奴隷魔族の私に、幸せは訪れない〜救いを求めた少女が、世界の敵になるまで〜

鹿の子

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猫探し

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エヴァは、リリスの視線が掲示板の一点に、その子供の拙い字で書かれた小さな依頼書に、釘付けになっているのを見逃さなかった。

そのガラス玉のような瞳の奥に、ほんの一瞬、これまで見たこともない微かな光が灯ったのを、確かに捉えたのだ。

それは、絶望という名の深い海の底で、ようやく見つけた一粒の真珠にも似た、か弱くも尊い希望の輝きであった。

*今だ。この好機を逃してはならない。*

エヴァの心臓が、期待と、そしてわずかな不安に高鳴った。

治癒師としての本能が、これがリリスの凍てついた魂を溶かすための、重要な転機であると告げていた。

「リリス。もし、よろしければ……この依頼、手伝ってみませんか?」

エヴァは、祈るような気持ちで、そっと尋ねた。

その声は、驚いた小鳥を飛び立たせないように、最大限の優しさに満ちていた。

リリスは、答えなかった。

ただ、エヴァの顔をじっと見つめる。

その瞳は、まだ戸惑いと恐怖の色を濃く宿していた。

仕事。

それは、彼女にとって苦痛と恐怖の同義語であったからだ。

失敗すれば罰せられる。

価値を示せなければ捨てられる。

その法則が、彼女の行動を縛る見えざる鎖となっていた。

*でも……猫を探す……?*

その行為には、彼女が知る「仕事」の持つ、暴力性も、屈辱も感じられなかった。

ただ、そこには、困っている誰かを「助ける」という、純粋な響きがあった。

「大丈夫。私がついています。これは、罰を与えられるためのものではありません。誰かを助けるための、お仕事です。それに、二人でやれば、きっと楽しいですよ」

エヴァは、リリスの冷たい手を、両手で優しく包み込んだ。

その温もりが、まるで壊れ物を扱うかのように、リリスの心をそっと撫でる。

リリスは、小さく、ほとんど聞こえないほどの声で、こくりと頷いた。

それは、肯定というよりも、目の前の優しさに抗う術を知らない、雛鳥の無防備な服従に近かった。

エヴァは、その小さな肯定に、心からの笑みを浮かべた。

彼女は依頼書を掲示板から剥がすと、その裏に書かれていた依頼主の住所を確認した。

「依頼主は、トム君という男の子ですね。パン屋の角を曲がった、赤い屋根のお家だそうです。さあ、行きましょう、リリス。私たちの、初めての共同作業です」

赤い屋根の家は、すぐに見つかった。

扉を叩くと、そばかすの浮いた、気弱そうな少年が顔を覗かせた。

彼が、依頼主のトムだった。

トムは、エヴァの治癒師の服を見ると少し緊張したが、その後ろに隠れるように立つリリスの姿に、どこか親近感を覚えたようだった。

「あの……ミーちゃん、見つかりますか……?」

トムは、泣き出しそうな顔で尋ねた。

「ええ、必ず見つけてみせます。そのために、ミーちゃんのこと、もう少し詳しく教えてくれるかしら?」

エヴァは、トムを安心させるように微笑みかけると、羊皮紙とインクペンを取り出した。

彼女は、トムから聞き出した情報を、一つ一つ丁寧に書き留めていく。

名前は、ミーちゃん。

白い毛並みで、尻尾の先だけが黒い。

赤い革の首輪をしていて、小さな鈴がついている。

いなくなったのは、昨日の夕方。

いつも遊んでいる、市場の裏にある魚屋の近くで、姿が見えなくなった。

「魚屋さんの近く……。なるほど、情報提供、ありがとうございます。とても助かります」

エヴァはメモを終えると、リリスの方を向いた。

「リリス、情報を集めることは、どんな仕事においても、とても大切なのです。闇雲に探すのではなく、こうして小さな手掛かりを繋ぎ合わせることで、私たちは正しい道筋を見つけ出すことができるのですよ」

リリスは、エヴァが書き留めた羊皮紙を、不思議なものを見るように見つめていた。

子供の他愛ない言葉が、インクの染みとなり、確かな「情報」という価値を持つ。

その変換の過程が、彼女には魔法のように思えた。

二人はトムに別れを告げ、魚屋へと向かった。

魚屋の主人は、いかつい顔をした大男で、店先で巨大なマグロを解体している最中だった。

「すみません、少しお話を伺ってもよろしいでしょうか」

エヴァが話しかけると、主人は血の付いた包丁をちらりと向け、面倒くさそうに顔をしかめた。

「あぁ? 忙しいんだ。後にしてくれ」

その威圧的な態度に、リリスの体が無意識にこわばる。

*怒っている。関わってはいけない。*

だが、エヴァは臆さなかった。

彼女は、リリスの背中をそっと押し、彼女に囁いた。

「リリス、あなたが聞いてみて。大丈夫、ただ、ミーちゃんを見なかったか、と尋ねるだけでいいのです」

「……わ、たしが……?」

「ええ。あなたの言葉で」

エヴァの穏やかだが、有無を言わせぬ瞳に促され、リリスは震える声で、一歩前に出た。

「あ……あの……昨日、ここで、白い、猫を……見ませんでしたか……?」

声は、か細く、途切れ途切れだった。

主人は、訝しげにリリスの顔を見たが、その怯えた小動物のような姿に、毒気を抜かれたようだった。

「白い猫? さあな。昨日は忙しくて、そんなもんに構ってる暇はなかった。見てねえよ」

主人はぶっきらぼうにそう言うと、再びマグロの解体作業に戻ってしまった。

情報を得ることは、できなかった。

リリスは、自分が失敗したのだと、俯いた。

*役に立てなかった。私は、やはり無価値だ。*

しかし、エヴァは、そんなリリスの頭を優しく撫でた。

「よくできました、リリス。とても、勇敢でしたよ」

「でも……何も、聞けませんでした……」

「いいえ、そんなことはありません。見ていないということも、立派な情報です。これで私たちは、昨日の夕方、この魚屋の周辺にミーちゃんがいなかった可能性が高い、と考えることができます。あなたは、ちゃんと仕事をしてくれました」

その言葉に、リリスは顔を上げた。

失敗だと思っていた自分の行動が、肯定された。

自分の言葉が、意味のある「情報」になった。

その事実は、彼女の胸の内に、これまで感じたことのない、小さな、温かい灯りをともした。

それは、達成感、という名の感情の芽生えだった。

エヴァは、再び羊皮紙を広げた。

「さて、魚屋さんの周りにはいなかった。となると、どこへ行ったのでしょう。リリス、あなたは、猫がどんな場所を好むと思いますか?」

「……猫が、好む場所……?」

リリスは、考えた。

猫。

それは、小さく、弱く、そして気まぐれな生き物。

彼女は、自らの過去を、その小さな生き物に重ねていた。

*隠れる場所。誰にも見つからない場所。静かで、暗くて、狭い場所。あるいは、誰にも手の届かない、高い場所……。*

それは、かつて彼女が「煤の底」で、暴力から逃れるために、必死で探し求めた場所そのものだった。

「……暖かくて……狭いところ……。それか……高い、ところ……」

リリスは、ぽつり、ぽつりと、自分の考えを口にした。

それは、奴隷として生きてきた彼女が、その体で学習した、生存のための知恵だった。

エヴァは、リリスの言葉に、目を見張った。

それは、単なる推測ではなかった。

あまりにも的確で、経験に裏打ちされた、確かな洞察だったからだ。

*この子は……その小さな体で、どれほどの恐怖を生き延びてきたのだろう……。*

エヴァの胸が痛んだ。

だが、今は感傷に浸っている場合ではない。

「素晴らしい推測です、リリス。では、その線で探してみましょう。この辺りの裏路地なら、そういう場所がたくさんありそうですね」

二人は、市場の喧騒を離れ、建物と建物の間に広がる、迷路のような裏路地へと足を踏み入れた。

そこは、日の光も届きにくい、薄暗い場所だった。

リリスは、まるで導かれるように、路地の奥へと進んでいく。

そして、ゴミ箱の裏、崩れかけた壁の隙間、放置された古い樽の中など、猫が隠れていそうな場所を、次々と指し示していった。

彼女の指摘は、驚くほど正確だった。

そして、ついに。

リリスが、山積みにされた古い木箱の一つを指さした。

「……この、下……」

エヴァが屈んで木箱の隙間を覗き込むと、その薄暗い闇の奥で、二つの緑色の瞳が、怯えたようにきらりと光った。

「……いた! リリス、いましたよ!」

そこにいたのは、白い毛並みに、黒い尻尾を持つ、一匹の子猫だった。

赤い首輪に付けられた鈴が、ちり、と小さな音を立てる。

間違いなく、ミーちゃんだ。

ミーちゃんは、見知らぬ人間に怯え、木箱の奥で唸り声をあげている。

その時、リリスは、ふと何かを思い出したように、懐から小さな紙包みを取り出した。

それは、先ほどエヴァが買ってくれたリンゴではなく、魚屋の前を通った時に、床に落ちていた魚の切り身を、誰にも気づかれずに拾っておいたものだった。

彼女は、その魚の切り身を、そっと木箱の隙間に差し入れた。

生臭い魚の匂いに、ミーちゃんの警戒心が少しだけ解けたようだった。

子猫は、おそるおそる鼻を近づけ、やがて、その小さな体で魚に食らいついた。

その隙に、リリスは、そっと、驚くほど滑らかな動きで、ミーちゃんの首根っこを掴んだ。

「……捕まえました」

リリスは、腕の中で暴れるミーちゃんを抱きかかえ、静かに言った。

その手つきは、かつて娼館で、客の機嫌を損ねないように、壊れ物を扱うようにして身に着けた、悲しい技術の応用だった。

トムの家にミーちゃんを連れ帰ると、少年は歓声をあげて飛び出してきた。

「ミーちゃん!」

トムは、リリスの腕からミーちゃんを受け取ると、その毛皮に顔をうずめて、しゃくり上げた。

そして、その勢いのまま、リリスとエヴァに、ありがとう、と何度も言いながら抱きついてきた。

他人の、温かい体温。

感謝の言葉。

リリスは、どう反応していいか分からず、ただ、されるがままに立ち尽くしていた。

やがて、トムの母親が出てきて、深々と頭を下げた。

「本当に、ありがとうございました。この子ったら、一日中泣いていて、どうしたものかと思っていたんです」

彼女は、エヴァの手に、報酬である5ドルの銅貨と、まだ温かい、焼きたてのクッキーが入った紙袋を握らせた。

「ほんの気持ちですが、どうぞ、受け取ってください」

帰り道、エヴァは、報酬の5ドルとクッキーの半分を、リリスの手に握らせた。

「これは、リリスが頑張って働いた、正当な報酬です。あなたの力で、手に入れたものですよ」

リリスは、自分の手のひらにある、銅貨の重みと、クッキーの甘い香りを、信じられないような気持ちで見つめていた。

自分の行動が、誰かを助けた。

自分の力が、感謝された。

そして、その対価として、報酬を得た。

それは、彼女の人生で、初めての経験だった。

金銭は、常に彼女を縛り、商品として値踏みするための指標でしかなかった。

それが今、自らの労働の証として、温かいものとして、ここにある。

リリスは、そのクッキーを、一口、食べた。

砂糖の優しい甘さと、バターの豊かな風味が、口の中に広がる。

それは、ただのクッキーの味ではなかった。

それは、誰かと協力することの温かさ。

何かを成し遂げることの達成感。

そして、一人の人間として、他者から認められることの、喜びの味だった。

その温かい甘さが、彼女の凍てついた心の壁を、ほんの少しだけ、溶かしていった。

彼女の頬を、一筋の涙が伝った。

しかし、それは、これまで流してきた、悲しみや絶望の涙ではなかった。

その涙は、しょっぱいだけではなく、どこか、甘い味がした。

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