奴隷魔族の私に、幸せは訪れない〜救いを求めた少女が、世界の敵になるまで〜

鹿の子

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錯覚、ではない

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その夜、リリスは眠れずにいた。

月の光が、窓の格子を床に黒く落としている。

簡素なベッドの上で、彼女は毛布を胸まで引き上げ、暗闇の一点をじっと見つめていた。

ギルダとの過酷な訓練で酷使した体は鉛のように重く、筋肉の節々が熱を持って軋んでいる。

だが、彼女の意識を覚醒させているのは、その肉体的な疲労ではなかった。

*あれは、何だったのだろう。*

目を閉じれば、あの悍ましい感覚が、鮮明に蘇る。

皮膚の下、血と肉のさらに奥深くで、何かが蠢く感触。

自らの意志とは無関係に、内側から肉を食い破り、世界に生まれ出ようとする、制御不能な生命の奔流。

それは、かつて彼女が経験した、いかなる暴力や屈辱よりも根源的で、冒涜的な恐怖だった。

あれは、単なる疲労による幻覚などではない。

あの生々しい脈動は、紛れもない「現実」だった。

*この体は、もう、私のものじゃないのかもしれない。*

その考えが頭をよぎった瞬間、全身の血が凍るような悪寒が走った。

あの流星が、あの地獄の炎の中で触れた虹色の光が、彼女の中に何かを植え付けたのだとしたら?それは、いつか彼女自身の意識を乗っ取り、このようやく手に入れた穏やかな日常を、エヴァやギルダとの絆を、内側から破壊し尽くすのではないか。

*怖い。*

誰にも理解されない。

誰にも相談できない。

この恐怖は、孤独という名の冷たい水の中で、際限なく膨れ上がっていく。

このままでは、狂ってしまう。

その切迫した想いが、彼女をベッドから突き動かした。

頼れる人間は、一人しかいなかった。

この世界で唯一、彼女の存在を無条件に肯定し、その傷ついた魂を抱きしめてくれた人。

その温もりだけが、今、彼女が最後の理性を繋ぎ止めるための、唯一の錨だった。

リリスは、音を立てないよう、幽鬼のような足取りで廊下を進んだ。

ギルドの深夜は静まり返り、遠くで酔い潰れた冒険者のいびきが聞こえるだけだった。

彼女は、エヴァの私室の扉の前で立ち止まり、数度、ためらった。

こんな夜更けに、迷惑ではないだろうか。

自分の身勝手な恐怖で、彼女の安息を妨げてしまうのではないか。

しかし、腕の奥で、あの異物の幻影が再び疼いた気がして、リリスは、震える手で、そっと扉を叩いた。

三度、か細く。

「……どなたですか?」

中から、眠気を含んだ、しかし、穏やかなエヴァの声がした。

その声を聞いただけで、リリスの張り詰めていた緊張の糸が、僅かに緩んだ。

「……リリス、です」

「リリス? どうかしましたか、こんな時間に。どこか具合でも?」

扉が、軋みながら開かれた。

寝間着姿のエヴァが、心配そうな顔でリリスを見つめている。

その背後には、薬草の匂いが満ちた、彼女の静かな世界が広がっていた。

リリスは、言葉を発することができなかった。

ただ、エヴァのその慈愛に満ちた顔を見上げた瞬間、堰を切ったように、瞳から大粒の涙が溢れ落ちた。

エヴァは、何も言わずに、泣きじゃくるリリスを部屋の中に招き入れ、優しくベッドの端に座らせた。

彼女はリリスの隣に腰を下ろすと、その冷え切った手を、自らの温かい両手で包み込んだ。

「大丈夫。大丈夫ですよ、リリス。何があったのか、話してくれますか?」

エヴァのその静かな声に促され、リリスは、途切れ途切れに、言葉を紡ぎ始めた。

「腕が……腕の、中が……」

「腕が?」

「何かが……いるんです。根っこ、みたいな……。熱くて、痛くて……私の中から、出てこようと……するんです」

その告白は、あまりにも突拍子がなかった。

だが、エヴァは、リリスの表情が、ただの悪夢にうなされた少女のものではないことを見抜いていた。

その瞳の奥には、正真正銘の、魂の恐怖が宿っていた。

「……わかりました。少し、あなたの体を診させてください」

エヴァは真剣な表情になると、リリスの右腕を取り、そっと服の袖をまくり上げた。

現れたのは、傷一つない、雪のように白い、滑らかな肌だった。

「聖なる源流に祈りを、安らぎの光に願いを」

エヴァは、静かに詠唱を始めた。

彼女の掌に、柔らかな、乳白色の光が灯る。

それは、彼女の魔力が具現化した、聖なる治癒の光だった。

「病根を照らし、穢れを祓い、真実の在り処を示したまえ」

光は、リリスの腕に、そっと触れた。

温かい、陽だまりのような光が、皮膚を透過し、筋肉、血管、神経、そして骨の髄まで、優しく浸透していく。

エヴァは全神経を集中させ、リリスの体内に潜む、あらゆる異常を探査した。

呪いの痕跡、寄生生物の卵、悪性の魔力の残滓、あるいは精神に干渉する幻惑魔法。

だが。

数分間の、濃密な沈黙の後。

エヴァは、ゆっくりと、光を収束させた。

彼女の顔には、深い安堵と、そして、当惑の色が浮かんでいた。

「……リリス。あなたの体には、何の異常もありません」

「え……?」

「呪いの類も、病の兆候も、何も。それどころか、あなたの体は、私がこれまで診てきた誰よりも、健康で、清浄な魔力に満ちています。まるで、生まれたての赤子のように……」

エヴァは、心から不思議そうに、首を傾げた。

リリスは、その言葉が信じられなかった。

「でも……あの感覚は……」

「おそらく……」

エヴァは、言葉を選びながら、優しく続けた。

「……最近、慣れない訓練を始めたばかりでしょう? ギルダさんの指導は、特に厳しい。あなたの体は、これまで経験したことのない、極度の疲労状態にあるはずです。そういう時、筋肉の痙攣や神経の昂ぶりが、まるで何か別のものが体内にいるかのような、奇妙な錯覚を引き起こすことがあるのです」

錯覚。

その言葉は、冷たい石のように、リリスの胸に落ちた。

「過去の……辛い経験も、関係しているのかもしれません。あなたの心は、まだ、たくさんの傷を抱えていますから。体が危険信号を発した時に、心が、それを過剰に、恐ろしいものとして認識してしまった……」

エヴァは、そう結論づけると、リリスを安心させるように、その肩を優しく抱いた。

「大丈夫。あなたは、どこもおかしくなんてない。ただ、少し、疲れすぎているだけです。今夜は、ゆっくり、お休みさない」

リリスは、エヴァの腕の中で、こくりと、小さく頷いた。

彼女の言葉を、信じなければならない。

この優しさを、疑ってはならない。

*錯覚……。そう、これは、ただの錯覚なんだ。*

彼女は、自分にそう言い聞かせた。

だが、心の奥底で、冷たい声が囁いていた。

*違う。あれは、本物だ。*

あの、肉を突き破り、世界にその悍ましい姿を現そうとする、意志を持った「何か」の感覚。

それが、ただの錯覚だとは、到底、思えなかった。

エヴァにさえ、理解されない。

その事実は、リリスを、再び、独りぼっちにした。

それは、物理的な孤独よりも、遥かに深く、暗い、絶望的な孤独感だった。

彼女は、エヴァの胸に顔を埋めながら、誰にも見えない暗闇の中で、静かに、震えていた。
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