奴隷魔族の私に、幸せは訪れない〜救いを求めた少女が、世界の敵になるまで〜

鹿の子

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労働者

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数週間に及ぶ、息を潜めた旅路だった。

商隊の荷馬車の隅で身を寄せ合い、星明りを頼りに国境の山脈を越え、帝国の巡回兵の影に怯えながら森を抜け、ようやく二人は神聖ルミナール帝国の辺境都市サラスに辿り着いた。

ドラコニア共和国のそれとは異なり、帝国の空気は乾燥し、厳格な秩序の匂いがした。

石造りの建物は高く、道行く人々の顔には商業国家の陽気さではなく、軍事国家の民としての硬質な誇りが刻まれている。

リリスにとって、この街は理解を超えた異世界そのものであった。

彼女はエヴァのケープの裾を固く握りしめ、その背後に隠れるようにして、巨大な城門をくぐった。

衛兵の鋭い視線が突き刺さるたびに、彼女の体は条件反射で強張り、呼吸が浅くなる。

だが、エヴァが帝国の通行許可証を提示すると、彼らは無言で道を開けた。

そのやり取りの一つ一つが、リリスにとっては奇跡のように思えた。

「着いたわ。ここが、私の友人がいるギルドよ」

エヴァが指し示したのは、街の中心から少し外れた職人街の一角に立つ、巨大な鉄槌の看板を掲げた建物だった。

その扉は木ではなく分厚い鉄でできており、絶え間なく内部から響いてくる金属音と地響きが、ここが尋常な場所ではないことを示している。

ギルドの名は「鉄槌と坩堝」。

それは、治癒師や魔導師ではなく、武骨なドワーフの鍛冶師たちが集う、汗と鉄と炎の砦であった。

重い鉄扉を押し開けると、灼熱の空気が二人の頬を撫でた。

内部は巨大な洞窟のようだった。

薄暗い空間のあちこちで炉の炎が赤々と燃え盛り、屈強なドワーフたちが上半身裸で巨大な金床に向かい、リズミカルに槌を振り下ろしている。

火花が滝のように飛び散り、金属を打つ甲高い音が鼓膜を揺さぶった。

壁にはおびただしい数の武器や防具が掛けられ、鈍い鋼色の光を放っている。

*ここは……何?*

リリスの脳裏に、かつて母を焼いた炎の記憶が蘇り、喉がひりついた。

ここは地獄の工房か、それとも処刑場か。

彼女はエヴァの背後で身を縮こまらせ、恐怖に震えた。

「よう、エヴァ。ずいぶんと煤けた顔をしてるじゃないか。お前さんらしくもねえ」

その声は、熱気と騒音の中でも明瞭に響いた。

声の主は、一番奥にある最も大きな炉の前に立つ、一人のドワーフの女性だった。

他の男たちと比べても背は低いが、その肩幅は広く、編み込まれた赤銅色の髪と同じ色の髭が顎から豊かに垂れている。

その腕は丸太のように太く、握られた巨大な戦鎚は、彼女の体の一部であるかのように馴染んでいた。

「ギルダ……久しぶりね」

エヴァの声には、安堵と疲労が滲んでいた。

ギルダ・ブロンズハンマー。

このギルドの主にして、エヴァの数少ない旧友の一人。

彼女は燃え盛る炉から取り出したばかりの、赤熱した剣身を無造作に冷却水に突き立てると、けたたましい蒸気音を立てながらエヴァの方へ歩み寄った。

ギルダの鋭い瞳が、まずエヴァのやつれた顔を、次にその背後で怯えるリリスの姿を捉えた。

その瞳には、一瞬で全てを察したかのような、深い理解の色が浮かんだ。

「……なるほどな。厄介事をしょい込んできたってわけかい」

彼女はそれ以上何も聞かず、顎で奥の部屋を指し示した。

「立て込んでる話は、酒の席でするもんだ。こっちへ来な。熱いエールくらいは出してやる」

ギルドの喧騒が嘘のような、静かな私室だった。

壁には設計図や鉱石の見本が所狭しと飾られ、部屋の中央には重厚なオーク材のテーブルが置かれている。

ギルダは大きなジョッキに黒ビールを、エヴァとリリスの前には温かいミルクを置くと、どかりと椅子に腰を下ろした。

「で、何があった? お前さんがそんな幽霊みたいな小娘を連れて、国境を越えてくるなんざ、よっぽどのことだろう」

エヴァは言葉を選びながら、ドラコニアで起きたこと、そしてリリスの境遇をかいつまんで話した。

ギルダは黙って聞いていたが、エヴァがリリスの首に巻かれた包帯に触れた時、その眉をひそめた。

「見せてみな」

エヴァはリリスに頷きかけ、ゆっくりと包帯を解いた。

白い首筋に刻まれた、「黒い薔薇の刻印」。

それは、バーンズ家の紋章と、複雑な魔法陣が絡み合った、禍々しくも精緻な芸術品のような呪いの印だった。

ギルダはテーブルに乗り出すようにして、その刻印を食い入るように見つめた。

彼女は懐から単眼鏡を取り出すと、魔法陣の微細な術式を一つ一つ追っていく。

その顔から、先ほどのぶっきらぼうな態度は消え、古代のルーンを解読する学者のような真剣な表情に変わっていた。

長い沈黙の後、ギルダは深く、重いため息をついた。

「……こいつは厄介だ。いや、厄介なんて生易しいもんじゃねえ」

彼女は単眼鏡を置き、疲れたように額を押さえた。

「ドラコニアの貴族が使う、最高位の隷属契約だ。ただの所有印じゃねえ。術式に魂の根が絡んでやがる。こいつは、所有者の命令一つで、この子の魂そのものを縛り、砕くことができる代物だ」

エヴァの顔から血の気が引いていく。

「解除は……できないの?」

「無理だ」

ギルダは即答した。

その声には、一切の希望を断ち切る響きがあった。

「物理的に焼き切ろうとすれば、連動して魂が焼かれる。解呪魔法をかければ、術式が暴走して精神を破壊するだろう。この契約を完全に無効化するには、術者本人……つまり、クソ貴族を殺して、その血で清めの儀式を行うしかねえ。だが、そいつは今、海の向こうだ」

絶望。

その一言が、部屋の空気を鉛のように重くした。

エヴァは唇を噛みしめ、言葉を失う。

リリスは、二人の会話の意味を半分も理解できていなかったが、ギルダの口から放たれた「無理だ」という言葉の響きと、エヴァの表情から、自分の最後の望みが打ち砕かれたことだけは悟った。

ああ、やはり。

自分はどこまで行っても、奴隷なのだ。

自由など、最初からどこにも存在しなかったのだ。

光を失ったガラス玉のような瞳から、感情のない涙が一筋、静かに流れ落ちた。

その涙を見て、ギルダは忌々しげに舌打ちし、ジョッキの黒ビールを呷った。

「……だがまあ、今すぐどうこうなるわけじゃねえ。帝国の結界のおかげで、遠隔からの強制力はかなり弱まってるはずだ。所有者が直接この子の目の前に現れねえ限り、魂を砕かれる心配はねえだろう」

彼女は空になったジョッキをテーブルに叩きつけるように置いた。

「行く当てもねえんだろ? だったら、しばらくここにいな。部屋なら余ってる」

「でも……」

エヴァが何か言いかけるのを、ギルダは手で制した。

「勘違いするな。タダで泊めてやるってわけじゃねえ。ウチは慈善団体じゃねえんだ」

ギルダは椅子から立ち上がると、リリスの前に屈み込み、その顔を覗き込んだ。

リリスはびくりと体を震わせたが、ギルダは構わず続けた。

「小娘。お前に仕事をやる。ギルドの厨房で皿洗いだ。朝から晩まで、汚れた皿を洗い続ける。飯と寝床はそれでくれてやる。いいか、これは命令じゃねえ。契約だ。てめえの労働力と、ウチが提供する寝床を交換する。奴隷じゃなく、労働者として働きな」

仕事。

労働者。

契約。

リリスの知らない単語が、力強い響きをもって彼女の耳に打ち込まれる。

それは、奉仕でも、慰みでも、罰でもない。

ただ、生きるための対価として、自分の手足を動かすこと。

「返事はどうした?」

ギルダに凄まれ、リリスは反射的に口を開いた。

「は……はい……。やります……やらせて、ください……」

「よし」

ギルダは満足げに頷くと、踵を返して厨房の方を指さした。

「なら、さっさと行きな。夕食の準備で、シンクは皿で山になってる頃だ」

エヴァは、この武骨なドワーフの旧友が、リリスに与えようとしているものの意味を理解した。

それは、ただの延命措置ではない。

奴隷として尊厳を奪われ続けた少女に、「労働者」という役割を与え、社会との繋がりを取り戻させるための、不器用だが最大の配慮だった。

リリスは、エヴァに促されるまま、おぼつかない足取りで厨房へと向かった。

そこには、油と食べかすで汚れた皿の山が、彼女を待っていた。

それは、絶望の淵で見つけた、あまりにもささやかな、生きるための第一歩だった。

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