に蘇る。
和歌に添えられ、たった一言。『我後悔せず』との走り書きがあった。
――「あれで良かったのさ」
耳たぶの横で、九鬼丸の囁きが聞こえたような気がして、体を固くする。
忘れようとしていたのに、九鬼丸の吐息や、首筋に触れる少しささくれた指先の感触が、次々と目くるめくばかりに蘇った。
「く、九鬼丸……九鬼丸……九鬼丸、九鬼丸」
もう二度と逢うことの叶わない男の名を何度も呼ぶ。
「九鬼丸……九鬼丸……くきまる……」
宗次郎の声に呼応するように、蝉時雨が割って入った。
名を口にしてしまうと、ついに堪えきれず、和歌を胸に抱いた。そして体を折って慟哭した。
いったい、どれほどの間、そうやっていたのだろう。
いつの間に蝉の声が止んだのか、物売りの呑気な声が部屋の中に届いた。
ござや、ござぁ、門前のごさぁ、花ござに門前ござー
声は小さくなりながら、遠ざかって行く。
ござや、ござぁー、花ござに門前ござぁー
ござや、ござぁー
軒先で日差しを避けていた雀が一羽、窓の桟へと飛んできて、時が止まったような部屋の中を、黒い瞳でじっと見ていた。
11
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
『五感の調べ〜女按摩師異聞帖〜』
月影 朔
歴史・時代
江戸。盲目の女按摩師・市には、音、匂い、感触、全てが真実を語りかける。
失われた視覚と引き換えに得た、驚異の五感。
その力が、江戸の闇に起きた難事件の扉をこじ開ける。
裏社会に潜む謎の敵、視覚を欺く巧妙な罠。
市は「聴く」「嗅ぐ」「触れる」独自の捜査で、事件の核心に迫る。
癒やしの薬膳、そして人情の機微も鮮やかに、『この五感が、江戸を変える』
――新感覚時代ミステリー開幕!
【完結】『紅蓮の算盤〜天明飢饉、米問屋女房の戦い〜』
月影 朔
歴史・時代
江戸、天明三年。未曽有の大飢饉が、大坂を地獄に変えた――。
飢え死にする民を嘲笑うかのように、権力と結託した悪徳商人は、米を買い占め私腹を肥やす。
大坂の米問屋「稲穂屋」の女房、お凛は、天才的な算術の才と、決して諦めない胆力を持つ女だった。
愛する夫と店を守るため、算盤を武器に立ち向かうが、悪徳商人の罠と権力の横暴により、稲穂屋は全てを失う。米蔵は空、夫は獄へ、裏切りにも遭い、お凛は絶望の淵へ。
だが、彼女は、立ち上がる!
人々の絆と夫からの希望を胸に、お凛は紅蓮の炎を宿した算盤を手に、たった一人で巨大な悪へ挑むことを決意する。
奪われた命綱を、踏みにじられた正義を、算盤で奪い返せ!
これは、絶望から奇跡を起こした、一人の女房の壮絶な歴史活劇!知略と勇気で巨悪を討つ、圧巻の大逆転ドラマ!
――今、紅蓮の算盤が、不正を断罪する鉄槌となる!
花嫁
一ノ瀬亮太郎
歴史・時代
征之進は小さい頃から市松人形が欲しかった。しかし大身旗本の嫡男が女の子のように人形遊びをするなど許されるはずもない。他人からも自分からもそんな気持を隠すように征之進は武芸に励み、今では道場の師範代を務めるまでになっていた。そんな征之進に結婚話が持ち込まれる。
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
【完結】『江戸めぐり ご馳走道中 ~お香と文吉の東海道味巡り~』
月影 朔
歴史・時代
読めばお腹が減る!食と人情の東海道味巡り、開幕!
自由を求め家を飛び出した、食い道楽で腕っぷし自慢の元武家娘・お香。
料理の知識は確かだが、とある事件で自信を失った気弱な元料理人・文吉。
正反対の二人が偶然出会い、共に旅を始めたのは、天下の街道・東海道!
行く先々の宿場町で二人が出会うのは、その土地ならではの絶品ご当地料理や豊かな食材、そして様々な悩みを抱えた人々。
料理を巡る親子喧嘩、失われた秘伝の味、食材に隠された秘密、旅人たちの些細な揉め事まで――
お香の持ち前の豪快な行動力と、文吉の豊富な食の知識、そして二人の「料理」の力が、人々の閉ざされた心を開き、事件を解決へと導いていきます。時にはお香の隠された剣の腕が炸裂することも…!?
読めば目の前に湯気立つ料理が見えるよう!
香りまで伝わるような鮮やかな料理描写、笑いと涙あふれる人情ドラマ、そして個性豊かなお香と文吉のやり取りに、ページをめくる手が止まらない!
旅の目的は美味しいものを食べること? それとも過去を乗り越えること?
二人の絆はどのように深まっていくのか。そして、それぞれが抱える過去の謎も、旅と共に少しずつ明らかになっていきます。
笑って泣けて、お腹が空く――新たな食時代劇ロードムービー、ここに開幕!
さあ、お香と文吉と一緒に、舌と腹で東海道五十三次を旅しましょう!
【完結】ふたつ星、輝いて 〜あやし兄弟と町娘の江戸捕物抄〜
上杉
歴史・時代
■歴史小説大賞奨励賞受賞しました!■
おりんは江戸のとある武家屋敷で下女として働く14歳の少女。ある日、突然屋敷で母の急死を告げられ、自分が花街へ売られることを知った彼女はその場から逃げだした。
母は殺されたのかもしれない――そんな絶望のどん底にいたおりんに声をかけたのは、奉行所で同心として働く有島惣次郎だった。
今も刺客の手が迫る彼女を守るため、彼の屋敷で住み込みで働くことが決まる。そこで彼の兄――有島清之進とともに生活を始めるのだが、病弱という噂とはかけ離れた腕っぷしのよさに、おりんは驚きを隠せない。
そうしてともに生活しながら少しづつ心を開いていった――その矢先のことだった。
母の命を奪った犯人が発覚すると同時に、何故か兄清之進に凶刃が迫り――。
とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください!
※フィクションです。
※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。
皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです!
今後も精進してまいります!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる