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ヤキモチ

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「どこも奏汰の匂いでいっぱいだな」

 サクラは公園から戻って家に上がるなり、そわそわしながらあちこちを見て回り、時々目を細めたりして楽しそうにしている。外見は王子みたいなのに行動が猫だなんて、意外性のなにものでもない。いや、元々猫だったんだから普通のことなのか。そんな様子のサクラが面白くて、僕は笑いをこらえるのに必死だった。
 
「これは何だ?」
 
 引っ越してきたばかりで、部屋の隅にまだ整理しきれていない荷物を積んでいる。その中から何か見つけたサクラが、キッチンで飲み物を準備していた僕のところにやって来た。

「あぁ、それは猫の骨格模型だよ。僕、獣医になったんだ。サクラを連れて行ったあの病院、覚えてる? 来週からあそこで働くことになってるんだ」

「あの病院か、覚えている。そうか、獣医か。俺が傍にいない間に、奏汰は立派になっていたんだな」

「立派だなんて大袈裟だなぁ。僕にはただ、この道しか考えられなかったんだ。それに僕が獣医になろうと思えたのはサクラと出会ったからだよ。あの時はまだ子どもで、傷ついたサクラを前に何もできない自分が悔しかったんだ。だからそんな思いは二度としたくなくて獣医になったんだ」

 僕が獣医になろうと思った理由は、親にも話したことが無かった。ただ動物が好きだからと思われている。今まで誰にも言わなかったことを、まさかその動機となった本人に告げることになるなんて、本当に奇跡だとしか言いようがない。そう思うとまた泣きそうになって、僕は笑って誤魔化した。これ以上、泣き虫のレッテルを貼られるのは流石に恥ずかしい。
 そんな様子を察してか、静かに僕の話を聞いていたサクラの手が伸びてきて優しく髪をなでてくる。

「ありがとう、奏汰。そんな風に考えてくれていたなんて、俺は幸せ者だな」

「うん、僕もありがとう。サクラに出会わなかったら、きっと今の僕は無いと思うから」

 幸せだと嬉しそうに言うサクラの低音の声がいっそう温かく感じて、自然と頬がほころんだ。
 
 ちょうどミルクが温まったので、コップにたっぷり注いで蜂蜜を加える。少し冷ましてから飲むように言ってサクラに渡し、テーブルに向かい合わせに座る。
 春と言っても、今日は少し肌寒い。こんな日は蜂蜜入りのホットミルクがぴったりだ。蜂蜜のほのかな花の香りと優しい甘さに癒される。

「ところで奏汰、病院で働くということは毎日色んな動物たちを診るということだよな?」

 ちびちびとホットミルクを飲んでいたサクラが、少し怪訝けげんな表情でこちらを見てくる。

「そうだけど、急にどうしたの?」

 さっきまで嬉しそうにしていたのに。
 質問の真意が分からず、僕は首をかしげた。

「いや、何と言うか、奏汰が俺以外の奴らを撫でたり触ったりするのかと思うと気に入らない」

「えっ? それはどういう……」

「そのままの意味だよ。奏汰が触れるのは俺だけにしてほしいと思ってしまった。仕事だから仕方ないのは分かってる。これはただ、俺の我が儘だ」

 淡々と告げられた予想外の言葉に驚いて、持っていたコップを落としそうになった。慌ててコップを持ち直して、拗ねるようにそっぽっを向いてしまったその横顔をしばらく無言で見つめる。何も反応が無いことを不思議に思ったのか、横目でこちらの様子を伺う視線と目が合って思わず吹き出してしまった。

「サクラ可愛い」

 お腹を抱えて笑う僕を見て、今度はサクラが心外だと言わんばかりに驚いた顔をしている。

「そんなに笑うことはないだろう」

 眉間を寄せて反論してくるサクラを、本当に可愛いと思った。

「ごめん。だけど、サクラがヤキモチをやいてくれるなんて思ってもみなかったから、ちょっと嬉しいかも」

 さっきまでは自信に満ち溢れて堂々としていたのに、ヤキモチだなんてギャップに胸を鷲掴みにされた気分だ。それにそんな心内までも、包み隠さずに伝えてくれるのが何より嬉しかった。

「ヤキモチが嬉しいなんて、奏汰は変わってるな」

「それはサクラだからだよ。でも安心して。僕が自分から触れたいと思うのはサクラだけだから」

 大胆なことを言ってしまったかなと思ったが、本心だから仕方ない。サクラ相手だとなぜか自然と、気持ちを言葉にしたくなるから不思議だ。

「それは光栄なことだな。俺も、触れたいのは奏汰だけだ。だから触れてもいいか?」

 テーブルにコップを置いてこちらに向けられた視線に、心臓が騒がしくなる。

「えっ、今? えっと、急じゃない?」

「急じゃない。もうずっと、触れたいと思っていた」

 突然の申し入れにあたふたしているうちに、サクラの手が伸びてきてギュッと手を握られた。僕の手よりも大きくて厚みがある。長い指を絡めて指と指の間をするりと撫でられ、肩が小さく震えた。

「ちょっとサクラ、手くすぐったいよ」
 
 手からサクラの体温が伝わってきて、頬が熱くなっていくのを感じる。

「奏汰は、初々しいな。さっき公園でキスをした時もだったが、今も真っ赤だ」

 僕の手を指先で弄びながら、サクラがふっと口許を緩める。その微笑みがやけに色っぽく見えて、直視できずに僕は目を逸らした。

「なっ、だっ、だってこういうの改めてされると慣れてないっていうか、今まで恋人なんていたこと無かったし、キスだって……初めてだったんだからね!」

 僕は何を言わされているんだろうかと、どこか冷静な自分がひょっこり顔を出す。だけど口が勝手に喋り出していた。
 
 自分の恋愛偏差値の低さは自覚している。当然、恋人同士のあれこれにも全く免疫がない。こっちは公園での不意打ちのキスはおろか、こうやって手を繋いでいるだけでも眩暈がしそうなのに。余裕な様子のサクラが急に意地悪に見えて、皮肉のひとつも言いたくなる。

「サクラは余裕だね。モテモテな人は違うんだろうね」

「そうだな。自分で言うのもなんだが、猫だった頃はかなりモテた」

 得意げに顎に手を当てて、何か思い出すように答えるサクラを見るところ、どうやら僕の皮肉は通じなかったらしい。それどころかモテ自慢までされてしまった。

「へぇ、それはそれは。サクラは格好いいもんね。猫の時も今も」

「奏汰? 頬が膨らんでいるが、もしかして嫉妬してくれているのか? ヤキモチなのか?」

 嫉妬かと言われればそうかもしれない。無意識に膨らんでいたらしい頬を自分の手で潰して、じっとりとした目で睨みを利かせていると、サクラがふはっと笑みをこぼした。

「そんな顔をしないでくれ。可愛すぎてどうにかしたくなる」

「もう! 笑いすぎだよ!」

 今度はわざと頬を膨らませてみる。ククッと喉を鳴らして笑うサクラを見て、立場が先ほどとは逆になったことに気付いて笑いがこみ上げてきた。
 こんなふうに笑いあう日が来るなんて、今まで想像も出来なかった。幸せで鼻の奥がツンとしたが、なんとか耐えた。笑いすぎてにじんだ涙を拭っていると、いつの間にか笑うのを止めたサクラの、自分に向けられた視線に気づいた。
 その視線をゆっくりとたどっていくと、熱を帯びた眼差しとぶつかって僕は思わず息を吞んだ。
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