奴隷魔族の私に、幸せは訪れない〜救いを求めた少女が、世界の敵になるまで〜

鹿の子

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冷たい雨が、サラスの石畳を容赦なく打ち据えていた。

窓硝子を叩く雨音は、不吉な予兆を孕んだ連打のように、ギルド「鉄槌と坩堝」の静寂を侵食していた。

ギルダは数日前から希少鉱石の仕入れのため、遠方の鉱山街へ出向いており、不在であった。

酒場の喧騒も途絶え、残っているのはわずかな常連客と、カウンターを拭くリリス、そして帳簿を整理するエヴァだけであった。

その平穏は、激しく扉を叩く音と共に、唐突に破られた。

転がり込んできたのは、泥まみれの男だった。

農夫のような粗末な服を着て、顔色は土気色で、肩で息をしている。

「た、助けてくれ……! 頼む、誰か!」

男は床に崩れ落ちそうになりながら、掠れた声で叫んだ。

「グレイウッド村で……疫病だ! 子供たちが、次々と血を吐いて倒れてる! 医者を、治癒師様を!」

エヴァの表情が、瞬時に強張った。

彼女の手から羽根ペンが滑り落ち、帳簿の上に黒い染みを作った。

疫病。

子供たちの死。

その単語は、彼女の心の最も深い傷跡――故郷の惨劇の記憶――を、鋭利な刃物で抉るものであった。

「……すぐに、行きます」

エヴァはカウンターを飛び越える勢いで男に歩み寄ると、その肩を掴んだ。

「症状は? 感染源はわかっていますか? 何人倒れているのです?」

「わ、わからねえ……。とにかく、熱が高くて……もう、何人も……」

男の言葉は要領を得なかったが、その切迫感だけは本物のように見えた。

エヴァの瞳に、理性の光と共に、焦燥の炎が宿る。

彼女は振り返り、リリスに指示を飛ばした。

「リリス、医療鞄と解毒ポーションをありったけ用意して。それから、厩舎で馬車の準備を」

「で、でも、エヴァさん……こんな夜に、護衛もなしで……ギルダさんもいないのに……」

リリスは不安げに口を挟んだ。

外は豪雨であり、治安の悪い夜道を治癒師だけで移動するのは危険すぎる。

通常であれば、バルガスなどの護衛を待つべき状況だった。

「一刻を争うのです! 護衛を探している間に、救える命が失われたらどうするのですか!」

エヴァの声は、かつてないほど鋭く、悲痛だった。

彼女は、目の前で死んでいった弟の姿を、見知らぬ村の子供たちに重ねていたのだ。

その揺るぎない覚悟を前に、リリスは言葉を飲み込むしかなかった。

リリスは、急いで準備を整えた。

重い医療鞄を抱え、腰にはバルガスから贈られた短剣をしっかりと固定する。

冷たい革の鞘の感触が、震える指先にわずかな勇気を与えた。

*私が、守らなければ。*

エヴァは救う人だ。

だから、彼女を守るのは、救われる側の人間ではなく、戦う力を持とうとする自分の役目だ。

リリスは濡れた髪を払い、馬車の御者台に座るエヴァの隣ではなく、荷台の幌の中に滑り込んだ。

「私も行きます。荷物持ちでも、何でもしますから」

エヴァは一瞬驚いた顔をしたが、リリスの真剣な眼差しを見て、短く頷いた。

「……ありがとう、リリス。頼りにしています」

馬車は、雷鳴が轟く闇の中へと、泥飛沫を上げて走り出した。

街道は漆黒の闇に包まれていた。

馬車のランタンが照らすのは、激しく降り注ぐ雨のカーテンと、ぬかるんだ轍だけである。

車輪が泥に足を取られ、馬車は激しく揺れた。

リリスは幌の隙間から外を監視していたが、雨音にかき消され、周囲の気配を察知することは困難だった。

ドクン。

まただ。

右腕の奥で、あの異物が蠢いた。

不快な熱さと、皮膚の下を這い回る根の幻覚。

それは警鐘のように、リリスの神経を逆撫でする。

何かが……おかしい。

リリスの感覚が、ざわざわと騒いでいた。

先ほどの依頼人の男。

彼の恐怖は本物に見えた。

だが、その裏に、何か粘着質な、隠しきれない悪意のような色が混じっていたのではないか。

今になって、その違和感が喉に刺さった小骨のように気になり始めた。

「エヴァさん……」

リリスが声をかけようとした、その時だった。

ガクンッ!

大きな衝撃と共に、馬車が傾いた。

車軸が折れるような鈍い音が響き、馬がいなないて足を止める。

「きゃっ!?」

エヴァの悲鳴。

リリスは荷台の中で体勢を崩し、医療鞄に頭をぶつけた。

「車輪が……! 泥に嵌ったのかしら」

雨の中、エヴァが御者台から降りようとする。

リリスも慌てて短剣を握りしめ、外へと飛び出した。

泥濘んだ地面に降り立つと、冷たい雨が全身を濡らす。

依頼人の男――御者台の隣に座っていたはずの男――が、奇妙な動きをしているのが見えた。

彼は車輪を直すどころか、懐から何かを取り出し、暗闇に向かって振っていた。

それは、赤く発光する魔石だった。

「よう。待ちくたびれたぜ」

闇の奥から、ねっとりとした声が響いた。

雨音を切り裂くように、街道の両脇の茂みから、複数の影が姿を現す。

革鎧に身を包み、剣や斧を手にした男たち。

その数、十人以上。

彼らの目は、獲物を追い詰めた狼のようにギラギラと光っていた。

その中心に、一人の男が立っていた。

顔に醜い火傷の痕があり、その口元には嗜虐的な笑みが張り付いている。

「罠……!」

リリスの喉から、絶望的な呻きが漏れた。

「久しぶりだなあ、聖女様。それに、銀髪の嬢ちゃんよお」

ボルコフは、わざとらしく両手を広げてみせた。

「グレイウッド村の疫病? ああ、ありゃあ嘘だ。俺が書いた台本だよ。お前らをおびき出すためのな」

依頼人の男が、卑屈な笑みを浮かべてボルコフの元へ駆け寄る。

「へへっ、うまくいきましたぜ、頭」

「ああ、上出来だ」

エヴァの顔から、血の気が引いていく。

使命感を利用され、子供たちの命をだしにされたことへの怒りと、絶体絶命の状況への恐怖。

「……卑劣な」

「卑劣? 褒め言葉だな。俺たちは盗賊だ。そして、借りはきっちり利子つけて返す主義でな」

ボルコフが剣を抜いた。

その刃が、雷光を受けて冷たく煌めく。

「さあて、パーティーの始まりだ。俺の眼を潰してくれた礼、たっぷりさせてもらうぜ」

包囲網が、じりじりと狭まる。

逃げ場はない。

護衛もいない。

あるのは、非力な治癒師と、震える手で短剣を構える見習いの少女、そして、雨音だけだった。
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