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最終章【未来17歳/沙織29歳】
第111話 お見合い~後編~【未来17歳/沙織29歳】
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お見合いの席はまだ続いている。
お父さんも、お母さんも、直樹さんのご両親と何か話をしているのがみえる。
仲人さんも私たちを見つめている。
私はいろいろ言葉を探しながら、直樹さんと会話をしていた。
「あの…ご趣味は?」
「ゴルフと読書です。楽しいですよ」
直樹さんはそう言うと、ほほ笑んだ。
余裕のある、大人の笑顔だった。
(…この人は、人生に余裕があるんだろうな)
私なんて、いつも一杯いっぱいなのに。30手前まで生きてきたけど、いつだって私は何かに追われていた気がする。霧の中を手探りで、一歩一歩前に向かって歩いていて、自分がどこにいるのかも分からない。
「沙織さんの好きなものは何かありますか?」
「私…は…」
趣味、と呼べるものは特に持っていない。小さいころから習い事は少々やっていたけど、それは別に趣味なんかではなかった。
ただ、漫然と生きてきた。
誇れるような何かを残してはいないけど…でも、口には出せないけど、好きなもの、だけは胸の中にはっきりとある。
(未来)
趣味もなければ特技もないけど、それら全てがどうでもよくなるくらい、私の心の中は未来への愛情で占められていて、他に何かが入る余地は残されていなかった。
「盛り上がっているみたいですね」
仲人さんが語り掛けてきた。
その言葉を聞いて、お父さんも、お母さんも、直樹さんのご両親も、全員が一斉に私たちを見て、そして、言った。
「ここから先は、若い人だけにまかせて…」
あ、こういう言葉、本当に言われるんだ。
まるでお見合いみたい…いや、私、今まさにお見合いの真っ最中なんだけど。
「そうですね。沙織さん、少し2人で歩きませんか?」
直樹さんはそう言うと、立ち上がって私に手を伸ばしてきた。
それは自然な行いで、流れるような仕草で、まるで不快感を感じさせなくて。
(…)
私はその手を取るために手を伸ばそうとしたその時、右手に指輪の重さを感じた。
私の右手の人差し指にはめられた、二本の指輪。そこに込められた恋人の想い。
「はい、行きましょう」
私はそう言うと、手は伸ばさず、1人で立ち上がった。
直樹さんは一瞬だけ、少し寂しそうに自分の差し出した手を見たあと、何事もなかったように手を戻して、ほほ笑んでくれた。
直樹さんは大人な反応で、私は子供じみた反応だった。
直樹さんの後ろをしずしずとついて歩きながら、私は。
未来から指輪を渡された時のことを思い出していた。
■■■■■
「私…今度…お見合い、するの」
波の音。風の音。心臓の音。
いろんな音が全部混ざり合って私の耳に入ってきて、頭の奥がきーんと痛くなる。
沈黙が怖い。
未来を見るのが怖い。
裏切りがばれてしまうのが怖い。
目を閉じて、目を開く。
未来はまっすぐに私を見つめていた。
唇が震えている。もうすぐ夜になるから、寒いのかな、と思った。
そんなわけがない。
私のせいだ。
私が未来を…悲しませたからだ。
「どうして…ですか」
長い沈黙の後、未来が口を開いた。
なじってくれればいいのに、責めてくれればいいのに、未来の口調の中には私をとがめる空気は一切入ってはなく、ただ純粋に、疑問を口にしていた。
「私が…いるのに」
恋人だから。
私と未来はまごうことなく恋人で、心が繋がっていて、離れがたく巻き付いていて、そして…他人に明かすことは出来ない2人だけの秘密の関係。
「私の…両親が…ね」
昨日のことを、ぽつりぽつりと、口にする。
飾らず、本当のことを、偽りなく、正直に。
嘘はついていないのに、本当のことを言っているだけなのに、でもなぜか、私は自分が嘘をついているような気がしてならなかった。
お父さんの想い、お母さんの想い、家族の想い。
全部本当なのに、その中に私の想いがまぎれていないような気がした。
でも、私がお見合いを受け入れたのは本当のことで、それは誰のせいでもなく私自身の責任で。
恋人がいるのに…それを裏切ってお見合いをするのは…その方が楽だからと、自分の本心に妥協した私の心の産物だった。
「だから…私、お見合いを受けるわ」
心はいれず、事実だけを話す。
心を入れたら、私が壊れてしまう。
それを聞いた未来は怒るでもなく、泣くのでもなく、取り乱すでもなく、冷静でいるわけでもなく、私を責めるのでもなく、ただ…
「よかった…」
なぜか、胸を撫でおろしていた。
(どうして)
そんな表情をするの?私、未来の気持ちを裏切ってしまったのに。恋人がいるのにお見合いをきっぱり断ることなく、黙って受け入れて、それを伝えるのが怖くてうじうじ悩んでいた情けないひどい私を、どうして責めないの?
「沙織さんに…嫌われたんじゃないかって…思って怖かった」
「嫌いになるわけないじゃない!」
そんなこと、頭をよぎりもしなかった。
12歳も年下のこの子は、私の全てだ。私が世界で一番怖いのは、この子に捨てられることで…嫌われることで…必要ないって思われることで。
だから、お見合いなんてして、この子に私を拒絶されることが…それを想像することが…たまらなく怖かったのだから。
「沙織さん、私のこと、好きでいてくれますか?」
「好き」
即答する。考える間でもない。今の私から未来をとったら、もう背骨しか残らない。
未来は私を見ながら、自分の指に手をあてた。
未来の右手。人差し指。
指輪。私とお揃いの、指輪。
未来は指輪に触れると、そっと、その指輪を外す。
(あ…)
私、捨てられるんだ。
恋人から見放されるんだ…仕方ないよね…先に裏切ったのは私なんだから…
でも…
(嫌)
(嫌)
こひゅって、喉の奥がなる。空気が肺から漏れていく。未来に捨てられるのだけは嫌。耐えられない。足元が崩れる。世界に穴が開いて、私はどこまでも深淵に落ちていく気がする。
未来はゆっくりと私に向かって歩いてきて、その手には指輪が握られたままで。
指輪を…返された。
(捨てられた)
もう、私の気持ちなんていらないって…捨てないで…お願い、未来。私を捨てないで。嫌、嫌なの。駄目。
「沙織さん…」
未来は私の目をまっすぐに見つめていて、その視線は私よりも少しだけ上で、未来はもう私よりも大きくなっていて。
未来が私の手を取る。
私の右手。
指輪をしている手。
「あ…」
優しく、指輪がはめられる。
こつん、と、私の指輪と未来の指輪が触れあう音がした。
私の右手の人差し指に、2本の指輪がつけられている。
暖かい。
そのまま私の手を握り締める未来の手が、暖かい。
「私は、沙織さんと、一緒にいますから」
指輪は返されたのではなく、未来の心と共に、託されたのだった。
私は捨てられてなんかいなくて…それどころか、大事にされていて。
泣きそうになる。
私ばっかりいろいろ悩んで悔やんで吐きそうになっていて、頭ぐるぐるになって駄目になっていたのに、未来は…12歳年下の女の子は…私の恋人は。
ずっと、ずっと、ずーっと、私のことだけを想ってくれている。
想えば未来が8歳の時から、出会った時から、それは一切変わっていない。ううん、違う、やっぱり変わってはいる。昔よりも、今の方が、ずっとずっと、深く想ってくれているのが…分かる。伝わる。
(私なんて)
そこまでの価値がある女なんだろうか…と思って、頭をふる。
ある。
この子にこんなに想ってもらえて、それだけで、私は価値がある女なんだ。
世界の何を疑ったとしても、この子の気持ちだけは…疑えない。
「お見合い…いって…くるね」
「うん」
未来は私の手を握り、指輪を握り、私の心まで握っていた。
「待ってる」
「…待ってて」
私には、帰るべき場所がある。
私の未来は、たしかにここに、ある。
■■■■■
「綺麗な庭ですね」
前を歩く直樹さんの背中は大きい。
背が高いし、細身のように見えて、実はがっしりとしているのが分かる。
(でも)
私にとって、未来の存在の方が…何倍も大きい。
私はゆっくりと後ろを歩きながら、指輪に手を触れた。
離れているのに、暖かさを感じる。
料亭の庭は歩けるようになっていて、小さな水路や、小さな橋がかかっている。
その橋の上に直樹さんは立っていて、少し遅れて私もその橋の上にたった。
「陽子さん、学生時代の私の先輩だったんです」
姉さんの名前が、直樹さんの口から出てくる。
「素敵だった…憧れだった…まだ学生時代の私は告白する勇気はなかったけど、もしも今の私なら」
「姉さんに、告白されてましたか?」
「しますけど…でもたぶん、結局振られちゃうでしょうね」
そう言いながら、直樹さんは笑った。
横顔は少し寂しそうだったけど、でもその中に郷愁を感じることができた。
「こう見えて私、けっこうモテるんですよ?」
「それは…分かります」
この若さで大学教授であり、背も高く、顔立ちもよく、家柄だって文句がなく、けどそれを鼻にかけるわけでもない誠実さと清潔さと高潔さが、直樹さんにはあった。
この人と付き合いたい、って思う女性が他にいないわけがない。
むしろ、直樹さんが選ぼうとすれば、誰だって自由に選べるはずだ。
「沙織さん」
「はいっ」
「陽子さんに似ているからじゃなくって、純粋に、あなたは素敵な女性だと思います」
「…有難うございます」
お礼を言う。
お世辞ではないと分かる…直樹さんの口調に嘘や偽りを感じることはない。
風が吹いた。
空はまだ曇天模様のままで、風はやはり冷たかった。
「私はモテますが…でも、私がモテたいって思った人からだけは、モテないんですよね」
直樹さんはそう言うと、私の方を振り向いた。
優しく笑う。でもその笑顔は少し寂しそうだった。
「陽子さんが結婚された時、寂しかったけど…でも嬉しかったんです。陽子さんの旦那さんも…私の先輩でしたし、私、2人とも大好きでしたから」
「そうなんですか…」
姉さんの旦那さん。浩平さん。
男性の魅力だけでいえば、たぶん浩平さんよりも直樹さんの方が優れているような気がするんだけど…でも、姉さんなら、何回生まれ変わったとしても、結局浩平さんを選ぶだろうな、と思った。
(…私も、選ばれなかったし)
私は姉さんを愛していた。
でも、姉さんが愛した人は別の人だった。
ただ、それだけのことだ。当たり前にある、当たり前の失恋。私の場合は対象が実の姉で女同士だったという事だけが普通とは違うかもしれないけど…でも、失恋したことには変わりがない。
「沙織さん」
「はい」
「もしも貴女に…他に好きな人がいないなら、私と結婚を前提にお付き合いしてもらえませんか?」
目が、笑っていなかった。
真剣だった。
それが分かるからこそ…先ほどの言葉が引っかかる。
(モテたいって思った人からだけは、モテない)
(他に好きな人がいないなら)
あ。
この人は。
私は自分でも気づかないうちに、ずっと、自分の右手にはめていた指輪を触っていた。
たぶん、分かっている。
分かっているのに、正直に、口にしてくれた。
それは誠実さだ。
卑怯で弱い私だけど、でも、誠実さには…こたえたい。
「ごめんなさい…お見合いに来ていて、こんなことを言うのは失礼だとは分かっているのですが…私…」
指輪を、触る。
勇気をもらう。
「好きな人が、いるんです」
「…でしょうね」
直樹さんは、笑った。
その笑顔は、何かふっきれたかのような笑いだった。
「これで私、人生2回目の失恋です」
「…ごめんなさい」
「謝らないでください。1回目は告白することすら出来なかったんですから…告白して玉砕できたぶん、今回の方がましですから」
「…ごめんなさい…」
私には、謝ることしかできなかった。
中途半端に流されるから、だから結局私は周りを傷つけてしまう。
お父さんの気持ちも、お母さんの気持ちも、直樹さんの気持ちも、分かっていながら、でもその期待に応えることができなかった。
「最後にひとつ、お聞きしてもいいですか?」
「私に答えられることなら…」
「沙織さんの好きな方って、どんな方なんでしょう?」
たぶん、直樹さんと付き合って、結婚したら、私は幸せになれると思う。
子供も産んで、お父さんとお母さんに孫を見せることもできて、私だけじゃなく、周りのみんなも幸せになれると思う。
それは素敵で、輝かしい未来だ。
私だって、幸せになりたい。
でも、私が一番欲しくて、望んでしまうのは…
「この人と一緒になれるなら、幸せになれなくてもいい、不幸になってもいい、そんな風に思えるくらい…愛おしくて仕方がなくて、そして…」
私は、笑う。
「…私にはもったいないくらい…私のことを…愛してくれる人なんです」
■■■■■
普通、お見合いというものは、断るにしてもお見合い当日に断るのではなく、後日改めて正式に伝えるもの、らしい。
それは当たり前で、仲人を引き受けてくれた人の面子もあるし、わざわざ集まってくださった相手側の両親に対しても失礼だからだ。
でも、今回のお見合いは、私はこの場で、断ってしまった。
私の幸せを願って準備してくれた様々なものを、私は自らの手でたたき割ってしまった。
それなのに、場を取り繕ってくれたのは、直樹さんだった。
私をたてて、仲人さんや両親に丁寧に挨拶をして、気丈にふるまいつつ、その物腰はあくまでスマートだった。
(この人は本当に…)
素敵な人、なのだろう。
この人と結婚できる人は、幸せな未来を確約できるだろう。
私は手を伸ばせばその未来を手に取ることができたにも関わらず、自分から振りほどいてしまった。しかも、ひどいやり方で。
しかも、一番ひどいのは。
直樹さんに感謝しつつも、私の頭の中は、未来のことで一杯だったということだ。
なんて最低な女なのだろう。
全てを壊しておきながら、自分の求めるものだけを欲しているのだから。
あわただしく、お見合いは終わり、帰路につく。
直樹さんは最後まで紳士的にふるまってくれた。
本当に…素敵な人だ。
いくら感謝をしてもし足りないのだけど、けれど、私の心の中はもう別のことでいっぱいになっていた。
私を、待ってくれる、人がいるのだから。
帰り道、私は途中で1人、車をおろしてもらった。
実家には、お父さんとお母さんだけで帰ってもらう。
お見合いを破断にしておきながら…なんて私は我儘なのだろう。
でも、もう、我慢することなんて出来なかった。
私は…自分で…自分の意志で、自分の未来を選んでしまったのだから。
■■■■■
待ち合わせ場所は、私のお気にいりの公園にした。
着物姿で行くには絶対に似つかわしくない場所なのに、そんなことはどうでもよかった。
坂道を昇る。
汗が出る。
着物姿でこんな坂道を歩いていくなんて、馬鹿でしかない。
足が痛い。
草履で歩くような場所じゃない。
先ほどまで曇天模様だった空が、今は光が差し込んでいて、暑くなってきていた。
暑い…暑い。
私は息を吐きながら、それでも前を向いた。
坂道の先。
私が行くべき場所。
光が増える。
空が明るくなる。
私が一歩踏み出すたびに、空の雲も晴れていく。
「はぁ…はぁ…」
早く、早く会いたい。
私の未来に会いたい。
もう少し。
あと少し。
見える。
頂上。
「沙織さんっ」
私の未来の声がした。
すごく心配そうな顔で私を見下ろしている。
坂の上にいるから、それでなくても私より背が高いのに、もう、見上げるしかない。
太陽が、光が、眩しくて。
未来の顔がよく見えない。見せて。見たい。
私の恋人に、早く会いたい。
「…未来」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないけど…今、大丈夫になったわ」
手を伸ばす。
右手を伸ばす。
指輪が二本ついている、私の右手。
掴まれて、引っ張りあげられて、坂道の上の公園についた。
思い出の場所。
未来と初めて…キスをした場所。
眼下に街が見える。
綺麗…光に照らされて、輝いているようにみえる。
「沙織さん…お見合いは…」
「あはっ、断ってきちゃった」
私は笑う。
笑いながら、先ほどまでまだ残っていたお父さんやお母さんや直樹さんの顔が、綺麗に光に上書きされて、消えて、もう未来への想いだけしか残らない。
私は未来から預かっていた指輪を抜き取ると、未来の右手をとる。
綺麗な指…若い指。
12歳年下の、私の恋人の指。
その指に指輪をはめたあと、私は我慢できなくなって着物姿のまま、未来にキスをした。
「ん…」
足りない…もっと、もっと未来が欲しい。
そのまま未来の中に入り、未来を全部堪能する。
未来は抵抗することもなく、むしろ逆に、積極的に私を求めてくれる。
未来も私の中に入り、また私も未来の中に入り、2人で混ざり合いながら、一緒にどろどろに溶けていく。
長い長いキスをした後、唇を離す。
私と未来の唇の間にキスのつながりの残滓が糸を引いて、切れて、そして、
「あはははははっ」
笑いが漏れる。
幸せとか、不幸とか、もうそんなことは全部頭から抜け去っていて、ただ、未来がこの手の中にいてくれることだけが、その実感が残っていて、私は白く満たされていた。
「未来」
「はい…沙織さん」
「私と…」
何を言おう。
お見合いが破談になったこの日に、恋人に告げるべき言葉は…なんなのだろう。
一つ、言葉が浮かんだ。
私はたぶん、ひどい女だ。悪い女だ。でももう、駄目。止まらない。
あふれるこの気持ちを抑えることなんて、私にはもうできない。
私は少し乱れた着物姿のままで、目の前にいるさっきキスしたばかりの12歳年下の可愛い可愛い大切な同性の恋人に向かって、迷いなく想いを告げた。
「…私と結婚を前提にお付き合いしてもらえませんか?」
「最初からずっと、ずーっと、同じ気持ちですっ!」
未来は即答すると、私に抱き着いてきた。
あまりにも勢いがすごかったものだから、私たち2人はそのまま倒れこみ、せっかくの着物が汚れてしまったにもかかわらず、私は嬉しくて抱きしめてそのまま空を見上げていた。
澄み渡った、晴れた空。
輝く太陽の下で。
私は、私の未来を、私自ら選択したのだった。
お父さんも、お母さんも、直樹さんのご両親と何か話をしているのがみえる。
仲人さんも私たちを見つめている。
私はいろいろ言葉を探しながら、直樹さんと会話をしていた。
「あの…ご趣味は?」
「ゴルフと読書です。楽しいですよ」
直樹さんはそう言うと、ほほ笑んだ。
余裕のある、大人の笑顔だった。
(…この人は、人生に余裕があるんだろうな)
私なんて、いつも一杯いっぱいなのに。30手前まで生きてきたけど、いつだって私は何かに追われていた気がする。霧の中を手探りで、一歩一歩前に向かって歩いていて、自分がどこにいるのかも分からない。
「沙織さんの好きなものは何かありますか?」
「私…は…」
趣味、と呼べるものは特に持っていない。小さいころから習い事は少々やっていたけど、それは別に趣味なんかではなかった。
ただ、漫然と生きてきた。
誇れるような何かを残してはいないけど…でも、口には出せないけど、好きなもの、だけは胸の中にはっきりとある。
(未来)
趣味もなければ特技もないけど、それら全てがどうでもよくなるくらい、私の心の中は未来への愛情で占められていて、他に何かが入る余地は残されていなかった。
「盛り上がっているみたいですね」
仲人さんが語り掛けてきた。
その言葉を聞いて、お父さんも、お母さんも、直樹さんのご両親も、全員が一斉に私たちを見て、そして、言った。
「ここから先は、若い人だけにまかせて…」
あ、こういう言葉、本当に言われるんだ。
まるでお見合いみたい…いや、私、今まさにお見合いの真っ最中なんだけど。
「そうですね。沙織さん、少し2人で歩きませんか?」
直樹さんはそう言うと、立ち上がって私に手を伸ばしてきた。
それは自然な行いで、流れるような仕草で、まるで不快感を感じさせなくて。
(…)
私はその手を取るために手を伸ばそうとしたその時、右手に指輪の重さを感じた。
私の右手の人差し指にはめられた、二本の指輪。そこに込められた恋人の想い。
「はい、行きましょう」
私はそう言うと、手は伸ばさず、1人で立ち上がった。
直樹さんは一瞬だけ、少し寂しそうに自分の差し出した手を見たあと、何事もなかったように手を戻して、ほほ笑んでくれた。
直樹さんは大人な反応で、私は子供じみた反応だった。
直樹さんの後ろをしずしずとついて歩きながら、私は。
未来から指輪を渡された時のことを思い出していた。
■■■■■
「私…今度…お見合い、するの」
波の音。風の音。心臓の音。
いろんな音が全部混ざり合って私の耳に入ってきて、頭の奥がきーんと痛くなる。
沈黙が怖い。
未来を見るのが怖い。
裏切りがばれてしまうのが怖い。
目を閉じて、目を開く。
未来はまっすぐに私を見つめていた。
唇が震えている。もうすぐ夜になるから、寒いのかな、と思った。
そんなわけがない。
私のせいだ。
私が未来を…悲しませたからだ。
「どうして…ですか」
長い沈黙の後、未来が口を開いた。
なじってくれればいいのに、責めてくれればいいのに、未来の口調の中には私をとがめる空気は一切入ってはなく、ただ純粋に、疑問を口にしていた。
「私が…いるのに」
恋人だから。
私と未来はまごうことなく恋人で、心が繋がっていて、離れがたく巻き付いていて、そして…他人に明かすことは出来ない2人だけの秘密の関係。
「私の…両親が…ね」
昨日のことを、ぽつりぽつりと、口にする。
飾らず、本当のことを、偽りなく、正直に。
嘘はついていないのに、本当のことを言っているだけなのに、でもなぜか、私は自分が嘘をついているような気がしてならなかった。
お父さんの想い、お母さんの想い、家族の想い。
全部本当なのに、その中に私の想いがまぎれていないような気がした。
でも、私がお見合いを受け入れたのは本当のことで、それは誰のせいでもなく私自身の責任で。
恋人がいるのに…それを裏切ってお見合いをするのは…その方が楽だからと、自分の本心に妥協した私の心の産物だった。
「だから…私、お見合いを受けるわ」
心はいれず、事実だけを話す。
心を入れたら、私が壊れてしまう。
それを聞いた未来は怒るでもなく、泣くのでもなく、取り乱すでもなく、冷静でいるわけでもなく、私を責めるのでもなく、ただ…
「よかった…」
なぜか、胸を撫でおろしていた。
(どうして)
そんな表情をするの?私、未来の気持ちを裏切ってしまったのに。恋人がいるのにお見合いをきっぱり断ることなく、黙って受け入れて、それを伝えるのが怖くてうじうじ悩んでいた情けないひどい私を、どうして責めないの?
「沙織さんに…嫌われたんじゃないかって…思って怖かった」
「嫌いになるわけないじゃない!」
そんなこと、頭をよぎりもしなかった。
12歳も年下のこの子は、私の全てだ。私が世界で一番怖いのは、この子に捨てられることで…嫌われることで…必要ないって思われることで。
だから、お見合いなんてして、この子に私を拒絶されることが…それを想像することが…たまらなく怖かったのだから。
「沙織さん、私のこと、好きでいてくれますか?」
「好き」
即答する。考える間でもない。今の私から未来をとったら、もう背骨しか残らない。
未来は私を見ながら、自分の指に手をあてた。
未来の右手。人差し指。
指輪。私とお揃いの、指輪。
未来は指輪に触れると、そっと、その指輪を外す。
(あ…)
私、捨てられるんだ。
恋人から見放されるんだ…仕方ないよね…先に裏切ったのは私なんだから…
でも…
(嫌)
(嫌)
こひゅって、喉の奥がなる。空気が肺から漏れていく。未来に捨てられるのだけは嫌。耐えられない。足元が崩れる。世界に穴が開いて、私はどこまでも深淵に落ちていく気がする。
未来はゆっくりと私に向かって歩いてきて、その手には指輪が握られたままで。
指輪を…返された。
(捨てられた)
もう、私の気持ちなんていらないって…捨てないで…お願い、未来。私を捨てないで。嫌、嫌なの。駄目。
「沙織さん…」
未来は私の目をまっすぐに見つめていて、その視線は私よりも少しだけ上で、未来はもう私よりも大きくなっていて。
未来が私の手を取る。
私の右手。
指輪をしている手。
「あ…」
優しく、指輪がはめられる。
こつん、と、私の指輪と未来の指輪が触れあう音がした。
私の右手の人差し指に、2本の指輪がつけられている。
暖かい。
そのまま私の手を握り締める未来の手が、暖かい。
「私は、沙織さんと、一緒にいますから」
指輪は返されたのではなく、未来の心と共に、託されたのだった。
私は捨てられてなんかいなくて…それどころか、大事にされていて。
泣きそうになる。
私ばっかりいろいろ悩んで悔やんで吐きそうになっていて、頭ぐるぐるになって駄目になっていたのに、未来は…12歳年下の女の子は…私の恋人は。
ずっと、ずっと、ずーっと、私のことだけを想ってくれている。
想えば未来が8歳の時から、出会った時から、それは一切変わっていない。ううん、違う、やっぱり変わってはいる。昔よりも、今の方が、ずっとずっと、深く想ってくれているのが…分かる。伝わる。
(私なんて)
そこまでの価値がある女なんだろうか…と思って、頭をふる。
ある。
この子にこんなに想ってもらえて、それだけで、私は価値がある女なんだ。
世界の何を疑ったとしても、この子の気持ちだけは…疑えない。
「お見合い…いって…くるね」
「うん」
未来は私の手を握り、指輪を握り、私の心まで握っていた。
「待ってる」
「…待ってて」
私には、帰るべき場所がある。
私の未来は、たしかにここに、ある。
■■■■■
「綺麗な庭ですね」
前を歩く直樹さんの背中は大きい。
背が高いし、細身のように見えて、実はがっしりとしているのが分かる。
(でも)
私にとって、未来の存在の方が…何倍も大きい。
私はゆっくりと後ろを歩きながら、指輪に手を触れた。
離れているのに、暖かさを感じる。
料亭の庭は歩けるようになっていて、小さな水路や、小さな橋がかかっている。
その橋の上に直樹さんは立っていて、少し遅れて私もその橋の上にたった。
「陽子さん、学生時代の私の先輩だったんです」
姉さんの名前が、直樹さんの口から出てくる。
「素敵だった…憧れだった…まだ学生時代の私は告白する勇気はなかったけど、もしも今の私なら」
「姉さんに、告白されてましたか?」
「しますけど…でもたぶん、結局振られちゃうでしょうね」
そう言いながら、直樹さんは笑った。
横顔は少し寂しそうだったけど、でもその中に郷愁を感じることができた。
「こう見えて私、けっこうモテるんですよ?」
「それは…分かります」
この若さで大学教授であり、背も高く、顔立ちもよく、家柄だって文句がなく、けどそれを鼻にかけるわけでもない誠実さと清潔さと高潔さが、直樹さんにはあった。
この人と付き合いたい、って思う女性が他にいないわけがない。
むしろ、直樹さんが選ぼうとすれば、誰だって自由に選べるはずだ。
「沙織さん」
「はいっ」
「陽子さんに似ているからじゃなくって、純粋に、あなたは素敵な女性だと思います」
「…有難うございます」
お礼を言う。
お世辞ではないと分かる…直樹さんの口調に嘘や偽りを感じることはない。
風が吹いた。
空はまだ曇天模様のままで、風はやはり冷たかった。
「私はモテますが…でも、私がモテたいって思った人からだけは、モテないんですよね」
直樹さんはそう言うと、私の方を振り向いた。
優しく笑う。でもその笑顔は少し寂しそうだった。
「陽子さんが結婚された時、寂しかったけど…でも嬉しかったんです。陽子さんの旦那さんも…私の先輩でしたし、私、2人とも大好きでしたから」
「そうなんですか…」
姉さんの旦那さん。浩平さん。
男性の魅力だけでいえば、たぶん浩平さんよりも直樹さんの方が優れているような気がするんだけど…でも、姉さんなら、何回生まれ変わったとしても、結局浩平さんを選ぶだろうな、と思った。
(…私も、選ばれなかったし)
私は姉さんを愛していた。
でも、姉さんが愛した人は別の人だった。
ただ、それだけのことだ。当たり前にある、当たり前の失恋。私の場合は対象が実の姉で女同士だったという事だけが普通とは違うかもしれないけど…でも、失恋したことには変わりがない。
「沙織さん」
「はい」
「もしも貴女に…他に好きな人がいないなら、私と結婚を前提にお付き合いしてもらえませんか?」
目が、笑っていなかった。
真剣だった。
それが分かるからこそ…先ほどの言葉が引っかかる。
(モテたいって思った人からだけは、モテない)
(他に好きな人がいないなら)
あ。
この人は。
私は自分でも気づかないうちに、ずっと、自分の右手にはめていた指輪を触っていた。
たぶん、分かっている。
分かっているのに、正直に、口にしてくれた。
それは誠実さだ。
卑怯で弱い私だけど、でも、誠実さには…こたえたい。
「ごめんなさい…お見合いに来ていて、こんなことを言うのは失礼だとは分かっているのですが…私…」
指輪を、触る。
勇気をもらう。
「好きな人が、いるんです」
「…でしょうね」
直樹さんは、笑った。
その笑顔は、何かふっきれたかのような笑いだった。
「これで私、人生2回目の失恋です」
「…ごめんなさい」
「謝らないでください。1回目は告白することすら出来なかったんですから…告白して玉砕できたぶん、今回の方がましですから」
「…ごめんなさい…」
私には、謝ることしかできなかった。
中途半端に流されるから、だから結局私は周りを傷つけてしまう。
お父さんの気持ちも、お母さんの気持ちも、直樹さんの気持ちも、分かっていながら、でもその期待に応えることができなかった。
「最後にひとつ、お聞きしてもいいですか?」
「私に答えられることなら…」
「沙織さんの好きな方って、どんな方なんでしょう?」
たぶん、直樹さんと付き合って、結婚したら、私は幸せになれると思う。
子供も産んで、お父さんとお母さんに孫を見せることもできて、私だけじゃなく、周りのみんなも幸せになれると思う。
それは素敵で、輝かしい未来だ。
私だって、幸せになりたい。
でも、私が一番欲しくて、望んでしまうのは…
「この人と一緒になれるなら、幸せになれなくてもいい、不幸になってもいい、そんな風に思えるくらい…愛おしくて仕方がなくて、そして…」
私は、笑う。
「…私にはもったいないくらい…私のことを…愛してくれる人なんです」
■■■■■
普通、お見合いというものは、断るにしてもお見合い当日に断るのではなく、後日改めて正式に伝えるもの、らしい。
それは当たり前で、仲人を引き受けてくれた人の面子もあるし、わざわざ集まってくださった相手側の両親に対しても失礼だからだ。
でも、今回のお見合いは、私はこの場で、断ってしまった。
私の幸せを願って準備してくれた様々なものを、私は自らの手でたたき割ってしまった。
それなのに、場を取り繕ってくれたのは、直樹さんだった。
私をたてて、仲人さんや両親に丁寧に挨拶をして、気丈にふるまいつつ、その物腰はあくまでスマートだった。
(この人は本当に…)
素敵な人、なのだろう。
この人と結婚できる人は、幸せな未来を確約できるだろう。
私は手を伸ばせばその未来を手に取ることができたにも関わらず、自分から振りほどいてしまった。しかも、ひどいやり方で。
しかも、一番ひどいのは。
直樹さんに感謝しつつも、私の頭の中は、未来のことで一杯だったということだ。
なんて最低な女なのだろう。
全てを壊しておきながら、自分の求めるものだけを欲しているのだから。
あわただしく、お見合いは終わり、帰路につく。
直樹さんは最後まで紳士的にふるまってくれた。
本当に…素敵な人だ。
いくら感謝をしてもし足りないのだけど、けれど、私の心の中はもう別のことでいっぱいになっていた。
私を、待ってくれる、人がいるのだから。
帰り道、私は途中で1人、車をおろしてもらった。
実家には、お父さんとお母さんだけで帰ってもらう。
お見合いを破断にしておきながら…なんて私は我儘なのだろう。
でも、もう、我慢することなんて出来なかった。
私は…自分で…自分の意志で、自分の未来を選んでしまったのだから。
■■■■■
待ち合わせ場所は、私のお気にいりの公園にした。
着物姿で行くには絶対に似つかわしくない場所なのに、そんなことはどうでもよかった。
坂道を昇る。
汗が出る。
着物姿でこんな坂道を歩いていくなんて、馬鹿でしかない。
足が痛い。
草履で歩くような場所じゃない。
先ほどまで曇天模様だった空が、今は光が差し込んでいて、暑くなってきていた。
暑い…暑い。
私は息を吐きながら、それでも前を向いた。
坂道の先。
私が行くべき場所。
光が増える。
空が明るくなる。
私が一歩踏み出すたびに、空の雲も晴れていく。
「はぁ…はぁ…」
早く、早く会いたい。
私の未来に会いたい。
もう少し。
あと少し。
見える。
頂上。
「沙織さんっ」
私の未来の声がした。
すごく心配そうな顔で私を見下ろしている。
坂の上にいるから、それでなくても私より背が高いのに、もう、見上げるしかない。
太陽が、光が、眩しくて。
未来の顔がよく見えない。見せて。見たい。
私の恋人に、早く会いたい。
「…未来」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃないけど…今、大丈夫になったわ」
手を伸ばす。
右手を伸ばす。
指輪が二本ついている、私の右手。
掴まれて、引っ張りあげられて、坂道の上の公園についた。
思い出の場所。
未来と初めて…キスをした場所。
眼下に街が見える。
綺麗…光に照らされて、輝いているようにみえる。
「沙織さん…お見合いは…」
「あはっ、断ってきちゃった」
私は笑う。
笑いながら、先ほどまでまだ残っていたお父さんやお母さんや直樹さんの顔が、綺麗に光に上書きされて、消えて、もう未来への想いだけしか残らない。
私は未来から預かっていた指輪を抜き取ると、未来の右手をとる。
綺麗な指…若い指。
12歳年下の、私の恋人の指。
その指に指輪をはめたあと、私は我慢できなくなって着物姿のまま、未来にキスをした。
「ん…」
足りない…もっと、もっと未来が欲しい。
そのまま未来の中に入り、未来を全部堪能する。
未来は抵抗することもなく、むしろ逆に、積極的に私を求めてくれる。
未来も私の中に入り、また私も未来の中に入り、2人で混ざり合いながら、一緒にどろどろに溶けていく。
長い長いキスをした後、唇を離す。
私と未来の唇の間にキスのつながりの残滓が糸を引いて、切れて、そして、
「あはははははっ」
笑いが漏れる。
幸せとか、不幸とか、もうそんなことは全部頭から抜け去っていて、ただ、未来がこの手の中にいてくれることだけが、その実感が残っていて、私は白く満たされていた。
「未来」
「はい…沙織さん」
「私と…」
何を言おう。
お見合いが破談になったこの日に、恋人に告げるべき言葉は…なんなのだろう。
一つ、言葉が浮かんだ。
私はたぶん、ひどい女だ。悪い女だ。でももう、駄目。止まらない。
あふれるこの気持ちを抑えることなんて、私にはもうできない。
私は少し乱れた着物姿のままで、目の前にいるさっきキスしたばかりの12歳年下の可愛い可愛い大切な同性の恋人に向かって、迷いなく想いを告げた。
「…私と結婚を前提にお付き合いしてもらえませんか?」
「最初からずっと、ずーっと、同じ気持ちですっ!」
未来は即答すると、私に抱き着いてきた。
あまりにも勢いがすごかったものだから、私たち2人はそのまま倒れこみ、せっかくの着物が汚れてしまったにもかかわらず、私は嬉しくて抱きしめてそのまま空を見上げていた。
澄み渡った、晴れた空。
輝く太陽の下で。
私は、私の未来を、私自ら選択したのだった。
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