奴隷魔族の私に、幸せは訪れない〜救いを求めた少女が、世界の敵になるまで〜

鹿の子

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この手だけは、離したくない

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地下倉庫の冷たい闇から、二人は朝日が差し込む路地裏へと滑り出た。

潮の香りが濃密に空気を満たし、遠くで市場の喧騒が生命の鼓動のように響いている。

エヴァはリリスの手を引き、まるで影のように人の気配がない廃屋へと身を隠した。

朽ちかけた扉を静かに閉めると、彼女は壁際に隠されていた大きな革袋を引き寄せた。

「これを着るのよ。私たちはこれから、薬草を売りに来た旅の商人とその従者になる」

エヴァは袋から、簡素だが清潔な亜麻色のワンピースと、深い森の色をしたフード付きのケープを取り出した。

それは、ごく普通の、名もなき平民が纏う衣服だった。

*服……?*

リリスは差し出されたそれを、理解できない物体を見るかのように見つめた。

彼女が知る衣服は二種類しかない。

体にぴったりと張り付き、肉体の曲線を強調することで商品価値を示す「娼婦のドレス」か、あるいは所有者の紋章が焼印され、人間としての尊厳を剥奪する記号である「奴隷の囚人服」だ。

自分で服を着るという行為も、その概念さえも、彼女の経験には存在しなかった。

それは常に、マダムか、客か、看守によって「着せられる」ものだったからだ。

リリスは微動だにせず、ただ立ち尽くす。

どうすればいいのか分からない。

この布を、体にどう纏えばいいのか。

エヴァの意図を測りかね、彼女の顔色を窺う。

これは新たな役割を与えるための儀式なのだろうか。

それとも、理解力を試すための拷問の一種なのだろうか。

エヴァはリリスの戸惑いを即座に察し、小さく息を吐いた。

その瞳に浮かんだのは、怒りでも焦りでもなく、ただ深い、海のような哀れみだった。

「ごめんなさい、怖がらせたわね。大丈夫。私が手伝うわ」

エヴァはリリスの背後に回り、まるで壊れ物を扱うかのように、その肩にそっと触れた。

そして、昨日着せられたばかりの、少し大きすぎる寝間着の紐をゆっくりと解いていく。

肌に直接触れる、自分以外の誰かの指先の温度。

それは暴力的な接触とは全く異質の、穏やかで、ためらいがちな温もりだった。

リリスの体が硬直する。

母アイリスが死んで以来、誰かにこのように触れられたことはなかった。

エヴァは手早く寝間着を脱がせると、亜麻のワンピースをリリスの頭から優しく被せた。

布地が肌を擦る感触は、媚びを売るための絹や、罪を刻むための粗布とは違う、素朴で飾り気のないものだった。

「腕を上げて。そう、上手よ」

囁くような声に従い、リリスは人形のように腕を動かす。

エヴァは最後にケープを羽織らせ、フードを目深に被せた。

「髪も、整えましょうね」

エヴァは懐から木製の櫛を取り出し、もつれたリリスの銀髪を、根元から毛先へと丁寧に梳かしていく。

櫛が頭皮を優しく刺激するたびに、リリスの背筋を奇妙な痺れが駆け抜けた。

それは痛みに備える条件反射と、未知の心地よさが混ざり合った、矛盾した感覚だった。

*なぜ……?*

リリスの心に、答えの出ない問いが渦巻く。

*なぜ、この人は、ここまでしてくれるのだろうか。私は汚れていて、無価値で、存在するだけで罪なのに。こんな母親のような、姉のような優しさは、私が受けていいものではない。これは罰だ。いつか必ず、この温もりの代償として、耐え難い苦痛が与えられるに違いない。*

恐怖と罪悪感が、甘美な安らぎの底から毒のように滲み出してくる。

リリスは唇を固く結び、その矛盾した感情の嵐に耐えた。

「さあ、行きましょう。市門が閉鎖される前に、この雑踏に紛れて通り抜けるわ」

再び手を引かれ、リリスは廃屋の外へと一歩踏み出した。

その瞬間、世界が爆発した。

声、音、匂い、色彩。

あらゆる情報が津波のように押し寄せ、リリスの五感を叩きのめす。

威勢のいい魚売りの男の怒鳴り声。

焼きたてのパンの甘く香ばしい匂い。

色とりどりの果物を並べた露店。

甲高い笑い声を上げて走り回る子供たち。

荷馬車を引く馬のいななきと、蹄が石畳を打つ硬い音。

これが「普通の朝」。

これが「日常」。

だが、リリスにとって、それは理解不能な混沌であり、悪夢の変奏曲だった。

男の叫び声は、客の欲望に満ちた催促に聞こえる。

子供たちの無邪気な笑顔は、これから始まる嗜虐的な遊戯の序曲に思える。

行き交う人々の視線は、品定めするような値踏みの視線に重なり、肌を焼く。

彼女は自分の周りに見えない壁があるのを感じた。

壁の向こう側で、人々は「生きている」。

笑い、話し、怒り、泣いている。

しかし、自分はその輪の外にいる。

自分は生きていない。

ただ、呼吸をしているだけの肉の塊だ。

エヴァに手を引かれ、人波をかき分けるように進む。

リリスはフードを目深に被り、ガラス玉のような瞳で、この狂った万華鏡のような世界をただ見つめていた。

「しっかり捕まっていて、リリス。離れないで」

エヴァの声が、喧騒の中でかろうじて聞こえる。

彼女はリリスを庇うようにして、人々の肩や荷物を避けながら、巧みに進路を切り開いていく。

その背中は小さく、頼りなげに見えるのに、リリスを守る防波堤のように、少しも揺るがなかった。

リリスは、エヴァのケープの裾を、溺れる者が藁を掴むように強く握りしめた。

この人の手だけが、この狂った世界で唯一、信じられるものだった。


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