奴隷魔族の私に、幸せは訪れない〜救いを求めた少女が、世界の敵になるまで〜

鹿の子

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花は、咲けば、摘まれる

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花は、咲けば、摘まれる。

それは、この世界の、あまりにも自明な理であった。

十二年の歳月という、長大にして束の間の時間が、ドラコニア共和国の光と影の上を音もなく流れ去った。

かつて白銀の騎士の心を揺さぶった無垢なる幼子は、十二年の時を経て、その蕾を綻ばせ、誰の目をも惹きつける、一輪の美しい花へと成長を遂げていた。

リリス、その名は薔薇色の頬と、空の青を閉じ込めた瞳を持つ少女の代名詞となった。

彼女の世界は、今なお「バラ園」という閉ざされた庭園の中だけで完結していた。

そこは陽光に満ち、色とりどりの花が咲き誇り、優しい母がいつも微笑んでくれる、幸福な楽園。

母であるアイリスが夜ごと客の寝台で何を「売って」いるのか、彼女は知る由もなかった。

彼女にとって母は、この庭で最も美しい花を、訪れる人々に分け与える、心優しき人気者であった。

その無知は、彼女を守る最後の薄皮であったが、それはまた、やがて来る残酷な真実を、より鋭利な刃へと変えるための、悪意に満ちた猶予期間でもあった。

運命がその仮面を剥ぎ取る日は、何の前触れもなく訪れた。

それは、むせ返るような夏の午後のことであった。

アイリスは、女主人の部屋に新しいリネンを届けに行った際、偶然にも、扉の向こうから漏れ聞こえるマダム・ロザリアの冷たい声を耳にしてしまったのだ。

「…ええ、バーンズ子爵様。ご安心くださいませ。あの子、リリスは、実に素晴らしい蕾に育ちました。初摘みには、これ以上ない極上の品でございましょう。来月の満月の夜には、正式にバーンズ子爵様のもとへお届けする手筈となっております。契約通り、代金は前受けした分で結構ですわ…」

その言葉の一つ一つが、灼熱の杭となってアイリスの鼓膜を、そして魂を貫いた。

契約。

自由。

その二つの言葉が、彼女の脳内で空虚に反響する。

十二年間、彼女がその身を削り、魂を汚し、血の涙を流して信じ続けた唯一の希望。

リリスのための、自由への道。

それが、初めから存在しない、ただ彼女を縛り付けるための、甘美な嘘であったという事実。

裏切り。

その認識が、彼女の内に辛うじて残っていた理性の糸を、音を立てて断ち切った。

世界が、歪む。

彼女の瞳から光が消え、そこには地獄の業火よりもなお暗く、深い、絶望の闇だけが宿った。

*ああ…あああああ…!嘘だ…嘘だと言ってくれ…!私のリリスが…あの子が、私と同じ…いや、それ以上の地獄に…?許さない…許してたまるか…!この女も、あの貴族も、この世界そのものも…!*

アイリスの精神は、もはや正常な思考を維持できなかった。

彼女は、近くの客室に転がり込むと、そこにいた肥え太った商人の喉元に、化粧台にあった果物ナイフを突きつけた。

「動くな!動けば殺す!」

その声は、もはや彼女のものではなかった。

それは、追い詰められた獣が発する、最後の咆哮であった。

彼女は、震える手でランプを掴むと、それを高価なカーテンへと投げつけた。

炎は、まるで彼女の絶望を喰らうかのように、一瞬にして燃え広がり、乾いた木材を舐め、壁紙を焦がし、この偽りの楽園を真実の地獄へと変え始めた。

「リリス!リリス、どこにいるの!逃げるのよ!ここから、今すぐ…!」

彼女は叫びながら、人質を引きずり、炎と煙の中を娘の姿を探して突き進む。

その目的は、もはや復讐ですらなかった。

ただ、この身を犠牲にしてでも、娘を、彼女の唯一の光を、この燃え盛る地獄から解き放つこと。

それだけが、彼女に残された最後の行動原理であった。

だが、その狂気の沙汰を、冷たい視線で見下ろす者がいた。

マダム・ロザリアである。

彼女は、混乱の極みにある館の中心で、まるで舞台上の悲劇を鑑賞するかのように、静かに佇んでいた。

「…愚かな。与えられた幸福に満足しておればよいものを。自ら、最後の慈悲を蹴り飛ばすとは」

彼女は、その皺深い唇で、呪いの言葉を紡いだ。

それは、隷属の契約を司る、古の魔術の詠唱であった。

「汝の血肉は我が所有。汝の魂は我が枷の中。契約の名において命ず。その四肢の自由を奪い、意識を闇へと沈めよ」

その言葉が発せられた瞬間、アイリスの首筋に刻まれた奴隷契約の印が、内側から焼かれるような灼熱を発した。

「ぐ…ぁ…ッ!?」

ナイフが、力なく床に落ちる。

彼女の全身から力が抜け、その身体は糸の切れた人形のように崩れ落ちた。

その薄れゆく意識の中で、彼女が見た最後の光景は、煙の向こうで、何が起きているのか分からず、ただ怯えて立ち尽くす、愛しい娘の姿であった。

「…ママ…?」

リリスの世界は、理解を超えた混沌に包まれていた。

ついさっきまで、庭で蝶を追いかけていたはずだった。

それがなぜ、こんなにも熱く、煙たく、そして恐ろしい音に満ちているのだろう。

優しいはずの母が、血走った目で叫び、そして倒れた。

周りの大人たちは、悲鳴を上げて逃げ惑っている。

彼女が楽園と信じていた場所が、見たこともない恐ろしい顔をしていた。

「ママ…!しっかりして、ママ…!」

彼女は倒れた母に駆け寄ろうとした。

だが、その小さな身体は、背後から伸びてきた無骨な腕によって、いとも容易く捕らえられた。

ドラコニア共和国の衛兵であった。

「火付けの犯人の娘だな!確保しろ!」

抵抗する術など、彼女は知らない。

逃げる方法も、助けを求める言葉も、彼女の世界には存在しなかったのだ。

ただ、乱暴に腕を掴まれ、引きずられていく。

その視線の先で、彼女が生まれ育った「バラ園」が、巨大な松明のように、夜空を赤く焦がしていく。

美しいはずのバラの庭が、炎に舐められ、黒い骸を晒していく。

それは、彼女が信じてきた全てのものが、偽りであり、虚構であったことを告げる、黙示録の光景であった。

彼女の青い瞳から、涙という名の真実が、初めて流れ落ちた。

それは、幻想の世界が終わり、地獄の扉が開いたことを示す、残酷な合図であった。

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