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9話
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シゼルの体に毛布をかけ、燭台の火を消す。月明かりだけが差しこむ部屋の中で、リネットはベッドに寄りかかるようにしながらシゼルの顔の横に腕を置き、その上にみずからの頭を乗せた。
「今日はお父さまに呼び出されたの。もちろん、悪い話じゃなかったわ。そろそろ結婚してもいい頃だって準備をはじめるよう言われたの」
お父さまったらせっかちよね、と肩をすくめる。
まるで子供の結婚を喜んでいる父親に言われたかのように、幸せそうな笑みを浮かべながら。
「それでエイベル様にもアンローズ家……エイベル様のご実家が主催する夜会に招待されて…そこで結婚について公表するんじゃないかって。みんなの前で結婚を申し込まれるなんて恥ずかしいけれど、楽しみだわ」
頬を赤らめる姿は、エイベルがリネットではなくアメリアと一緒にいる時間が長いことや、アメリアがもともと婚約者になるはずだったと噂されていることなど感じさせない。
心の底から幸せそうに見える彼女の姿に、シゼルの口元にほんの少しだけ笑みが浮かんだ。
「お母さま……?」
シゼルが動かなくなってから初めて見た変化に、リネットは目を丸くするが、次の瞬間にはいつもと変わらない何を見ているのか、そもそも何も見ていないのではないか。そんな顔に戻ってしまった。
「……ありがとうお母さま。私、絶対に幸せになるわ」
それでも、泣きたくなるぐらいに嬉しかった。まるで祝福してくれているかのようで。
◇◇◇
はあ、と深いため息が落ちる。落としたのは、リネットを呼び出したメイヴィス伯だ。
彼の執務室にはリネットだけでなく、アメリアも呼び出されていた。だが戦々恐々としているリネットとは違い、彼女は朗らかに微笑んでいる。
「侯爵夫人になるという約束はどうなった」
「もちろん、守らせていただきます」
「そうは見えないがな」
エイベルがリネットではなく、アメリアのそばにいることをメイヴィス伯も知っているのだろう。だが、一度はいやだと言っておきながらエイベルに近寄ろうとしているアメリアに彼の失望が向かうことはない。
メイヴィス伯は約束したのだから守って当然だと思っている。それなのにアメリアに奪われそうになっているのは、ひとえにリネットの努力不足だと言いたいのだろう。
「アメリアにはアメリアで良縁を用意するつもりだ。どちらでもいいからさっさと結婚し、私が健在のうちに男児を産め。ふたり以上産めばひとりは我が家の後継者として迎え入れる」
もしも後継者がないままメイヴィス伯が没すれば、この家は縁戚の手に渡る。メイヴィス伯はそれを厭い、男児を得るためにシゼルを迎えた。
だが自らの子に継がせるのは、今となってが難しい。ならば、アメリアかリネットの子供をと思ったのだろう。
だからエイベルとの結婚を許してくれたのだと、ようやく腑に落ちた。どこの誰が父親かわからない子供では、伯爵家を継ぐのにふさわしくない。
そしてアメリアのもとに男児がふたり以上産まれる保証はなく――少しでも自らの血を継ぐ子供を後継者として迎えるために、可能性を広げようとした。
「話は終わりだ。アメリア、お前の相手についてはすでに何人か候補を絞ってある。あとで部屋に釣書を持っていかせるから、目を通しておくように」
さっさと出ていけ、というような目で部屋を追い出され、リネットは緊張で止まりかけていた息をゆっくりと吐きだした。
メイヴィス伯は淡々と話し、声を荒げることはないく、怒られることもなかった。だがそれが逆に恐ろしかった。
何か失敗すれば無感動に無感情にリネットを見下ろし、リネットではなくシゼルを責めたてた。子供のころから何度も見てきた泣きながら謝る母と、鞭を振るう父。その姿は、リネットの心にいまだに消えない傷を刻んでいる。
「そういえばリネット。明日アンローズ家が夜会を開くそうなのだけれど、あなたは招待されたの?」
扉が完全に閉め切られてから、アメリアが勝ち誇ったような笑みをリネットに向けた。
「……お姉さまがエイベル様に近づくのは、お父さまの不興を買うのではないでしょうか」
今まさにその話をしたばかりだというのに、アメリアに反省の色はない。そのことにリネットは驚いた。あの父を恐ろしく思っていないのか――愛されて育ったから、許されると安心しきっているのだろうか。
困惑し思わず反論してしまったのだが、いつものようにアメリアが激昂することはなく、ふん、と鼻で笑った。
「そんな些細なことお父様が気にするはずないでしょう? お父様は期待に応えさせすれば許してくれるわ」
自信満々に言うアメリアに、やはり自分とは違うのだと痛感してしまう。
リネットは約束を守らなければどうなるのかと恐ろしいことばかり考えて、なんとしても約束を守らないといけないと思ってきた。
そもそもアメリアは約束していないから、というのがあるのかもしれないが、それでも彼女のような自信はリネットにはない。
「それに、私のことよりもあなたは自分の心配でもしていなさい。今日もエイベル様は私を訪ねにきてくれるのよ。あなたではなくてね」
ふふふ、と笑うアメリアの言葉のとおり、午後にエイベルがメイヴィス家を訪れた。
彼の持ってきた花束が向けられるのはいつもアメリアで、リネットの前を素通りして彼女とふたりで庭園や応接室に向かう。
「リネット」
だが今日ばかりは事情が違ったようだ。エイベルは花束を持っておらず、彼の言葉はリネットに向けられた。
「元々俺の婚約者になるのはアメリアだったそうだが、お前が俺の婚約者になったのは間違いない」
なんのことだろうと思わず首を傾げたくなる。だが、またアメリアがリネットに何かしらの失敗か嘘を押し付けたのだということに思い至り、傾けかけた首を止めた。
「だからお前も呼ぶようにと言われたから、お前にも招待状を持ってきた。明日の夕刻、迎えに来る」
ものすごく不服そうな顔で渡された招待状。明日の、ということは時間ぎりぎりまでどうするか悩んでいたのだろう。
それでも、こうして招待してくれたことにほっと胸を撫でおろした。いやそうではあるが、リネットを婚約者として認めてくれていることもわかった。
「ありがとうございます。エイベル様に恥をかかさぬように尽力いたします」
それだけでじゅうぶんだ。彼の心が誰に向いているかなんて、リネットには関係ない。
母と自分を守れればいい。それだけでいい。それしか願わない。
どうせ幸せな結婚生活や、温かい家庭なんて、それを知らないリネットには想像すらできないのだから。
「今日はお父さまに呼び出されたの。もちろん、悪い話じゃなかったわ。そろそろ結婚してもいい頃だって準備をはじめるよう言われたの」
お父さまったらせっかちよね、と肩をすくめる。
まるで子供の結婚を喜んでいる父親に言われたかのように、幸せそうな笑みを浮かべながら。
「それでエイベル様にもアンローズ家……エイベル様のご実家が主催する夜会に招待されて…そこで結婚について公表するんじゃないかって。みんなの前で結婚を申し込まれるなんて恥ずかしいけれど、楽しみだわ」
頬を赤らめる姿は、エイベルがリネットではなくアメリアと一緒にいる時間が長いことや、アメリアがもともと婚約者になるはずだったと噂されていることなど感じさせない。
心の底から幸せそうに見える彼女の姿に、シゼルの口元にほんの少しだけ笑みが浮かんだ。
「お母さま……?」
シゼルが動かなくなってから初めて見た変化に、リネットは目を丸くするが、次の瞬間にはいつもと変わらない何を見ているのか、そもそも何も見ていないのではないか。そんな顔に戻ってしまった。
「……ありがとうお母さま。私、絶対に幸せになるわ」
それでも、泣きたくなるぐらいに嬉しかった。まるで祝福してくれているかのようで。
◇◇◇
はあ、と深いため息が落ちる。落としたのは、リネットを呼び出したメイヴィス伯だ。
彼の執務室にはリネットだけでなく、アメリアも呼び出されていた。だが戦々恐々としているリネットとは違い、彼女は朗らかに微笑んでいる。
「侯爵夫人になるという約束はどうなった」
「もちろん、守らせていただきます」
「そうは見えないがな」
エイベルがリネットではなく、アメリアのそばにいることをメイヴィス伯も知っているのだろう。だが、一度はいやだと言っておきながらエイベルに近寄ろうとしているアメリアに彼の失望が向かうことはない。
メイヴィス伯は約束したのだから守って当然だと思っている。それなのにアメリアに奪われそうになっているのは、ひとえにリネットの努力不足だと言いたいのだろう。
「アメリアにはアメリアで良縁を用意するつもりだ。どちらでもいいからさっさと結婚し、私が健在のうちに男児を産め。ふたり以上産めばひとりは我が家の後継者として迎え入れる」
もしも後継者がないままメイヴィス伯が没すれば、この家は縁戚の手に渡る。メイヴィス伯はそれを厭い、男児を得るためにシゼルを迎えた。
だが自らの子に継がせるのは、今となってが難しい。ならば、アメリアかリネットの子供をと思ったのだろう。
だからエイベルとの結婚を許してくれたのだと、ようやく腑に落ちた。どこの誰が父親かわからない子供では、伯爵家を継ぐのにふさわしくない。
そしてアメリアのもとに男児がふたり以上産まれる保証はなく――少しでも自らの血を継ぐ子供を後継者として迎えるために、可能性を広げようとした。
「話は終わりだ。アメリア、お前の相手についてはすでに何人か候補を絞ってある。あとで部屋に釣書を持っていかせるから、目を通しておくように」
さっさと出ていけ、というような目で部屋を追い出され、リネットは緊張で止まりかけていた息をゆっくりと吐きだした。
メイヴィス伯は淡々と話し、声を荒げることはないく、怒られることもなかった。だがそれが逆に恐ろしかった。
何か失敗すれば無感動に無感情にリネットを見下ろし、リネットではなくシゼルを責めたてた。子供のころから何度も見てきた泣きながら謝る母と、鞭を振るう父。その姿は、リネットの心にいまだに消えない傷を刻んでいる。
「そういえばリネット。明日アンローズ家が夜会を開くそうなのだけれど、あなたは招待されたの?」
扉が完全に閉め切られてから、アメリアが勝ち誇ったような笑みをリネットに向けた。
「……お姉さまがエイベル様に近づくのは、お父さまの不興を買うのではないでしょうか」
今まさにその話をしたばかりだというのに、アメリアに反省の色はない。そのことにリネットは驚いた。あの父を恐ろしく思っていないのか――愛されて育ったから、許されると安心しきっているのだろうか。
困惑し思わず反論してしまったのだが、いつものようにアメリアが激昂することはなく、ふん、と鼻で笑った。
「そんな些細なことお父様が気にするはずないでしょう? お父様は期待に応えさせすれば許してくれるわ」
自信満々に言うアメリアに、やはり自分とは違うのだと痛感してしまう。
リネットは約束を守らなければどうなるのかと恐ろしいことばかり考えて、なんとしても約束を守らないといけないと思ってきた。
そもそもアメリアは約束していないから、というのがあるのかもしれないが、それでも彼女のような自信はリネットにはない。
「それに、私のことよりもあなたは自分の心配でもしていなさい。今日もエイベル様は私を訪ねにきてくれるのよ。あなたではなくてね」
ふふふ、と笑うアメリアの言葉のとおり、午後にエイベルがメイヴィス家を訪れた。
彼の持ってきた花束が向けられるのはいつもアメリアで、リネットの前を素通りして彼女とふたりで庭園や応接室に向かう。
「リネット」
だが今日ばかりは事情が違ったようだ。エイベルは花束を持っておらず、彼の言葉はリネットに向けられた。
「元々俺の婚約者になるのはアメリアだったそうだが、お前が俺の婚約者になったのは間違いない」
なんのことだろうと思わず首を傾げたくなる。だが、またアメリアがリネットに何かしらの失敗か嘘を押し付けたのだということに思い至り、傾けかけた首を止めた。
「だからお前も呼ぶようにと言われたから、お前にも招待状を持ってきた。明日の夕刻、迎えに来る」
ものすごく不服そうな顔で渡された招待状。明日の、ということは時間ぎりぎりまでどうするか悩んでいたのだろう。
それでも、こうして招待してくれたことにほっと胸を撫でおろした。いやそうではあるが、リネットを婚約者として認めてくれていることもわかった。
「ありがとうございます。エイベル様に恥をかかさぬように尽力いたします」
それだけでじゅうぶんだ。彼の心が誰に向いているかなんて、リネットには関係ない。
母と自分を守れればいい。それだけでいい。それしか願わない。
どうせ幸せな結婚生活や、温かい家庭なんて、それを知らないリネットには想像すらできないのだから。
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