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一、蕾

一、蕾 ⑳

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 夜ご飯はビーフシチューとガーリックフランスパンと、チーズフォンデュ。チーズフォンデュは本やテレビで見るが実際には試したことがない。

 いつも菓子パンとかバイトの賄いで適当な食事や、花の苦みを誤魔化すために味の濃いコンビニのお惣菜とか選んでいた。
 というか、あまりに空腹な子ども時代のせいで死ぬほどお腹が空くまで食べなくても平気だし、食事に興味はない。
 ので、目の前で竜仁さんが楽しそうに食事を用意しているのが不思議だった。
 食べればなんでもいいと思うんだけど。
 それより発情期が来る前にもう少し花を摂取しておきたい。
 花は祖母の家にまだ咲いている。あれを食べないと安心できない。
 この男にはもっと花の濃い匂いが欲しい。

「用意できたけど、起き上がれる?」
 自分が無理やり番にしておいて、随分上から目線の発言だ。
「……放っておいていい」
 起き上がれるけど、自由にしてくれる気配がないんだから起き上がるのは億劫だ。

「私に逆らえる立場なんだね」
 吐き気がするぐらいの傲慢に睨みつけるが、彼は楽しそうだ。
 お腹は空いてはいるけど食欲はなかったのに、無理やり口に放り込んだ。

 チーズフォンデュは初めて食べる料理だ。
 金属の棒に野菜を差して、鍋にいれてチーズを絡める行為は楽しかった。僕のガリガリの身体を見た竜仁さんは、栄養士にバランスのいい献立を作らせているらしい。なので今日はとりあえず、楽しい食事重視で、バランスは分からないって申し訳なさそうだった。だけどバランスなんてどうでもいいから、楽しめるからいい。お礼を言うのは癪なので、ただただ夢中でチーズの中に野菜をいれて絡めたけど。

「君、英語もスペイン語もイタリア語も読めるの?」
 僕がテーブルの上に置いてあったチーズのパッケージを読んでいると、驚かれた。
 まあ竜仁さんの家に脅迫しているような両親を持つ僕だ。教養がないと思われても仕方ない。

 食事をしていた竜仁さんが、意外そうに声をあげるから僕は頷いて、口の中でガーリックトーストとビーフシチューを混ぜ合わせて味を楽しんでいた。

 小学校からあまり学校に行かず、家の中の本ばかり読んでいた。表紙が同じで、中身が違う本が何冊かあり、読み比べたり、字幕がついている外国映画を一日中流していて、自然と覚えていった。知識として吸収しないと退屈な世界だったから、きっと脳が必死だったんじゃないかな。空っぽの脳が、スポンジのように吸収してくれた。

「簡単な採用試験を受けてくれたら、君に翻訳の依頼をしたい。流石に私は英語以外完璧じゃなくてね」
「……その顔なのに?」
 人形のような、外国映画から飛び出したような金髪に翡翠色の瞳。
「祖母がイタリア人なんだ。ただ祖母は父を産んですぐ、イタリアに帰ってしまった。偶に届いていた祖母の本は、父や祖父が取り上げられてしまってね。イタリア語を習うことも禁じられ、こっそり学ぶにはどうしても時間も器量も足りなかった」

 苦笑する竜仁さんの顔は寂しそうだった。
 手を伸ばしたら、彼は驚いて顔を綻ばせた。どうして僕はそんなことをしてしまったんだろう。
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