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プロローグ
夜のBARにて
しおりを挟む─── 八月、最後の夜。
煌々と明かりの灯る街中のホテルにあるバーに、一人の若い女の姿があった。
カウンターの一番端の席に座り、手に持ったグラスをぼんやりと見つめている。
落ち着いた色の照明が、その白い頬に睫毛の濃い影を落としていた。
「お嬢さん。もしよかったら、隣に座ってもいいかい?」
どことなく憂いを帯びた表情の彼女に、男は声を掛けて微笑んだ。
それほど若くはないが、高級そうなスーツが嫌味なく似合う、なかなかに整った容姿だと自負している。彼女はきっと断らないだろう、と彼は密やかにほくそ笑んだ。
「無理に、とは言わないが。同じ酒を飲むのなら、一人より話し相手がいる方が楽しいかと思ってね」
「構いませんよ。気の利いたことは言えませんが、一人が寂しかったのは私も同じなので」
クスリ、と肘をつきながら手に顔を預けて、女が彼を見上げた。年の割に落ち着いたその様子が妙に色っぽく目に映る。
男はその隣に腰を下ろし、不自然にならない程度に彼女に身を寄せた。
「君みたいに若い子がこんなところに来るなんて、珍しいな。ここにはよく来るのかい?」
「いえ、仕事の関係でたまに来る程度です。でもここの雰囲気はとても気に入っていて」
「あぁ、確かにここはとても落ち着くよね。ところで君、名前は何ていうの?」
「千穂です。お兄さんは?」
「俺は平井信弘。よろしくね、千穂ちゃん」
「えぇ ─── よろしくお願いします」
千穂、と名乗った女は微笑んだ。耳許で大きめのピアスが揺れ、照明を弾いて輝く。その光に魅せられるようにして、信弘は彼女を見つめた。
艶やかな黒髪、猫のような大きい目、小さな顔に珊瑚色の唇 ─── 紛れもない美人だ。小さな体は華奢だが細すぎず、女性らしい柔らかな丸みを帯びている。ノースリーブのワンピースから伸びた手足は白く、滑らかな肌をしていた。
思わず信弘の喉仏が上下する。
しかも彼女は、見た目だけの女ではなかった。会話の切り返しや言葉の端々から、その聡明さや品の良さが窺える。
千穂との会話は楽しく、時間はあっという間に過ぎて夜はどんどんと深まっていった。
「ねぇ、千穂ちゃん。俺、君と話すのすごく楽しかったよ」
「えぇ、私もとても楽しかったです。ご一緒出来てよかった」
「俺もそう思う。 ─── ねぇ。このまま別れてしまうのは、勿体無いないと思わないかい?」
「そうですね。信弘さんのお話、また機会があれば是非お聞きしたいです」
その言葉を聞いた信弘は、千穂の手を握った。体をグッと近付けて、肩と肩を触れ合わせる。
「俺ね。ここの下に、部屋を取ってあるんだけど。せっかくだからそこで、飲み直さない? もっと君と話したい」
「ふふ。話をするだけですか?」
形のいい脚を組み替えながら、千穂が余裕たっぷりに微笑んだ。そして手を信弘の頬に合わせ、耳にそっと囁く。
「どうしたいのか、正直に言って?」
信弘の背に、ゾクリと妖しい震えが走った。堪らず信弘は顔に添わされた手を取り、千穂の目を見つめる。
「君を抱きたい」
己の欲望を口にした瞬間、バシッと激しく信弘の腕は払い退けられた。千穂ではない。第三者によってだ。
「何を、」
するんだ、と言葉を続けようとして、信弘は目を見開いた。
そこにいたのは、キッときつく彼を睨みつけた ─── 妻の明子の姿だった。
「明子、」
「何が君を抱きたい、よ! 信弘さん、あなた何をしたのか分かってるの!? これは不倫よ! 私に対する立派な裏切り行為だわ」
肩を怒らせ、興奮したような明子の声が段々と大きくなってゆく。もう随分遅い時刻で人はほとんどいないとは言え、今のこの状況は好ましくない。
信弘は溜息をついて千穂を振り返り ─── 息を呑んだ。
彼女は、どこにもいなくなっていた。
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