奴隷で魔族である私に、幸せは訪れない

竹の子筍

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自由

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錆びついた鉄扉を押し開けると、湿った潮風が地下の淀んだ空気を吹き飛ばした。

リリスは眩しさに目を細め、エヴァの背中に隠れるようにして外の世界を覗き見た。

そこは薄暗い倉庫の中だったが、天井近くの採光窓から差し込む朝の光が、舞い上がる塵を白く照らし出していた。

「着いたわ。ここなら、もう大丈夫」

エヴァが肩の力を抜き、深く息を吐き出した。

その横顔には、疲労の色と共に、張り詰めた糸が緩んだような安堵が浮かんでいた。

ギルド職員たちが素早く周囲を確認し、合図を送る。

後ろに続く子供たちが、怯えた様子で一塊になりながら、泥だらけの足で倉庫の床を踏んだ。

「船は手配済みです。出航まであと十分」

職員の一人が短く告げ、木箱の影に隠された通用口を指し示した。

その先には、波止場に係留された中型の商船が見える。

正規の客船ではなく、荷物に紛れて人を運ぶための非正規ルートだ。

エヴァは子供たちの方へ向き直り、膝をついて視線を合わせた。

「いい? よく聞きなさい。あなたたちは、これから遠い場所へ行くの」

子供たちが不安げに顔を見合わせる。

「どうして……? お家に帰れないの?」

一番年下の少女が、震える声で尋ねた。

「ええ。ごめんなさいね。でも、ここにいたら、悪い人たちに捕まってしまうの」

エヴァは言葉を選びながら、しかし毅然とした口調で続けた。

「あなたたちは、あの煤の底の事故を生き残った。でも、軍隊の人たちは、あなたたちが何か特別な病気にかかっているんじゃないかと疑っているの。だから、捕まえて閉じ込めようとする。……そんなの、嫌でしょう?」

「嫌だ! 注射とか、怖いことされるの嫌だ!」

少年が叫び、他の子供たちも同意するように首を横に振った。

「だから、逃げるの。海の向こうの、安全な国へ。そこで、新しいお父さんやお母さんが待っているわ」

それは半分が真実で、半分が優しい嘘だった。

彼らを待っているのは孤児院か、あるいは運が良ければ養親だが、少なくとも実験台にされるよりは遥かにマシな未来だ。

職員たちに促され、子供たちは次々と通用口を抜けていく。

彼らは何度も振り返り、エヴァに手を振った。

エヴァもまた、彼らの姿が見えなくなるまで、祈るように手を振り続けた。

倉庫に静寂が戻ると、エヴァはゆっくりとリリスに向き直った。

「……リリス。あなたには、別の話があるの」

エヴァの声のトーンが、先ほどよりも低く、真剣なものに変わった。

リリスは背筋を伸ばし、主人の命令を待つ姿勢をとった。

自分もあの子供たちのように、どこかへ送られるのだろうか。

あるいは、ここで「処分」されるのだろうか。

エヴァは一歩近づき、リリスの首元に巻かれた包帯に、そっと指を触れた。

その下には、あの忌まわしい「黒い薔薇の刻印」が隠されている。

「あなたのその首輪……契約印のことよ。この国にいる限り、その魔法は解けない。バーンズ家や、軍の魔導師に見つかれば、あなたは強制的に連れ戻されるわ」

リリスの体がびくりと強張る。

連れ戻される。

あの地獄へ。

母が死に、自分が壊された場所へ。

「でも、国外なら話は別よ。特に、海を越えた先にある神聖ルミナール帝国なら」

帝国。

その名を聞いた瞬間、リリスの脳裏に、白銀の鎧を纏った男の姿がフラッシュバックした。

ゼノン。

自分を見捨てた英雄。

「帝国の法は、この国の奴隷契約を認めていない。それに、あそこには強力な結界があるから、遠隔での魔法干渉も弱まるの。つまり……あそこへ行けば、あなたは自由になれる可能性がある」

エヴァは、リリスの瞳を覗き込んだ。

「もちろん、リスクはあるわ。身分を隠し、過去を捨てて生きなければならない。でも、ここにいるよりはずっと……」

リリスは唇を噛んだ。

自由。

その言葉の響きは、甘美すぎて現実味がない。

けれど、エヴァの言う「連れ戻される」という恐怖は、あまりにもリアルだった。

「……私は……ご主人様の、仰る通りに……」

リリスは消え入りそうな声で答えた。

彼女には選択の意志がない。

ただ、目の前の温かい手にしがみつくことしかできないのだ。

エヴァは悲しげに眉を寄せ、そして決意を込めて首を振った。

「いいえ、リリス。命令じゃない。これは提案よ。……でもね、私には一つだけ、譲れないことがあるの」

エヴァは少し疲れたように微笑んだ。

「リリス。私はあなたを、帝国の国境近くにある街、サラスのギルドまで送るわ。そこには私の古い友人がいる。彼女なら、きっとあなたを匿ってくれる」

「ご主人様も……一緒ですか?」

リリスがおずおずと尋ねる。

「ええ。一緒よ。あなた一人を、狼の群れの中に放り出したりはしない」

その言葉を聞いて、リリスの肩から力が抜けた。

帝国がどれほど恐ろしい場所であっても、この温かい手が共にあるなら。

「……はい。行きます。ご主人様が、そう望むなら」

「エヴァよ」

エヴァは苦笑して、リリスの手を引いた。

「さあ、行きましょう。軍がここを嗅ぎつける前に」

二人は地下倉庫の裏口から、朝日が照らす路地裏へと足を踏み出した。

リリスは一度だけ振り返り、遠くに見える海を眺めた。

きらめく水面。

その向こうには、自由があるという。

だが、今の彼女にとっての自由とは、首輪がなくなることではない。

この温かい手の持ち主が、自分を見捨てずにいてくれること。

その一点のみが、彼女の生きる理由となっていた。

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