奴隷魔族の私に、幸せは訪れない〜救いを求めた少女が、世界の敵になるまで〜

鹿の子

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凡人から始まる幸せ

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あの、焼きたてのクッキーが持つ、はにかむような甘さ。

手のひらに残る、5ドルの銅貨のささやかな重み。

トム少年がくれた、体温の残る感謝の抱擁。

それら全てが、リリスという名の、空っぽだった器の中に、初めて注がれた「存在価値」という名の温かい液体であった。

それは、彼女がこれまでの十八年間、一度として味わったことのない、魂の渇きを潤す甘露であった。

*私は、ここにいてもいいのかもしれない。*

*私のような、何の力も持たない人間でも、誰かの役に立てるのかもしれない。*

その発見は、夜明けの光が分厚い雲の隙間から差し込むように、彼女の絶望に閉ざされた世界に、一条の光をもたらした。

彼女はもはや、罰を恐れて機械的に皿を洗うだけの人形ではなかった。

自らの意志で、自らの価値を、この世界に証明しようとする、一人の人間になりかけていた。

その日から、リリスの日常に、新たな習慣が加わった。

午前の厨房作業と、午後の鍛冶見習いを終えると、彼女はまっすぐにギルドの掲示板へと向かう。

そして、その中から「推奨レベル:凡人」と記された依頼書を、一枚、また一枚と剥がしていくのだ。

最初の頃は、不器用だった。

薬草問屋への荷物運びの依頼では、重さにふらついて何度も荷物を落としそうになった。

貴族の奥様からの買い物代行の依頼では、人々の視線に怯えて、店の前で一時間も立ち尽くした。

一日にたった一件の依頼をこなすだけで、彼女は心身ともに疲れ果て、泥のように眠った。

だが、彼女は止めなかった。

失敗するたびに、娼館で叩き込まれた、他人の顔色を窺う技術が、皮肉にも彼女を助けた。

荷物が重ければ、より効率的な持ち方を模索する。

人々の視線が怖ければ、俯き、気配を消し、壁際を歩く。

一つ一つの経験が、彼女の中に「生きるための知恵」として蓄積されていった。

数ヶ月が経つ頃には、彼女はサラスの街の、ちょっとした有名人になっていた。

「ああ、あの銀髪の小娘かい? いつも黙々と仕事をしてくれる、感心な子さ」

「うちの店の煙突掃除も、あの子に頼んだんだ。見てくれはか細いが、驚くほど身軽でね」

「うちの婆さんの肩たたきまでしてくれるんだぜ。報酬はいらないって言うんだが、そうもいかねえから、いつもパンを焼いて渡してるんだ」

いつしか、ギルドの掲示板に張り出される凡人級の依頼は、そのほとんどがリリスによって、その日のうちに片付けられるようになった。

彼女は「鉄槌と坩堝の小さな仕事人」として、サラスの街の日常に、なくてはならない歯車の一つとして、組み込まれていったのだ。

人々との交流は、リリスの内面にも、確かな変化をもたらした。

最初は、恐怖に震え、一言も発することができなかった。

だが、依頼をこなすうちに、彼女は学んだ。

相手が何を求めているのか。

どうすれば、相手を満足させられるのか。

「……荷物は、こちらで、よろしいでしょうか」

「……お求めの品は、これで、全てです」

途切れ途切れだった言葉は、少しずつ滑らかになり、そのガラス玉のようだった瞳には、相手の感情を読み取ろうとする、微かな光が宿り始めた。

人々から返ってくる「ありがとう」という言葉と、温かい笑顔。

それらは、彼女にとって何よりの報酬であり、彼女の存在を肯定してくれる、確かな証だった。

彼女は、まだ心の底から笑うことはできなかった。

だが、時折、その唇の端が、ほんのわずかに、和らぐようになった。

それは、春の訪れを告げる、凍てついた大地のかすかな雪解けにも似ていた。

その日の夕暮れ。

ギルダは、鍛冶場の炉の火を眺めながら、エールを呷っていた。

その隣で、エヴァが、薬草の仕分けをしながら、穏やかな笑みを浮かべている。

二人の視線の先には、今日の依頼で得た報酬であろう、一輪の野の花を小さな瓶に生けている、リリスの後ろ姿があった。

「……ふん。様になってきたじゃねえか」

ギルダは、ぶっきらぼうにそう吐き捨てたが、その口元は、満足げに歪んでいた。

かつて、壊れる寸前だった人形が、今や自らの足で立ち、自らの手で、ささやかな幸福を掴み取ろうとしている。

その姿は、頑固なドワーフの心を、じんわりと温めていた。

「ええ、本当に……」

エヴァは、胸に込み上げる温かい感情に、そっと目を閉じた。

*ああ、神よ。感謝します。あなたが彼女を見捨てなかったことに。*

あの夜、絶望の淵で震えていた少女は、もういない。

そこにいるのは、傷つきながらも、懸命に生きようとする、一人の健気な魂だった。

エヴァとギルダは、顔を見合わせ、そして、どちらからともなく、くすりと笑った。

それは、長い冬の終わりと、確かな春の到来を祝福する、温かく、そして優しい笑い声だった。

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