性別詐称王女、ノエル殿下の暗躍

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1. アルトメリア王国へ

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 昔々あるところに、綺麗なお妃様がいました。お妃様は三番目のお妃様でした。王様には既に二人のお妃様がおり、それぞれ一人ずつ、王子も産まれていました。三番目のお妃様はたいへん綺麗で、王様もたいそう可愛がっていました。
 三番目のお妃様が赤ん坊を産むと、その子も男の子でした。赤ん坊を腕に抱いて、お妃様は考えました。この子が王子として育てられたら、上の王子二人にやっかまれるのじゃないかしら。王子の母親たちにも憎まれ、殺されるのではないかしら。一番目と二番目のお妃様は嫉妬深く、三番目のお妃様は二人とあまり仲が良くなかったのです。
 賢く優しく美しく、そして世渡りの上手な抜け目ないお妃様は、にっこり微笑んで産婆に言いました。
「この子は女の子ということにしましょう」

 つまりそれがこの物語の主人公、ノエルだった。母親に似てたいそう麗しく繊細な容貌で、やわらかくウェーブのかかった細い白金の髪は輝くばかり。小さな頃は蝶よ花よと育てられ、女の子の服を着せられて、上の兄たちにも妃たちにも可愛がられた。愛嬌を振りまくノエルを介して母は大変うまく立ち回り、今や気難しい第一王妃と第二王妃をして大親友よ姉妹よと呼び合うまでになっている。
「うまいことやりますよね、本当に」
ノエルはにっこり笑う。十八歳になったノエルは、未だ同年代に比べて華奢とはいえ、男性的な骨格や喉仏が隠しきれなくなってきていた。既にドレスは着るのをやめて、中性的でゆったりとした白い絹の衣装を身につけている。長いプラチナブロンドと彼の美貌が、ノエルの性別をわからなくさせていた。
 母はゆっくりとお茶を飲み、「なんのこと?」と微笑んだ。城に勤める者たちからはおっとりとした優しい王妃として慕われているが、一番の曲者だろうとノエルは思っていた。気づいているのはノエルと、他二人の王妃くらいだ。その隠れた曲者具合を買われて仲良くなったのだから、三人の王妃は傾向は違えど似たもの同士らしい。
 母親の向かいで足を組み、同じような微笑みを浮かべたノエルは、どこか人間離れした雰囲気をしている。
「いえ、いいんです。うまいこと身の振り方も決まったし」
そう言って美しい所作で焼き菓子を食べる。王妃は、美味しそうに菓子を食べる息子をニコニコしながら見ていた。
「そうねぇ、まさかお嫁にもらってくれる方がいるなんてねぇ」
彼女はのんびりとお茶を飲んだ。そうなのだ。ノエルも十八になり、そろそろ身の振り方を考えなければならない頃合いだった。城を出てどこかの貴族にでも厄介になるかと考えていた矢先に、隣の国からの縁談が舞い込んできたのだった。
「むしろ男がいいって言うんだから、拾う神もいるものですね」
ノエルものんびりと言う。
 ノエルが男であることは、王宮では既に暗黙の了解だった。誰も敢えて取り沙汰しないだけだ。第三王妃は国王や他の王妃からの信頼も篤く、敵を作らない立ち回りを心得ており、ノエルが育つまでの十数年間で既に十分な地位を築いていた。その王妃が、「王女だ」と言うのだ。誰も敢えて王位継承権争いの火種を作ろうとは思わなかった。皆、ノエルをただ「殿下」と呼んだ。
「王位継承権を放棄するために男と結婚するなんて、あちらも大変なのねぇ」
母の言葉に、まったくだとノエルも頷いた。
 デーヴァ王国のお隣の国、アルトメリア王国。そこの第二王子が、ノエルの嫁ぎ先だった。
 元々は第一王子に嫁ぐはずだったのだ。しかしそれはまずいとデーヴァ王国側は断った。ご丁寧に、ノエルの事情を婉曲に説明して。そうしたら第二王子との婚姻になった。もしや第二王子への嫌がらせかと思ったが、本人からのたっての希望らしい。
 ノエルはお茶を飲み終わると、立ち上がった。
「お世話になりました、母上。おかげさまで皆に可愛がられ、暗殺もされず、のびのびと生きてこれました」
母も立ち上がり、ノエルを抱き締める。もう母の身長はとっくに追い越していた。ノエルも抱きしめ返す。男らしく生きたいと思ったこともあるが、すべて母の愛情だと理解してもいた。
「敵を作らず、うまくやるのよ」
母は強く言った。ノエルは笑う。隣国への出発は明日に控えていた。


 アルトメリア王国は、大陸の中央に位置する比較的大きな国で、いくつかの国と接しており、陸の交易の要だった。友好国の物流はほとんどがアルトメリアを通り、各地へ流れていく。逆に侵攻しようとしてくる国に対しては、アルトメリアが主に防衛することとなる。北側の大国、トール帝国は、機会があれば攻め降りようと虎視眈々と狙っている。アルトメリアの南側に位置する小さな国々は、アルトメリアにトールの侵攻を防衛してもらう代わりに、南側の交通を整備し、物流を発達させ、同盟国として共に栄えた。
 ノエルが嫁ぐアルトメリア国第二王子ベンジャミンは、政治に全くと言っていいほど興味がなく、辺境でのトールとの小競り合いに赴いては、戦果を上げて帰ってくる戦争馬鹿とのことだった。ノエルを娶ろうとするあたり、政治に興味がないというのはポーズのような気がしたが、やたらと戦争がうまいせいで逆に脅威とも見なされているらしく、なんだか不憫だなと思わずにはいられなかった。
 そんなこんなで道中にアルトメリアの知識を復習したノエルを乗せて、馬車は国境を越えようとしていた。デーヴァとアルトメリアの国境はのどかな農耕地帯で、検問はあるもののほとんど機能していないと言ってもよかった。平和ボケできるのは素敵なことだ、とノエルは馬車の窓から外を眺めた。デーヴァから交易に向かう馬車や、逆にアルトメリアからデーヴァに向かう馬車が、荷物をたくさん乗せて行き交っている。
 向かいに座る侍従のジョエルに追加の資料を貰う。今度はアルトメリアの王室と、その周囲を取り巻く人物たちの相関図がまとめられていた。ふむふむと名前と役職を頭に入れる。家族構成や年収、功績や不祥事についてもたいへん良くまとまっていた。
「素晴らしい資料だ」
ノエルがいつものように褒めると、ジョエルは無表情で頷いた。
「恐れ入ります」
ジョエルは、ノエルが赤ん坊の頃から第三王妃が付けてくれている侍従で、侍従とは名ばかりの、諜報員かつ護衛だった。身の回りの世話はできるだけ自分でやるように母から厳しく躾られた。お付きの中にいつ暗殺者が紛れ込むか分からないのだから。ジョエルは宮仕も着替えの手伝いもほとんどしないが、情報収集と剣技をやらせたら右に出る者はいなかった。そろそろ四十になろうとしているが、嫁も迎えずにノエルに仕え、アルトメリアにまでついてくると申し出てくれた。ジョエル以上の忠実な使用人を今後雇えるとは思えなかったので、とてもありがたかった。

 アルトメリアの王都は歓迎ムードだった。友好国デーヴァから美しい姫が来ると聞いて、街は華やかに装飾されている。第一王子の婚姻が来年を予定されているため、公の場でのお披露目はそれよりも後になるが、輿入れの話は既に公表されていたらしい。ノエルは少しだけ馬車の窓から顔を覗かせて、集まってきた民衆に手を振った。どよめきや黄色い声が上がる。ノエル様、と口々に名前が呼ばれ、道に花びらが撒かれた。ノエルは美しい微笑みを崩さず、控えめに手を振り続けた。

「お見事でございました」
ジョエルが言って、馬車を降りるのに手を貸した。うん、とノエルは応える。王族は、王宮の敷地内まで馬車で乗り入れることが許されている。ノエルの馬車は、王宮の正面玄関前で止まってくれた。これで、正門から王宮までの途方もない石畳を歩かなくて済んだ。
 玄関は大理石の階段を登った先に待ち構えていた。階段の両端に、近衛兵が武器を持って直立不動になっている。「デーヴァ王国第一王女、ノエル殿下の御成」と兵士の一人が大声で伝えた。その伝令は奥まで伝わっていく。ノエルは微笑みを絶やさず、美しい姿勢でゆったりと歩いた。
 謁見室に通され、王と王妃を待った。ノエルは頭の中で、先ほど見た資料の中身を復習しはじめる。頭の中で三周ほど復習し終わったところで、国王夫妻の到着が告げられた。ノエルは片膝をつき、最敬礼をして待つ。静かに衣擦れの音がして、誰かが椅子に座ったのがわかった。
「顔を上げなさい、発言を許可します」
優しい声がして、ノエルは顔を上げた。柔和な顔をした白髪混じりの国王夫妻が、ノエルを見つめていた。まあ、と王妃は声を上げる。
「噂とたがわぬ美しさね」
「勿体ないお言葉です。デーヴァ王国第一王女、ノエル・オーブリー・デーヴァと申します」
ノエルが微笑みを浮かべると、王妃はうっとりと頬を染める。
「本当によいのか、その……うちの、王子との結婚は」
国王は改まって尋ねた。思いのほか直球な問いかけにもノエルは動じず、頷く。
「私の自国での立場はご存知かと思います。今後の身の振り方に困っていたところで、大変ありがたいお申し出でした」
ノエルが朗らかに言うと、国王夫妻はほっとした顔をした。
「下の王子は根は悪い子ではないのだが、頑固で強情で、こうと決めたらてこでも動かないところがあり……大変かもしれないが」
国王が言葉を濁している。ノエルは頷く。国王は続けた。
「戦が好きだからと戦地にばかり赴いているが、あれは兄を気遣っているのだ。小さい頃は仲が良かったのだが、最近は王宮から離れようとするばかりで」
「お兄様想いなのですね」
ノエルの言葉に国王はうんうんと頷く。
「そう、そうなのだ、わかりづらいのだが……優しい子なのだ」
どうか仲良くしてやってくれ、と頭を下げる国王夫妻に、ノエルのほうが恐縮してしまった。

 第一王子は、王位継承権などには全く興味のなさそうな、両親に似て柔和な印象の男だった。しかしひとたび政治の話を振られれば核心をついた返答をし、トールとの情勢についても詳しく教えてくれた。そして彼も、心配そうにノエルに頼むのだった。
「弟は、一見そうは見えないが優しい子なんだ。仲良くしてやってくれ」

 ノエルは、第二王子に会うのが俄然楽しみになってきた。優秀な兄の王位を妨げぬよう男の嫁を娶り、中枢の政治には関わらず戦争をしてばかり、しかし周囲からは戦争の腕を恐れられ、家族からは「そうは見えないがいい子なんだ」と評される男。楽しくやっていけそうだった。


◆◆◆


 その日は結局、第二王子と会うことはできなかった。国境からの帰還が遅れ、ノエルの到着に行軍が間に合わなかったのだ。第二王子ベンジャミンは、翌日の朝に王宮に戻った。
 行軍を押して、昨日は夜じゅう移動して戻ってきたらしいですよ、とジョエルは言った。遅刻したのを気に病んでいたそうだ。生真面目な性格らしい。
「早めに支度を済ませなくてはね」
ジョエルの報告を聞きながら、ノエルは手早く身支度をした。王宮の侍従長は早速ノエルにも侍従をつけようとしていたが、ジョエルもいるからと一旦保留にしていた。のちのち、ジョエルが信用できる者を選んでくれるだろう。
 支度を終え、朝の紅茶を楽しんでいると、ノックの音がした。ジョエルが外に出て用件を聞く。戻ってきてノエルに伝えた。
「ベンジャミン殿下の先触れでした。まもなく挨拶にいらっしゃいます」
ノエルは頷く。婚約者とはいえ、ノエルはまだ客人の身分だ。王族同士が会うにはそれなりの手順が必要だった。ノエルは紅茶の香りを楽しみ、その時を待った。

「ベンジャミン殿下の御成です」
外で護衛の近衛兵の声がして、ジョエルは恭しくドアを開けた。ノエルは立ち上がる。供の者に外で待つように伝えてから、軍靴を鳴らしながら男が入ってくる。初めて会うタイプだ、とノエルは直感した。深くお辞儀をし、顔を上げる。
 ベンジャミンは凛々しい顔立ちをしていた。軍人らしく短く刈り上げた黒髪、背が高く、肩幅は広く、きりりとした眉毛は意志の強さを表すようだった。夫妻にも兄にも全く似ていない、とノエルは驚いた。肖像画で拝見した先代の王、つまりベンジャミンの祖父に、眉毛がよく似ていた。目の色は両親や兄と同じ、優しい茶色だった。
 ベンジャミンはしばしノエルを見つめて、惚けたように黙った。初対面ではよくあることなので、ノエルはしばらく待つ。はっとしたようにベンジャミンは瞬きをして、一礼した。
「あなたの到着に間に合わず申し訳なかった」
堅い声音で謝罪する。ノエルは首を横に振った。
「いいえ、ご無事に戻られて何よりです」
「両親と兄には会いましたか」
「はい、とてもお優しかったです」
「そうですか」
沈黙が降りた。ノエルは椅子を勧めた。
「お茶でも?」
「……いえ、会議がありますので」
では、と一礼して、ベンジャミンは退室していった。大股の足音が遠ざかっていく。
 なるほど、とノエルは納得した。真面目で堅物、愛想笑いができない頑固者。慕う者は多そうだが、敵も作りやすそうだ。ノエルは呟く。
「私がうまく立ち回らなくてはね」


 ベンジャミンと顔合わせを済ませると、ノエルは来賓用の客室から移れることになった。ベンジャミンとノエルには、大きな二つの部屋が扉一枚で隔てられた、ひと続きの夫婦部屋が割り当てられた。
 大勢の使用人たちが列をなしてやってきて、ノエルの嫁入り道具を運び出してくれる。ほとんどが本なのでそちらは任せた。貴重品や資料関係だけをジョエルが運んでくれる。衣装箱だと思って持ち上げたのだろう使用人が、箱の重さに明らかに狼狽しており、ノエルは申し訳なく思った。
 部屋の準備が整い、ノエルは住居を移したが、ベンジャミンは現れなかった。
「会議と報告書作成に追われているようです」
ジョエルの言葉にノエルは頷く。平和ボケしたデーヴァでは想像もつかないが、軍事には大きな金が動く。必要な会議も決裁する書類も山ほどあるだろう。
「今日は大人しくしているとしよう」
ノエルは言った。
「その間にこちらをお読みください」
ジョエルが書類を差し出してくる。受け取ってパラパラめくる。重鎮や各貴族の第二王子への態度をまとめたものだった。総評すれば、嫌われ者とまではいかないが、扱いづらいので敬遠されており、ベンジャミンの軍事に関しての提案が通りづらい状況らしい。ノエルは資料の出来に感心した。
「おまえは本当に仕事ができるな」
「恐れ入ります」


◆◆◆


 隣の部屋の主は、夜になってからようやく戻ってきた気配がした。夕食は簡単なもので済ませたらしい。ノエルは国王夫妻と第一王子とともに夕食を楽しみ、話に花を咲かせた。彼らは既にノエルに良い印象を抱いているようで、ベンジャミンのところに来てくれてありがとう、もう君は家族だよ、と言い聞かせてくれた。母親譲りの顔はこういう時に便利だ。
 ベンジャミンは夜遅くまで起きている物音がしていた。疲れているところに押しかけるのも迷惑かと思い、その日はそのまま就寝した。

 ベンジャミンはその後も忙殺されており、ノエルは王宮の中を見て回ることにした。ジョエルがついてくる。侍従長に案内を頼むと、快く引き受けてくれた。バルコニーや中庭、サンルーム、書庫など、ノエルの住む東の棟だけでも見て回るのに時間がかかった。
 アルトメリアはデーヴァよりも歴史ある国で、王宮も長い歴史を感じさせる上品な美しさだった。階段の手すりや柱の装飾の見事さ、天井に描かれた絵画の美しさをノエルが褒めると、侍従長は嬉しそうに頷いた。
 王宮が思いのほか広く、見て回るのはノエルが生活するのに必要そうな部分だけにしてもらい、侍従長は下がらせた。またいつでもお呼びください、と彼はにこにこしながら帰って行った。
「さて」
ノエルは腰に手を当て、ジョエルが用意した資料を広げて眺めた。
「どこから落とすか」
「急がば回れ、がよろしいかと」
ジョエルの進言に、ノエルは頷いた。
「彼らの家族について、もう少し詳細な情報が欲しいな。家の中での立場や、今後の進退、趣味なんかも含めて」
「今、準備させているところです」
ジョエルは言った。仕事が早いとは思っていたが、既に王宮内にはジョエルの手の者が暗躍しているらしい。ノエルは微笑んだ。
「素晴らしい」
ジョエルは一礼する。
「恐れ入ります」


 数日待ったが、ベンジャミンが一向に執務から解放されないので、ノエルはこちらから酒に誘うことにした。
 夜も更けた頃、ノエルはベンジャミンの部屋との間を隔てる扉をノックした。少し間があって、「どうぞ」と声がする。ノエルがドアを開けると、ベンジャミンは書き物机から立ち上がった。まだ書類仕事をしていたらしい。目元に疲れが滲んでいた。
「何かありましたか。困ったことでも?」
ノエルは首を振る。
「デーヴァ産のワインがあるのです。いかがですか?」
デーヴァはワイン用ブドウの産地だった。国内には多くのワイナリーがあり、年に一度のワイン品評会のために切磋琢磨している。
「それは……素敵なお誘いですが」
眉を寄せて断ろうとするベンジャミンに、ノエルは笑いかけた。
「根を詰めては、進むものも進みませんよ」
ベンジャミンはなおも迷っていたが、微笑んだまま引き下がらないノエルを見てようやく頷いた。
 ノエルの部屋に招き入れ、椅子を勧める。人払いをさせているので、ノエルの他には誰もいない。ベンジャミンは戸惑った様子で座った。
「私が先に毒味を済ませていますから、どうぞ飲んでください」
ノエルは冗談めかして言うと、空の杯にワインを注いだ。ノエルは既に自分の杯を半分ほど減らしている。
「お疲れのようですね」
「ええ、まあ」
ベンジャミンはそれきり黙ってしまう。凛々しい顔立ちのベンジャミンは、黙ると怒っているような顔になった。ノエルはつまみを勧めた。デーヴァから持参していたオリーブのピクルスだ。ベンジャミンは瞬きをして、ほんの少し目元を緩めた。ノエルは椅子に腰掛けながら、反応をつぶさに観察する。
「お嫌いでなければいいですが」
ノエルが言うと、ベンジャミンは顔を引き締めて頷いた。
「好物です」
「それはよかった」
もちろん知っていた。ジョエルは優秀なのだ。
 ワインもオリーブもベンジャミンの口に合ったらしい。あっという間に杯が空いて、ノエルは酌をした。ベンジャミンは一杯飲んで少し落ち着いたのか、口を開いた。
「ゆっくりお話もできず、申し訳なかった」
ノエルは首を振った。
「お忙しいと聞いています」
ベンジャミンは頷く。
「トールの侵攻が勢いづいています。軍備増強を提案しているのですが、なかなか通らないのです」
ジョエルの資料が頭をちらつく。穏健派の財務大臣と、第二王子が力を持つことを良しとしない軍務大臣。そのあたりが障害になっているのだろう、とノエルは想像した。
 ベンジャミンは返事を求めていたわけではないようで、ワインをぐいっと煽ると、オリーブを口に放り込んだ。ずいぶんヤケになっているようだ。
「あなたは……不服ではないですか、男の元に嫁ぐなど」
懺悔するようにそう言った。ノエルは眉を上げる。
「殿下」
「どうぞ、ベンジャミンと」
促されて、ノエルは言い直した。
「ベンジャミン様、デーヴァでの私の立場はお聞き及びでしょう。あそこにいても、貴族に下賜されるくらいしか道はなかったのです」
「あなたは皆から愛されていたと聞いた。きっと私に嫁ぐより……」
ノエルは首を振った。
「いいえ。私が愛され、ここまで生き残れたのは、母上がそうなるように計らってくださったから。そうでなければ、王位継承権もない、ひ弱で哀れな第三王子として、悪意ある者の傀儡になっていたでしょう」
ノエルは静かな声で、きっぱりと言った。ベンジャミンは黙って耳を傾けている。
「ベンジャミン様こそ、私と結婚するのは本意ではないでしょう。お忙しいでしょうから、私と会う時間を作るのも大変でしょうし」
ベンジャミンは弾かれたように背筋を伸ばした。
「いえ、そんな」
「でも、できれば私は、ベンジャミン様と仲良くしたいのです。男女のような仲にはならなくとも、こうやって酒を酌み交わして、悩み事をなんでも話せるような」
ベンジャミンは虚をつかれたように目を見開いて、しばし黙った。ノエルは真摯にベンジャミンを見つめた。これは本当の気持ちだった。本当の伴侶でなくてもいい。ただ、友人としての交流を許して欲しかった。ベンジャミンはノエルを見つめ返し、戸惑ったように視線を逸らすと、拳を握り締めた。
「ノエル様」
初めて名を呼ばれた。彼は眉を寄せている。怒っているように見えたが、違う気がした。ベンジャミンは顔を上げ、真剣な面持ちで言った。
「何日も顔を見せなかったことは謝罪します。申し訳なかった。しかし、勘違いされているようですが、無理にでも時間を作ってあなたに会いに来なかったのは、あなたと結婚したくないからではありません」
ベンジャミンは必死に言い募る。
「では、なぜ?」
ノエルは尋ねた。ベンジャミンはワインを手酌で注ぐと、勢いよく飲み干して、大声を出した。
「あなたが美しすぎて、落ち着かないのです!」
ノエルはぽかんと口を開けた。ベンジャミンは酒で赤らんだ顔で、責めるように言った。
「あなたが隣の部屋にいると思うだけで、よく眠れないし……」
ベンジャミンは、ようやく自分が何を言ったか気づいたようで、むっつりと黙り込んだ。ノエルは込み上げてくるものを堪えきれずに吹き出した。
「うふ、ふふ、あはは!」
ノエルは鈴を転がすように笑い始めた。ベンジャミンは驚いたように顔を上げる。ノエルは口元に手を当て、白い頬を上気させていた。ゆるやかにウェーブのかかった長いプラチナブロンドが、笑うたびにふわふわと揺れた。まるで深窓の令嬢のような笑い方をしているのに、すらりとした首にある喉仏と肩の骨格の青年らしさが、なにか人ならざるものを見ているような、そんな畏れを見る者に抱かせる。
「あなたは……妖精のたぐいか?」
またベンジャミンが失言をする。あんまりな言い草にノエルはさらに笑った。
「あは、あはは、おかしい」
「なにがおかしいんです!」
ベンジャミンは憮然として酒を煽った。ノエルは笑う。
「だって、そんな大真面目な顔をして」
ノエルはくすくす笑った。ベンジャミンは酒で勢いづいて、「なにを」と歯向かう。
「真面目で何が悪いですか!」
ノエルは微笑んだ。
「いいえ、とても好感が持てました」
ベンジャミンは酒のせいだけでなく顔を赤くして、黙り込んだ。ノエルは行儀悪く、テーブルにしなだれかかる。そのままベンジャミンを見上げた。
「確認しておきたいのですが」
「……なんでしょう」
「あなたは私を、性愛の対象として見ていますか?」
ベンジャミンは瞠目して固まった。ノエルは酒で眠気に負けそうな目で、ベンジャミンを見上げる。
「あなたと夜伽をする可能性はある?」
ベンジャミンは口を開き、閉じ、目を泳がせて、小さな声で言った。
「あなたが、嫌でなければ」
目をきゅっと細めて、あは、とノエルは笑った。楽しくなりそうだ。
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