獣の血

森のチンアナゴ

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翁の眼力

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はぁ……、はぁ……

俺は走った。あの家から、逃げた。

……

家の塀にもたれ、息を整える。呼吸が乱れとるから、思考も乱れるんや。――落ち着け、落ち着くんや。

……

目を閉じ、手の甲を額に当て、空を見上げる。

ドクン……トクン……。

心臓が先に“自分”を取り戻した。
ゆっくり、ゆっくり、俺も後に続いた。

「ふぅーっ……」

固まった不安を払うように、大きく息を付いた。

何とか身体を整え、歩き出す。

「……」

違和感を覚え、俺は両手を見た。
指先が震えとった。

日が傾き、影が伸びとる。森の風に撫でられ、長い影が俺の影を優しくなぞっていた。

「おっと」

子どもたちが駆け抜けていく。

「……まぁ、いいか」

俺はゆっくり歩きだした。村の奥へ、どんどんと。

その先に村長の家があるともせん。ただ、あの場所から離れたかったんや。

――

気付けば川岸付近を歩いとった。すると生ぬるい風が生臭いにおいを連れて来よった。

「ッ!」

視界の端に、何かが動いた気がした。水面が跳ねた。“何か”と目が合った。

バッ、と欄干に手を付けた。眼下には、夕日に紅く染まった川。いくつもの魚影が、流れては消えていく。

「……」

ゴシゴシと目をこすった。ちゃう。当たり前や。あれは、ただの魚や。胸の奥がざわついとる。あの台所の光景が脳裏に焼きついとるんや。

おらん。おる訳ない――。


---
「よぅ来ましたなぁ」

好々爺、それが俺の村長の印象やった。

杖で立ち上がったものの、足取りはシッカリしたものやった。

わざわざこちらまで歩み寄り、握手までしてくれはった。

――まともそうやな

俺は内心で、そう呟いた。

「何でも森を抜けて来られたんじゃろ」
「ええ、まあ」
「大したもんじゃ、村のモンは怖くて入れもせんのに」
「はは……」
俺かてイヤじゃ。誰が好き好んで森に入んねん。

それから他愛のない話をした。村人の話、村での生活、村での日々。

話好きな爺さんやな。話相手に飢えとるんか……?

その時、ドアがノックされた。

「失礼します」

若い使用人やった。お盆にお茶を二つ持っとる。慣れた手つきで俺の前にお茶が置かれる。そして村長の前にも――

「カチャ」

小さな音が響いた。湯呑みからお茶がこぼれない程度の、小さな接触音。その瞬間、ピタリと使用人の動きが固まった。俯き、身動ぎ一つしない。

……何や。どうしたんや。

俺はおそるおそる村長を見た。笑顔が張り付いとる。ヒビが入った顔や。使用人の肩は、小刻みに揺れとった。

……

「下がってよい」

深々と頭を下げて、使用人は部屋を出ていった。

---


「……お仕置きじゃのぅ」
「…………え?」

俺は思わず聞き返してもうた。それくらい村長の声色は違ってたんや。

「美味いお茶でしょう。あれは村でいちばん茶を淹れるんが上手いんじゃ」
「は、はぁ……」

俺は笑顔の圧力に押され、茶を呑んだ。
せやけど、ただ熱いとしか感じひんかった。

「なんも無い村じゃが、み~んな暖かい。どうぞゆっくりして行きなされ」
「……ありがとうございます」

しばらく村長と向かい合って茶を飲む。
外から子どもたちの笑い声が届いていた。

……間が持てへん。
俺はなんとなく居心地が悪うて、辺りを見回した。

その瞬間――
見えへんピアノ線が、ピンと張り詰めたように感じた。

空気が一枚、音も立てずに裂けた気がした。
視線の先、壁に“それ”は掛けられとった。

――ッ!

心臓が止まるか思うた。
何でおんねん。
何でそんなとこに「掛け」られとんねん――

「のぅ」

ハッとした。村長はジッと俺を見とった。
腹の底を探るような、そんな瞳やった。

「“見”たんか?」

ゴクリと生唾を呑んだ。
とてつもない選択を強いられとるような気がする。

「ウソはつけん、ここでついたら俺は――。」

開いた窓から、一枚の葉が落ちた。
視界の隅にも映らなかった。
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