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バイバイ!きれいな、お人形さん!
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ゼノンの唇から紡がれた謝罪の言葉は、この豪奢な応接室の空気の中で、許されざる聖句のように響いた。
リリスの、花が綻ぶような無垢な笑顔が、彼の瞳に焼き付いて離れない。
その笑顔は、彼が信じてきた正義の世界がいかに脆弱で、偽善に満ちたものであるかを無慈悲に照らし出す鏡であった。
彼は片膝をついたまま動けず、その魂は理想と現実の巨大な断崖の狭間で、引き裂かれるような痛みに喘いでいた。
己が身に纏う白銀の鎧は、もはや騎士の誇りではなく、ただ彼の無力さを封じ込める、冷たい鉄の棺桶のように感じられた。
その時、ゼノンの肩に、重く、しかし確かな圧力がかかった。
リアムの手であった。
彼の指は、ゼノンの鎧の継ぎ目に食い込むほど強く、その力は物理的な抑制以上の、有無を言わせぬ意思を伝えていた。
「ゼノン、立て。我々がここにいる理由を忘れたか」
リアムの声は、いつもの軽薄な響きを完全に消し去り、研ぎ澄まされた鋼のように冷たく、硬質であった。
その瞳には、友への気遣いと、それを押し殺すための冷徹な現実認識が、悲しい光を宿して同居している。
「我々は神聖ルミナール帝国の兵士だ。皇帝陛下の命を受け、この地に潜入した帝国の刃だ。我々の慈悲は帝国の民にのみ捧げられるべきものであり、我々の剣は帝国の敵にのみ向けられるべきものだ。それは、魔族も、その血を引く者も、例外ではない。お前がその誓いを忘れたというのなら、私がお前の代わりに、その心臓を凍らせてやろう」
その言葉は、ゼノンの激情に冷水を浴びせかけるには十分だった。
そうだ、我々は兵士なのだ。
騎士である前に、一個の人間である前に、帝国の秩序を守るための部品なのだ。
個人的な感情や、目の前の小さな悲劇に心を揺さぶられることは、任務の遂行を妨げる最も危険な毒に他ならない。
ゼノンは、唇を噛み締め、リアムの力を借りてゆっくりと立ち上がった。
彼の顔からは、先ほどの苦悩の色は消え、再び無表情な鉄の仮面が被せられていた。
しかし、その仮面の下で、彼の魂が血を流していることを、リアムだけは知っていた。
*これでいい、ゼノン。お前のその優しすぎる魂は、この穢れた世界ではいずれお前自身を滅ぼす。ならば私が悪役になろう。お前が騎士であり続けるために、私がお前の心を殺してやる。*
リアムは内心でそう呟きながら、何事もなかったかのようにその手を離した。
フィオナは、その一連のやり取りを、部屋の隅から氷のような無関心さを装って眺めていた。
彼女は二人から数歩分離れ、まるでこの場の劇的な感情の応酬が、自分とは無関係であるかのように振る舞っている。
しかし、その実、彼女の心は静かな嵐に見舞われていた。
リリスが、その小さな手で彼女のベルトに差し込んだ青紫の桔梗の花。
その柔らかな花弁の感触が、今もなお、彼女の意識に焼き付いて離れない。
*憎悪。それは、私の血を巡る炎であり、私という存在を定義する理であった。魔族は絶対悪。その根絶こそが、我が一族の、そして私の、揺るぎなき使命。だというのに、なぜだ。なぜ、この胸を締め付ける、この不快な揺らぎは。*
彼女は、自分の中に生じた矛盾を、魔導師としての分析的な思考で解体しようと試みた。
対象、魔族の幼体。
観察結果、極めて無垢、敵意なし。
付随情報、奴隷契約、商品としての未来。
これらの情報が、彼女の脳内で、これまでの経験則や価値観と衝突し、不協和音を奏でる。
この子供の無垢さは、魔族という種が持つ邪悪さを否定するものではない。
これは単なる例外、あるいは未分化な状態に過ぎない。
そう結論付けようとする一方で、彼女の魂のどこかが、その冷徹な論理を拒絶していた。
ベルトの桔梗が、まるで生き物のように、彼女の体温を奪い、その冷たさで彼女の確信を蝕んでいく。
憎悪という名の不動の星が、その軌道を僅かに、しかし確かに乱し始めていた。
このままでは危険だ。
感情の揺らぎは、判断を鈍らせる。
彼女は自らの心を強制的に閉ざし、視線をリリスから逸らした。
「いやはや、結構なお手前でした、マダム・ロザリア。ですが、我々も長旅の身。そろそろ失礼させていただきましょう」
リアムが、まるで先ほどの緊張など存在しなかったかのように、人好きのする笑顔を顔に貼り付け、芝居がかった口調で言った。
それは、この忌まわしい茶会を終わらせるための、合図であった。
ゼノンもまた、感情のない人形のように小さく頷き、フィオナは無言のまま出口へと視線を向けた。
マダム・ロザリアは、その老獪な目で三人の表情の裏を読んでいたが、それを指摘するほど野暮ではなかった。
「お口に合いましたのなら、何よりでございます。またいつでも、この楽園の扉は開いておりますわ。次にお越しの際は、ぜひ、当園が誇る極上の花をご賞味くださいませ」
その言葉には、侮辱と誘惑が巧みに織り交ぜられていた。
三人は、その言葉を黙殺し、マダム・ロザリアに形式的な会釈をすると、足早に部屋を後にした。
リリスは、急に去っていく三人を、不思議そうに見上げていた。
そして、扉が閉まる直前、彼女はゼノンに向かって、その小さな手を精一杯に振った。
「バイバイ!きれいな、お人形さん!」
その声が、ゼノンの背中に、見えない棘のように突き刺さった。
「バラ園」を一歩出ると、花街の喧騒と、午後の強い陽光が彼らを現実に引き戻した。
香水の甘ったるい匂い、嬌声、そして男たちの下卑た笑い声。
その全てが、先ほどまでいた応接室の偽りの静寂とは対照的に、生々しい現実感を伴って彼らに襲いかかった。
三人は誰一人として言葉を発することなく、ただ重い沈黙を引きずりながら、この欲望の迷宮を抜けるために歩き続けた。
彼らの足取りは、まるで罪人のそれのように重く、その表情は石のように硬い。
太陽の光は、彼らの纏う帝国の紋章を眩しく照らし出すが、その光は、彼らの心に深く落ちた影を払うことはできなかった。
やがて、花街の猥雑な区域を抜け、首都のより開けた大通りに出た。
人々の往来は多いが、その空気は幾分か清浄に感じられた。
その時、それまで沈黙を守っていたゼノンが、まるで魂の底から絞り出すかのように、ぽつりと呟いた。
「…リアム。もし、我々が、大陸から全ての魔族を根絶やしにできたとしたら。その時、このような悲劇は、本当に無くなるのだろうか。我々が求めてやまない、真の平和というものは、そうすれば訪れるのだろうか」
それは、彼の理想主義が、打ち砕かれた現実を前にして発した、悲痛な問いであった。
それは、彼の信じてきた正義そのものに対する、根源的な疑念の表明であった。
フィオナは、その問いに足を止め、ゼノンの背中を見つめた。
彼女自身もまた、その答えを知りたいと願っていた。
リアムは、歩みを止めずに、ただ前を見据えたまま、短く、そして投げやりに答えた。
「さあな」
その一言には、諦念、疲労、そして友をこれ以上苦しませたくないという不器用な優しさが、複雑に混じり合っていた。
彼は、ゼノンの問いの重さを理解していた。
しかし、その問いに答えなど存在しないことも、また知っていたのだ。
彼は、無理やりこの重苦しい空気を断ち切るように、少しだけ明るい声を作って言った。
「任務は終わった。余計な感傷は捨てろ。さあ、帰ろう。我々の帰るべき場所へ」
その言葉は、彼ら三人の運命を再び一つの道へと収束させる、冷たい号令であった。
彼らの背後で、ドラコニア共和国の首都の街並みが、夕陽に染まり始めていた。
その光景は、まるで巨大な墓標群が、静かに彼らを見送っているかのようであった。
リリスの、花が綻ぶような無垢な笑顔が、彼の瞳に焼き付いて離れない。
その笑顔は、彼が信じてきた正義の世界がいかに脆弱で、偽善に満ちたものであるかを無慈悲に照らし出す鏡であった。
彼は片膝をついたまま動けず、その魂は理想と現実の巨大な断崖の狭間で、引き裂かれるような痛みに喘いでいた。
己が身に纏う白銀の鎧は、もはや騎士の誇りではなく、ただ彼の無力さを封じ込める、冷たい鉄の棺桶のように感じられた。
その時、ゼノンの肩に、重く、しかし確かな圧力がかかった。
リアムの手であった。
彼の指は、ゼノンの鎧の継ぎ目に食い込むほど強く、その力は物理的な抑制以上の、有無を言わせぬ意思を伝えていた。
「ゼノン、立て。我々がここにいる理由を忘れたか」
リアムの声は、いつもの軽薄な響きを完全に消し去り、研ぎ澄まされた鋼のように冷たく、硬質であった。
その瞳には、友への気遣いと、それを押し殺すための冷徹な現実認識が、悲しい光を宿して同居している。
「我々は神聖ルミナール帝国の兵士だ。皇帝陛下の命を受け、この地に潜入した帝国の刃だ。我々の慈悲は帝国の民にのみ捧げられるべきものであり、我々の剣は帝国の敵にのみ向けられるべきものだ。それは、魔族も、その血を引く者も、例外ではない。お前がその誓いを忘れたというのなら、私がお前の代わりに、その心臓を凍らせてやろう」
その言葉は、ゼノンの激情に冷水を浴びせかけるには十分だった。
そうだ、我々は兵士なのだ。
騎士である前に、一個の人間である前に、帝国の秩序を守るための部品なのだ。
個人的な感情や、目の前の小さな悲劇に心を揺さぶられることは、任務の遂行を妨げる最も危険な毒に他ならない。
ゼノンは、唇を噛み締め、リアムの力を借りてゆっくりと立ち上がった。
彼の顔からは、先ほどの苦悩の色は消え、再び無表情な鉄の仮面が被せられていた。
しかし、その仮面の下で、彼の魂が血を流していることを、リアムだけは知っていた。
*これでいい、ゼノン。お前のその優しすぎる魂は、この穢れた世界ではいずれお前自身を滅ぼす。ならば私が悪役になろう。お前が騎士であり続けるために、私がお前の心を殺してやる。*
リアムは内心でそう呟きながら、何事もなかったかのようにその手を離した。
フィオナは、その一連のやり取りを、部屋の隅から氷のような無関心さを装って眺めていた。
彼女は二人から数歩分離れ、まるでこの場の劇的な感情の応酬が、自分とは無関係であるかのように振る舞っている。
しかし、その実、彼女の心は静かな嵐に見舞われていた。
リリスが、その小さな手で彼女のベルトに差し込んだ青紫の桔梗の花。
その柔らかな花弁の感触が、今もなお、彼女の意識に焼き付いて離れない。
*憎悪。それは、私の血を巡る炎であり、私という存在を定義する理であった。魔族は絶対悪。その根絶こそが、我が一族の、そして私の、揺るぎなき使命。だというのに、なぜだ。なぜ、この胸を締め付ける、この不快な揺らぎは。*
彼女は、自分の中に生じた矛盾を、魔導師としての分析的な思考で解体しようと試みた。
対象、魔族の幼体。
観察結果、極めて無垢、敵意なし。
付随情報、奴隷契約、商品としての未来。
これらの情報が、彼女の脳内で、これまでの経験則や価値観と衝突し、不協和音を奏でる。
この子供の無垢さは、魔族という種が持つ邪悪さを否定するものではない。
これは単なる例外、あるいは未分化な状態に過ぎない。
そう結論付けようとする一方で、彼女の魂のどこかが、その冷徹な論理を拒絶していた。
ベルトの桔梗が、まるで生き物のように、彼女の体温を奪い、その冷たさで彼女の確信を蝕んでいく。
憎悪という名の不動の星が、その軌道を僅かに、しかし確かに乱し始めていた。
このままでは危険だ。
感情の揺らぎは、判断を鈍らせる。
彼女は自らの心を強制的に閉ざし、視線をリリスから逸らした。
「いやはや、結構なお手前でした、マダム・ロザリア。ですが、我々も長旅の身。そろそろ失礼させていただきましょう」
リアムが、まるで先ほどの緊張など存在しなかったかのように、人好きのする笑顔を顔に貼り付け、芝居がかった口調で言った。
それは、この忌まわしい茶会を終わらせるための、合図であった。
ゼノンもまた、感情のない人形のように小さく頷き、フィオナは無言のまま出口へと視線を向けた。
マダム・ロザリアは、その老獪な目で三人の表情の裏を読んでいたが、それを指摘するほど野暮ではなかった。
「お口に合いましたのなら、何よりでございます。またいつでも、この楽園の扉は開いておりますわ。次にお越しの際は、ぜひ、当園が誇る極上の花をご賞味くださいませ」
その言葉には、侮辱と誘惑が巧みに織り交ぜられていた。
三人は、その言葉を黙殺し、マダム・ロザリアに形式的な会釈をすると、足早に部屋を後にした。
リリスは、急に去っていく三人を、不思議そうに見上げていた。
そして、扉が閉まる直前、彼女はゼノンに向かって、その小さな手を精一杯に振った。
「バイバイ!きれいな、お人形さん!」
その声が、ゼノンの背中に、見えない棘のように突き刺さった。
「バラ園」を一歩出ると、花街の喧騒と、午後の強い陽光が彼らを現実に引き戻した。
香水の甘ったるい匂い、嬌声、そして男たちの下卑た笑い声。
その全てが、先ほどまでいた応接室の偽りの静寂とは対照的に、生々しい現実感を伴って彼らに襲いかかった。
三人は誰一人として言葉を発することなく、ただ重い沈黙を引きずりながら、この欲望の迷宮を抜けるために歩き続けた。
彼らの足取りは、まるで罪人のそれのように重く、その表情は石のように硬い。
太陽の光は、彼らの纏う帝国の紋章を眩しく照らし出すが、その光は、彼らの心に深く落ちた影を払うことはできなかった。
やがて、花街の猥雑な区域を抜け、首都のより開けた大通りに出た。
人々の往来は多いが、その空気は幾分か清浄に感じられた。
その時、それまで沈黙を守っていたゼノンが、まるで魂の底から絞り出すかのように、ぽつりと呟いた。
「…リアム。もし、我々が、大陸から全ての魔族を根絶やしにできたとしたら。その時、このような悲劇は、本当に無くなるのだろうか。我々が求めてやまない、真の平和というものは、そうすれば訪れるのだろうか」
それは、彼の理想主義が、打ち砕かれた現実を前にして発した、悲痛な問いであった。
それは、彼の信じてきた正義そのものに対する、根源的な疑念の表明であった。
フィオナは、その問いに足を止め、ゼノンの背中を見つめた。
彼女自身もまた、その答えを知りたいと願っていた。
リアムは、歩みを止めずに、ただ前を見据えたまま、短く、そして投げやりに答えた。
「さあな」
その一言には、諦念、疲労、そして友をこれ以上苦しませたくないという不器用な優しさが、複雑に混じり合っていた。
彼は、ゼノンの問いの重さを理解していた。
しかし、その問いに答えなど存在しないことも、また知っていたのだ。
彼は、無理やりこの重苦しい空気を断ち切るように、少しだけ明るい声を作って言った。
「任務は終わった。余計な感傷は捨てろ。さあ、帰ろう。我々の帰るべき場所へ」
その言葉は、彼ら三人の運命を再び一つの道へと収束させる、冷たい号令であった。
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