彼との恋は、あくまで仕事で

森井 里留華

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1章.非日常の始まり

叶多さんの様子がおかしい?

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 一晩明けて、次の日の朝。
 今日は朝から妹尾さんと二人のシフトなんだけど……ね?


「どうしたんですか、叶多さん」

「んー、いや、何もないよ」


 はい。はっきり言います。叶多さんの様子がおかしい!

 そもそも、叶多さんは今日はオフの日だ。なのになぜか彼はお店に来て、お客さん然としてコーヒーカップを傾けている。
 まぁでも、ここまでは別にいいんだけどね?

 叶多さんの! 視線が! 突き刺さっております!!!

 え、何で? と訊きたい。と言うか訊いた。
 だけど叶多さんは私の質問に、若干ぼーっとしながら生返事を返すだけだった。いつも優しくて落ち着いている彼にしては珍しいことだ。

 今日は平日だし、今はお店も空いていて叶多さん以外にお客さんはいない。だからチャンスだと思って店内の掃除をしているんだけど、動き回る私の後を追って叶多さんの視線も動き回る。
 ……最初はね? 気のせいかとも思ったんですよ。でもずっとこれはさすがに変だ。


「妹尾さん、叶多さんが変なんです。何か知りませんか?」

「え、ごめん、俺もよく分かんない」


 叶多さんとプライベートでも仲がいいらしい妹尾さんにこっそり訊いてみたけど、不思議そうに首を傾げられる。
 妹尾さんでも分からないとは……! ほんとに、いったいどうしちゃったんだろ。


「でも橘さ、ずっと片桐ちゃん見てるじゃん。片桐ちゃんが何かしたんじゃない? 心当たりないの?」

「うぇっ……やっぱりそう思いますか」


 ひそひそと耳元で囁かれて、私はうっと顔を顰めた。
 心当たりなら大いにある。昨夜の叶多さんの麗しい笑顔と、初めて触れた体温が蘇った。

 うわっ……恥っずい、これ。顔に熱が集まってくるのが分かる。
 思い出して赤面とか、私ちょっとヤバいかも。

 なんてことを考えていると、ふわりと何かが私の肩に触れた。


「あのっ……千穂ちゃん!」

「え? あ、はい何でしょう?」


 ぐいっと私の肩を引いたのは叶多さんだった。
 色素の薄い綺麗な目と目が合って、でもすぐに逸らされる。


「あの、ちょっと……近すぎない?」

「え?」


 躊躇いがちに、でもちょっと拗ねた様に零された言葉に、目が点になる。

 え、近いって……何の話?


「千穂ちゃんは今、俺の仮の恋人……だよね?」

「え? まぁ、そうですね」

「じゃあ、恋人らしくしなきゃいけないよね」

「そうですね」

「他の人と恋人っぽいことをするのは、よくない……と、思います」


 どんどんと尻すぼみになりながら、小さく叶多さんが呟いた。
 微妙に背けたその顔が、若干赤い。


「えっと、叶多さん……?」


 声を掛けると、叶多さんと目が合った。恨めしそうな上目遣いでこちらを見てる。
 くぅっ……つくづく美形ってズルい。叶多さんは年上なのに、上気した頬や潤んだ瞳が可愛いとか思っちゃうじゃないか。
 あれ、でも……何でその表情?

 そんなことを考えていると、隣でポカンと私たちを見ていた妹尾さんが目に入った。
 そして次の瞬間、彼は堪え切れないとでも言いたげに肩を震わせる。


「ぶっ……くく、そういうことかぁ! なるほどねぇ、あの橘が! あーやっば、ちょーぜつ面白い!」

「やめてよ妹尾……」

「そんなの無理だわ! あー、傑作傑作」


 にやにやと妹尾さんが笑って、叶多さんはバツが悪そうに視線を逸らした。でも私は話に付いていけなくて、一人首を傾げる。


「あの、私にも分かる様に説明お願いします」

「いいのいいの、片桐ちゃんはそのままでいてよ!」


 妹尾さんはやけに上機嫌だ。ラチがあかないので叶多さんに目を遣るけど、こちらはこちらで目も合わせてくれなくて困る。
 本当に、いったいどうしたって言うんだろう?

 そのとき、チリリンとドアベルが明るい音をたてた。お客さんだ。


「いらっしゃいませー」


 営業スマイルでにっこり見ると、やって来たお客さんは若い女性だった。
 あれ、見ない顔だ。常連さんがほとんどのこのお店では、何度か来てくれるお客さんの顔は大体覚えてしまう。彼女はきっと初めてのご来店だな。

 店内に一歩入ったお客さんは私や妹尾さんには目もくれず、叶多さんに目を向け───ぱぁっと、その顔を輝かせた。


「橘先輩!」

「え? ───あぁ、向井むかいさん? 久しぶりだね」

「えーなに、橘の知り合い?」

「そう。大学時代の後輩なんだ」


 柔らかい笑顔で頷いた叶多さんの言葉に、改めて私はお客さんを見た。

 うん、ゆるふわ系の小動物っぽい、可愛らしい人だ。思わず守ってあげたくなるような、っていうのを見事に体現してる。
 そしてそして、叶多さんを見る目は……完全にハート。

 いや、ちゃいますやんこれ。叶多さん的にはただの後輩でも、この人絶対叶多さんのこと好きなやつだ───と考えかけた私は、あれっと途中で内心首を傾げた。

 別に叶多さん、“ただの”後輩とか一言も言ってない。
 もしかしたら、ちょっと特別な後輩って可能性もあるよね。そういうときに、わざわざ「特別です」だなんて言わないだろうし。

 叶多さんには学生時代、付き合った人はいなかったみたいだ。それは三条様から譲り受けた報告書で分かっている。きっとモテただろうに、もったいないよね。
 でもだからといって、叶多さんが好意を寄せる相手がいなかったとは限らない。もしかすれば、想い人がいた可能性だって大いにあるわけだ。

 となると、私のとる行動は必然的に決まってくる。
 とりあえずしばらくは様子見かな。叶多さんの彼女のフリをすることで、彼の恋路を邪魔したくない。
 要するに愛子さんの付け入る隙がなくなればいい訳だから、その相手が私である必要は別にないし。

 とか何とか思っていると、叶多さんの後輩───向井さん? と目が合った。
 わわ、可愛い顔してるのに、目がマジ過ぎて怖い!
 待って待って、私、敵じゃないから! 威嚇なんてしないで!

 あまりの迫力に思わず身を引きそうになったとき、私の腰にそっと手が添えられた。その優しい感触に振り返ると、寄り添うように叶多さんが立っている。目が合って微笑みかけられた。


「紹介するね、向井さん。こちらは、お付き合いさせてもらってる片桐千穂ちゃん」

「え、よ、よろしくお願いします」


 あれ、あっさりと“お付き合いしてる”って紹介されちゃった。ということは、彼女は叶多さんの本命ではない……ってことでいいのかな。いいんだよね?


「彼女……?」


 向井さんの可愛らしい唇が呆然としたように言葉を紡ぐ。あぁ、ショック受けてるよこれ。
 だけど叶多さんは気付いているのかいないのか、その柔らかい笑顔を崩すこともなければ私から離れる様子もない。
 なんとなく微妙な空気になったとき、妹尾さんが叶多さんの肩に顎を乗せた。


「橘ぁ、俺のことは紹介してくんねぇの?」

「え……? あぁ、これは同僚の妹尾」

「雑っ!! ひっでぇ」


 明るくて賑やかな声が店内に響きわたる。彼はちらりと視線をこちらに向けて、分からないようにウインクをくれた。どうやら気をきかせてくれたみたい。
 妹尾さんはそのまま能天気な笑みを浮かべて、未だ立ち尽くしている向井さんへ視線を戻した。


「んじゃお客様、お席までご案内しますねー」


 そう言って妹尾さんはさりげなく向井さんの背中に手を添えて、不自然にならない程度に彼女を奥へと促した。さすがです妹尾さん! これぞ空気の読めるムードメーカー!!!
 だけど向井さんは煩わしそうにその手を振り払って、叶多さんに詰め寄った。


「っ……先輩、どうしてっ!? 卒業のときに私が告白したら、『俺は誰とも付き合う気はない』って言ってたじゃないですか!」

「あぁ……そうだったね」

「そうだったね、って……。あのときの先輩、すごく寂しそうな目をしてたんです。だから私がいつか先輩に愛を教えてあげられたらって、」


 そこまで言った向井さんは、両手で顔を覆って「わぁっ」と泣き出してしまった。か、可愛い人の泣いてる姿には胸が痛む……。
 それにしても、愛を教えるって発想がすごい。私じゃ思いつかないや。誰かに教えられるほど、私も愛を知ってるわけじゃないし。

 とか私が一人で微妙にズレたことを考えていると、叶多さんはふっと息をついて僅かに目を伏せた。


「ごめんね、向井さん。あのときの俺は、みんな俺の上辺だけを見てるんだろうなって思ってて……本当の俺を受け入れてもらえるはずがないって考えてたんだ」


 向井さんに向けた叶多さんの言葉に、私は思わず切なくなった。

 これは多分、彼自身のトラウマのことだ。
 今まで誰にも話してこなかったのかな。もしくは、受け入れてもらえなかった過去があるのかもしれない。

 叶多さんの心を思うと胸が痛くて、私はそっと顔を伏せた。
 だけど胸元で両手をぎゅっと握りしめたとき、「でもね」という明るい声が言葉を続けた。


「どんな俺でもいいって言ってくれた人に出会ったんだ。俺も嫌いな俺のことを、ありのままでいいって認めてくれる人に」


 そう言った叶多さんがすごく優しい表情でこっちを見た。愛しくてたまらない、そんな顔。

 え、今のって……もしかしなくても私のこと? いや、確かにそんな感じのことは言ったけども。
 でもだからって、そんな顔で見ないでほしい。これは向井さんを納得させるための“恋人のフリ”なのに、思わず勘違いしてしまいそうになる。
 まったくもう、叶多さんは演技も上手ですね!


「本当の先輩って何ですか……。私にとって橘先輩は、いつも優しくてかっこよくて……ずっと、憧れだったんです。でもあれは、全部嘘だったってことですか?」


 向井さんの涙に震える声に、私はそちらに視線をやった。真っ赤になった目が訴えるように叶多さんを真っ直ぐに見ていて、視界の端で叶多さんは困ったような顔をしていた。
 思わず私は「あの」と口を挟んで、叶多さんと向井さんの間に割り込むように進み出た。向井さんの視線が痛くて刺さる。

 叶多さんの後輩とはいえきっと私より年上で、それに泣いててもすっごく可愛くて、目が合った途端に怯みそうになる。
 うん、私じゃ明らかに役者不足だしただのお邪魔虫だ。

 でも、どうしても我慢できなかった。
 脳裏に浮かぶのは寂しそうに笑った昨夜の叶多さんの表情と、独白のように呟いた「嫌になる」という言葉。
 例え私が世界中から反感を買ってしまうとしても、これだけは言っておきたい。


「嘘、とか、そんなのじゃないと思います。優しくてかっこいいのも、自分を好きになれなくて悩んでるのも、どっちも本当の叶多さんです。意図して人に見せないようにしてたり、自分でも気付かないうちに心の奥に仕舞い込んでたりするのを全部無視して、目に見えてるものだけが真実だなんて……悲しいです」


 知ってる。すごく生意気なことを言ってるって。

 私はただ、叶多さんが見せないよう念入りに鍵をかけて心の奥底に仕舞っておこうとしたものを、無理矢理こじ開けて暴いただけ。それで叶多さんを理解した気になって向井さんを糾弾する権利なんて、私にはきっとない。
 でも叶多さんの辛さや苦しさを知ってしまったから、無視することなんて出来なかった。認めたくない受け入れたくない、そう一番に思っていたのはおそらく叶多さん自身だから。

 向井さんは唇を震わせて大きく目を見開きながら私を見ていた。もう泣いてはいないみたいだけど、その顔を隠すように深く俯いてぽつりと呟く。
 消え入りそうな小さな声だった。


「確かに私は、先輩を全部知ってたわけじゃありません。だけど……じゃあ、どうすればよかったんですか? 先輩は、何にも話してくれなかった」


 その言葉に胸がぎゅっとなる。

 あぁ、この人は本気で───叶多さんのことが、好きなんだ。
 見えない弱さを受け入れられなかったわけじゃなかった。それを見せてもらえなかったことがショックだったんだ。

 「向井さん」と、叶多さんの穏やかな声が彼女の名前を呼んだ。


「ごめんね。俺は、臆病だから。君が俺を慕ってくれているのは知っていたけど……全部を見せるのは、やっぱり出来なかった。騙してたつもりはなかったんだ。でもそれで傷付けてしまったのなら……本当にごめん」


 叶多さんのその声と言葉はすごく真摯に胸に響いた。
 横で聞いていただけの私でもそうなんだから、直接その言葉を向けられた向井さんは余計感じたはずだ。垂れていた長い髪の間からちょっと赤い目が覗いて叶多さんを見ている。いや目だけじゃないな、ほっぺも赤いぞ。

 向井さんはちょっと拗ねたように唇を少し尖らせた。


「私には見せられなくても、その子には見せたんですね」


 私は思わず苦笑した。もう泣いてないし怒ってもないみたいだけど、そう言いたくなる気持ちも分かる。私だって、恋人のフリなんかしてなかったら多分一生知らなかった。
 でも叶多さんは怯んだ様子もなくにっこりと麗しく笑った。なんだか後光が射してる気がする。


「そうだね。もしかしたら、既にちょっと好きだったのかも」

「……つまり、私の完敗ってことですね」


 向井さんはほうっと息をついた後、諦めたように笑った。今日見せた顔の中で、一番綺麗で可愛い表情だった。


「帰ります。今日ほんとは、先輩に会うためにここに来たんで。……結局、告白する前に失恋しちゃったけど」


 そう言って彼女は踵を返して入り口に向かう。
 ドアベルがチリリと鳴って、扉が閉まった。


「あ、待っ……」

「千穂ちゃん?」


 私は思わず反射的に彼女を追いかけていた。後ろから呼ぶ声に「すみません、すぐ戻ります」と告げて外に飛び出す。
 探していた小さな背中は、まだすぐ近くを歩いていた。


「あのっ、ちょっと待って下さい……!」


 走りながら声をかけると、驚いたように向井さんはこっちを振り返った。私は彼女の手前で足を止める。


「どうしたの?」


 向井さんは淡く微笑みながらさりげなく目元を拭った。
 その指先が少し濡れていたこと、目の縁がほんのりと紅くなっていることに私は気が付く。
 でもそのことには敢えて触れず、ただ深く頭を下げた。


「すみませんでした」

「……それは、男を盗ってごめんって、そういう意味?」

「ちがっ」

 
 硬くなった向井さんのその声に思わず顔を上げる。
 でも真っ直ぐに視線を合わせられなくて、またすぐに目を伏せた。


「向井さんの方が、きっと……叶多さんのことを、私よりずっと知ってるはずなのに、偉そうなことを言ってしまったから……」


 何とか伝えたくて気が逸って、言葉が縺れて泣きそうになった。
 でも多分、私が泣くのは、違う……よね。

 本当は、こうやって謝るのもただの自己満足で、私の醜いエゴなんだと思う。
 謝ることで自分の罪悪感を減らして、結局はさらに彼女を傷付けるのかも。
 目を合わせられないのも本当は、彼女に負い目があるからだ。

 向井さんはただ真っ直ぐに叶多さんを想っていた。それに対して私は、ただの偽物の恋人だ。
 彼女と真っ向からやり合う資格なんてないし、同じ土俵にすら登れない。

 せめて泣きそうな顔は見せまいと、さらに深く頭を下げた。


「……んなさぃ……」

「……いいの」


 呟くような声に顔を上げる。
 向井さんは、赤い目を細めて笑った。


「本当は、分かってた。先輩の目がこっちを見てないこと。これからも多分……こっちを見てはくれないこと。それが悔しくて悲しくて寂しくて、先輩が何を思ってるかなんて考えたこともなかった。───そんな私が、あなたに敵うわけがないの、きっと」


 華奢な体が向こうを向いて、向井さんは背中越しに最後の一言を告げた。


「もう、行って。───先輩を、幸せにしてあげてね」


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