ぼくらの森

ivi

文字の大きさ
99 / 122
第三章 旅立ち

第99話 忘却

しおりを挟む
 水の入った小瓶を両手に包んで、セロは厩舎をゆっくりと歩いていた。

 ガラスの小瓶には黄色い花が挿され、歩みに合わせてゆらゆらと揺れている。今朝の野外訓練の帰りに、タークと降り立った花畑で摘んだ花だ。

 セロが向う先は、クウェイの愛馬がいた馬房だ。記憶が正しければ、この通路の右側にあったはずだ。

 寝わらやオガ粉が散らばる通路を進む。

 途中、空っぽになった馬房を何厩も通り過ぎた。

 二度と帰ることのない馬を待つ馬房は、すべてのオガ粉が掃き出されて、房の中央には空になった飼い桶と水の入った水桶が置かれている。花が供えられている所もあれば、リンゴが置かれている所もあった。

 騎士たちは馬に深い愛情を注いでいた。同じ班の馬であろうと、なかろうと。彼らの言葉を借りるとすれば、馬は大切な仲間なのだ。

 セロはふいに足を止めて、目の前の馬房を黙って見つめた。騎士たちによってきれいに掃除されたそこは、クウェイの愛馬が暮らしていた馬房だ。

 少し前までは、背の高い鹿毛の馬がいたはずなのに。今では飼い桶と水桶が二つ並んでいるだけ……いや違う。どうやら先に、ここを訪れた者がいるようだ。

 飼い桶の中に、リンゴが一つ供えられていた。

 セロは冷たい床に膝をついて、二つの桶の中央に花瓶を置いた。馬房の窓から夕日が差し込んで、小瓶の透き通った影を膝下に落としている。

 物音一つしない空間で、手を合わせる。

 「安らかに……」

 セロはまぶたを開けて、使い込まれた桶をぼんやりと眺めた。

 思えば、セロがたった一週間でヴェルーカに乗れるようになったのは、クウェイの馬のおかげかも知れない。彼が人生で初めて乗った馬であり、乗馬の基礎を築いてくれた馬でもあった。

 セロは鹿毛の馬を心に思い描いた。記憶はぼんやりと霞んでしまっているが、あの老いた優しい瞳だけは、今でもしっかりと覚えている。

 誠実で健気な馬の姿を、光が差し込む馬房に重ねたとき。足元に置かれた木の板に、呼ばれた気がした。

 ――フォレスト

 木の名札に黒く刻まれた名前が、セロを見上げている。今の今まで忘れていた懐かしい名前を、誰かが心の中で呼んだ。

 ああ……そうだ。クウェイは馬を褒めるときも、たしなめるときも。気持ちが伝わりやすいように、声に感情をのせて名前を呼んだ。

 しかし、クウェイが怒りに任せて馬を怒鳴ることは一度もなかった。

 クウェイが愛馬の名前を呼ぶときは、いつも愛おしそうにフォレストを見つめていた。

 「フォレスト……」

 返事が返ってくることはないが、セロはどこかで鹿毛の馬がふり返ってくれた気がして、優しく微笑んだ。

 そろそろ、行かないと……。
 親友を待たせてはいけない。

 セロはフォレストの馬房に背を向けた。

 厩舎の通路に出てしまえば、たちまち普段の風景に戻ってしまう。

 外から聞こえてくる騎士たちの声。
 馬が鼻を鳴らす音。
 踵につけた拍車が、地面とぶつかる金属音。

 時計の秒針は時を刻み続け、留まることはない。

 いつか……フォレストの馬房には知らない馬がやって来て、きっと何事もなかったように暮らし始める。

 かつて、そこにいた馬がどんな子で、どんな騎士を乗せていたのか。そんな、誰かにとって大切な記憶は時とともに風化して、やがて跡形もなく忘れ去られてしまうのだろう。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【完結】物置小屋の魔法使いの娘~父の再婚相手と義妹に家を追い出され、婚約者には捨てられた。でも、私は……

buchi
恋愛
大公爵家の父が再婚して新しくやって来たのは、義母と義妹。当たり前のようにダーナの部屋を取り上げ、義妹のマチルダのものに。そして社交界への出入りを禁止し、館の隣の物置小屋に移動するよう命じた。ダーナは亡くなった母の血を受け継いで魔法が使えた。これまでは使う必要がなかった。だけど、汚い小屋に閉じ込められた時は、使用人がいるので自粛していた魔法力を存分に使った。魔法力のことは、母と母と同じ国から嫁いできた王妃様だけが知る秘密だった。 みすぼらしい物置小屋はパラダイスに。だけど、ある晩、王太子殿下のフィルがダーナを心配になってやって来て……

ボクが追放されたら飢餓に陥るけど良いですか?

音爽(ネソウ)
ファンタジー
美味しい果実より食えない石ころが欲しいなんて、人間て変わってますね。 役に立たないから出ていけ? わかりました、緑の加護はゴッソリ持っていきます! さようなら! 5月4日、ファンタジー1位!HOTランキング1位獲得!!ありがとうございました!

ペーパードライバーが車ごと異世界転移する話

ぐだな
ファンタジー
車を買ったその日に事故にあった島屋健斗(シマヤ)は、どういう訳か車ごと異世界へ転移してしまう。 異世界には剣と魔法があるけれど、信号機もガソリンも無い!危険な魔境のど真ん中に放り出された島屋は、とりあえずカーナビに頼るしかないのだった。 「目的地を設定しました。ルート案内に従って走行してください」 異世界仕様となった車(中古車)とペーパードライバーの運命はいかに…

追放された味噌カス第7王子の異種族たちと,のんびり辺境地開発

ハーフのクロエ
ファンタジー
 アテナ王国の末っ子の第7王子に産まれたルーファスは魔力が0で無能者と言われ、大陸の妖精族や亜人やモンスターの多い大陸から離れた無人島に追放される。だが前世は万能スキル持ちで魔王を倒し英雄と呼ばれていたのを隠し生まれ変わってスローライフを送る為に無能者を装っていたのだ。そんなルーファスはスローライフを送るつもりが、無人島には人間族以外の種族の独自に進化した先住民がおり、周りの人たちが勝手に動いて気が付けば豊かで平和な強国を起こしていく物語です。

断罪まであと10分、私は処刑台の上で「ライブ配信」を開始した〜前世インフルエンサーの悪役令嬢、支持率100%でクズ王子を逆処刑する〜

深渡 ケイ
ファンタジー
断罪まで、あと10分。 処刑台の上で跪く悪役令嬢スカーレットは、笑っていた。 なぜなら彼女は―― 前世で“トップインフルエンサー”だったから。 処刑の瞬間、彼女が起動したのは禁忌の精霊石。 空に展開された巨大モニターが、全世界同時ライブ配信を開始する。 タイトルは―― 『断罪なう』。 王子の不貞、聖女の偽善、王家の腐敗。 すべてを“証拠付き・リアルタイム”で暴露する配信に、 国民の「いいね(=精霊力)」が集まり始める。 そして宣言される、前代未聞のルール。 支持率が上がるほど、処刑は不可能になる。 処刑台は舞台へ。 断罪はエンタメへ。 悪役令嬢は、世界をひっくり返す配信者となった。 これは、 処刑されるはずだった悪役令嬢が、 “ライブ配信”で王子と王国を公開処刑する物語。 支持率100%の先に待つのは、復讐か、革命か、 それとも――自由か。

底辺から始まった俺の異世界冒険物語!

ちかっぱ雪比呂
ファンタジー
 40歳の真島光流(ましまみつる)は、ある日突然、他数人とともに異世界に召喚された。  しかし、彼自身は勇者召喚に巻き込まれた一般人にすぎず、ステータスも低かったため、利用価値がないと判断され、追放されてしまう。  おまけに、道を歩いているとチンピラに身ぐるみを剥がされる始末。いきなり異世界で路頭に迷う彼だったが、路上生活をしているらしき男、シオンと出会ったことで、少しだけ道が開けた。  漁れる残飯、眠れる舗道、そして裏ギルドで受けられる雑用仕事など――生きていく方法を、教えてくれたのだ。  この世界では『ミーツ』と名乗ることにし、安い賃金ながらも洗濯などの雑用をこなしていくうちに、金が貯まり余裕も生まれてきた。その頃、ミーツは気付く。自分の使っている魔法が、非常識なほどチートなことに――

異世界召喚に条件を付けたのに、女神様に呼ばれた

りゅう
ファンタジー
 異世界召喚。サラリーマンだって、そんな空想をする。  いや、さすがに大人なので空想する内容も大人だ。少年の心が残っていても、現実社会でもまれた人間はまた別の空想をするのだ。  その日の神岡龍二も、日々の生活から離れ異世界を想像して遊んでいるだけのハズだった。そこには何の問題もないハズだった。だが、そんなお気楽な日々は、この日が最後となってしまった。

処理中です...