7 / 12
第7話 大好きだった彼
しおりを挟む
部活の早朝練習をしている人たちの声が聞こえる以外、静かな学校。朝特有の澄んだ空気。私は、この時間の生物室が好きだった。
いつものように、イベリスに水をやる。
「この間、数学の時間にみんなで立たされたって、本当?」
じっと蛙のケースを見つめているタツに聞くと、ああ、と返ってきた。
「……圭から聞いたんだろう。『橋下がプロポーズされたことで機嫌が悪かった』と」
「うん……タツは、田中先生が橋下先生のこと、好きだったと思う?」
「知らん。手紙回しで激怒したことだけが事実だ。他は憶測にすぎない」
心底どうでもよさそうにしているクールな彼も、連帯責任で立たされていたと思うと少しおかしかった。笑いをこらえていたら「なんだ」とこちらを見てきたので、私は「なんでもない」と首を振る。けれどもすぐに、タツはあくまで田中先生と橋下先生の関係を『憶測』と捉えていて、なにも知らないのに勝手に『事実』と決めつけていた自分が恥ずかしく感じた。
「そもそも、橋下がプロポーズされた話も単なるうわさ話だ」
「え、そうなんだ……」
うわさ話を簡単に信じてしまった自分の馬鹿さ加減にあきれていると、タツが「姿穂は……」と口を開いた。しかし、その言葉の続きがなかなか出てこない。なにかためらっている様子で、どうしたのかと少し心配になる。
私の名前を呼んだまま口を閉じてしまった彼に、「タツ……?」と声をかけると、彼はこちらを見た。眉を下げて、困ったように小さく笑っている。初めて見る彼の表情に、私は急に心が冷えていくのを感じた。
「田中と橋下の与太話を聞いて、姿穂はどう思った?」
「どうって……その、話が本当だと思っていたときは、田中先生のことを気持ち悪いと感じちゃったけど……今は、事実も知らないのに勝手に決めつけた自分を恥ずかしいと思ってる……よ」
この答えで合っているのだろうか。タツがなにを考えているのかわからない。私の言動ひとつひとつを試されているかのようで、すごく居心地が悪い。
「タツ、どうしたの……?」
私の問いかけに、彼はゆっくり首を振った。そして、彼の視線がケースの方へ向いたとき、私は思わず口元を手で押さえてしまった。
「なんで……そのケースに蛇が入ってるの」
蛙が飼育されていたケースに蛇が入れられている。彼が大切に育てていた蛙の姿はどこにもない。もともと蛇が入っていたケースは床材などが残されたままで、ケースの位置を変えたのではなく、蛇を蛙のところへ移したのだと想像できる。
誰が、なんのために?
「タツがやったの……?」
彼がやったとは思っていない。生き物を大切にしている彼が、そんなことをするはずがない。「ちがう」という一言が欲しくて、震える声で彼に尋ねる。
しかし、彼の答えは私が期待しているものではなかった。
「姿穂はいつも『好きなら告白する権利がある』と言っていたな。それなのに、どうして田中と橋下の話は気持ち悪いと感じた?」
「え……今、その話関係ある……?」
「本当は、俺のことも気持ち悪いと思ってたんじゃないか」
「な、なに言ってるの。思ってないよ、そんなこと」
平然を装おうとしているけれど、タツの声は震えている。いつもならやらない作り笑いを無理にしようとして、いろいろな感情が混じった表情になっている。
「しばらく、ひとりにしてくれ」そう言う彼は、今にも泣きそうだった。
タツの言葉をかき消すかのように、8時半を知らせるチャイムが鳴る。私はなにも言えないまま、走って生物室を出た。
どうしてこうなった? 教室へ向かいながら何度も考えるけれど、答えは出てこない。「ひとりにしてくれ」と呟くタツの声が、頭にへばりつく。なにが彼を傷つけた? 彼をなにを恐れているの?
当分、タツとは会えないだろう。しかしそれよりも、あれだけ生き物を大切にしていた彼が蛙を殺したのではないか、という疑念を拭えないことがとても悲しかった。
いつものように、イベリスに水をやる。
「この間、数学の時間にみんなで立たされたって、本当?」
じっと蛙のケースを見つめているタツに聞くと、ああ、と返ってきた。
「……圭から聞いたんだろう。『橋下がプロポーズされたことで機嫌が悪かった』と」
「うん……タツは、田中先生が橋下先生のこと、好きだったと思う?」
「知らん。手紙回しで激怒したことだけが事実だ。他は憶測にすぎない」
心底どうでもよさそうにしているクールな彼も、連帯責任で立たされていたと思うと少しおかしかった。笑いをこらえていたら「なんだ」とこちらを見てきたので、私は「なんでもない」と首を振る。けれどもすぐに、タツはあくまで田中先生と橋下先生の関係を『憶測』と捉えていて、なにも知らないのに勝手に『事実』と決めつけていた自分が恥ずかしく感じた。
「そもそも、橋下がプロポーズされた話も単なるうわさ話だ」
「え、そうなんだ……」
うわさ話を簡単に信じてしまった自分の馬鹿さ加減にあきれていると、タツが「姿穂は……」と口を開いた。しかし、その言葉の続きがなかなか出てこない。なにかためらっている様子で、どうしたのかと少し心配になる。
私の名前を呼んだまま口を閉じてしまった彼に、「タツ……?」と声をかけると、彼はこちらを見た。眉を下げて、困ったように小さく笑っている。初めて見る彼の表情に、私は急に心が冷えていくのを感じた。
「田中と橋下の与太話を聞いて、姿穂はどう思った?」
「どうって……その、話が本当だと思っていたときは、田中先生のことを気持ち悪いと感じちゃったけど……今は、事実も知らないのに勝手に決めつけた自分を恥ずかしいと思ってる……よ」
この答えで合っているのだろうか。タツがなにを考えているのかわからない。私の言動ひとつひとつを試されているかのようで、すごく居心地が悪い。
「タツ、どうしたの……?」
私の問いかけに、彼はゆっくり首を振った。そして、彼の視線がケースの方へ向いたとき、私は思わず口元を手で押さえてしまった。
「なんで……そのケースに蛇が入ってるの」
蛙が飼育されていたケースに蛇が入れられている。彼が大切に育てていた蛙の姿はどこにもない。もともと蛇が入っていたケースは床材などが残されたままで、ケースの位置を変えたのではなく、蛇を蛙のところへ移したのだと想像できる。
誰が、なんのために?
「タツがやったの……?」
彼がやったとは思っていない。生き物を大切にしている彼が、そんなことをするはずがない。「ちがう」という一言が欲しくて、震える声で彼に尋ねる。
しかし、彼の答えは私が期待しているものではなかった。
「姿穂はいつも『好きなら告白する権利がある』と言っていたな。それなのに、どうして田中と橋下の話は気持ち悪いと感じた?」
「え……今、その話関係ある……?」
「本当は、俺のことも気持ち悪いと思ってたんじゃないか」
「な、なに言ってるの。思ってないよ、そんなこと」
平然を装おうとしているけれど、タツの声は震えている。いつもならやらない作り笑いを無理にしようとして、いろいろな感情が混じった表情になっている。
「しばらく、ひとりにしてくれ」そう言う彼は、今にも泣きそうだった。
タツの言葉をかき消すかのように、8時半を知らせるチャイムが鳴る。私はなにも言えないまま、走って生物室を出た。
どうしてこうなった? 教室へ向かいながら何度も考えるけれど、答えは出てこない。「ひとりにしてくれ」と呟くタツの声が、頭にへばりつく。なにが彼を傷つけた? 彼をなにを恐れているの?
当分、タツとは会えないだろう。しかしそれよりも、あれだけ生き物を大切にしていた彼が蛙を殺したのではないか、という疑念を拭えないことがとても悲しかった。
0
あなたにおすすめの小説
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
記憶を無くした、悪役令嬢マリーの奇跡の愛
三色団子
恋愛
豪奢な天蓋付きベッドの中だった。薬品の匂いと、微かに薔薇の香りが混ざり合う、慣れない空間。
「……ここは?」
か細く漏れた声は、まるで他人のもののようだった。喉が渇いてたまらない。
顔を上げようとすると、ずきりとした痛みが後頭部を襲い、思わず呻く。その拍子に、自分の指先に視線が落ちた。驚くほどきめ細やかで、手入れの行き届いた指。まるで象牙細工のように完璧だが、酷く見覚えがない。
私は一体、誰なのだろう?
お母様!その方はわたくしの婚約者です
バオバブの実
恋愛
マーガレット・フリーマン侯爵夫人は齢42歳にして初めて恋をした。それはなんと一人娘ダリアの婚約者ロベルト・グリーンウッド侯爵令息
その事で平和だったフリーマン侯爵家はたいへんな騒ぎとなるが…
冷徹公爵の誤解された花嫁
柴田はつみ
恋愛
片思いしていた冷徹公爵から求婚された令嬢。幸せの絶頂にあった彼女を打ち砕いたのは、舞踏会で耳にした「地味女…」という言葉だった。望まれぬ花嫁としての結婚に、彼女は一年だけ妻を務めた後、離縁する決意を固める。
冷たくも美しい公爵。誤解とすれ違いを繰り返す日々の中、令嬢は揺れる心を抑え込もうとするが――。
一年後、彼女が選ぶのは別れか、それとも永遠の契約か。
これって政略結婚じゃないんですか? ー彼が指輪をしている理由ー
小田恒子
恋愛
この度、幼馴染とお見合いを経て政略結婚する事になりました。
でも、その彼の左手薬指には、指輪が輝いてます。
もしかして、これは本当に形だけの結婚でしょうか……?
表紙はぱくたそ様のフリー素材、フォントは簡単表紙メーカー様のものを使用しております。
全年齢作品です。
ベリーズカフェ公開日 2022/09/21
アルファポリス公開日 2025/06/19
作品の無断転載はご遠慮ください。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる