奴隷魔族の私に、幸せは訪れない〜救いを求めた少女が、世界の敵になるまで〜

鹿の子

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雨脚が弱まり、雲の裂け目から青白い月光が漏れ始めた街道に、重い足音が近づいてきた。

リリスは反射的に体を強張らせ、エヴァを背に庇うように動こうとした。

殺戮の衝動は収まったものの、神経は未だ張り詰めた糸のようであった。

泥と闇の中から現れたのは、巨躯の男だった。

顔には歴戦の証たる深い傷跡が刻まれ、その瞳は鋭く、しかし今は静かな光を宿している。

「……マスター」

エヴァが安堵の息と共に、その男の名を呼んだ。

「リリス、大丈夫よ。……この方は、私たちのギルドの長、オーギュストさん」

リリスはその名を反芻し、男を見上げた。

彼が、エヴァさんが信頼を寄せる人物。

かつて自分たちを逃がすために盾となってくれた人。

しかし、リリスは言葉を発することができなかった。

喉が引き攣り、どう振る舞えば良いのか分からなかったのだ。

オーギュストは無言のまま、リリスの前に立った。

彼の視線は、リリスの顔ではなく、その身に纏う衣服へと注がれた。

そこには、戦闘による泥汚れだけでなく、もっとおぞましい痕跡が刻まれていた。

引き裂かれた布地。

こびりついた白濁した液体。

そして、赤黒く乾き始めた血痕。

たとえリリスの肌が触手の力で再生し、白磁の輝きを取り戻していても、彼女がその身で受けた屈辱の事実は、衣服という外面に残酷なまでに記録されていた。

オーギュストの眉間が、苦渋に歪む。

彼は何も聞かなかった。

ただ、自身の肩から厚手の防水マントを外し、それを大きく広げた。

バサリ。

重く温かい布が、リリスの頭から被せられた。

世界から、そして彼女自身から、その惨めな痕跡を隠すように。

「……風邪をひく」

短く、低い声。

それは命令のようでありながら、不器用な労わりに満ちていた。

リリスはマントの縁を強く握りしめた。

布越しに伝わる体温と、雨と鉄の匂いが、震える体を包み込んだ。

「リリスッ! エヴァッ!!」

さらに後方から、地響きのような叫び声が轟いた。

小柄ながら岩のように頑強な影が、泥を跳ね上げて走ってくる。

ドワーフの鍛冶師、ギルダであった。

彼女は二人の姿を認めると、勢いよく滑り込み、リリスの肩を掴んで揺さぶった。

「馬鹿野郎がッ! 一人で飛び出しやがって……! 死にたがりか、お前はッ!」

ギルダの怒声が夜の街道に響く。

その手は痛いほどに強く、そして小刻みに震えていた。

リリスがマントの下で縮こまると、ギルダの表情がくしゃりと歪んだ。

「……無事で、よかった……本当に……」

太い指がリリスの頭を乱暴に、しかし愛おしげに撫で回す。

「生きてて、よかった……」

ギルダの目から大粒の涙が溢れ、赤銅色の髭を濡らした。

リリスはその温もりに触れ、再び目頭が熱くなるのを感じた。

叱責されることすら、今は心地よかった。

自分は心配される価値のある存在なのだと、彼女の涙が教えてくれていたからだ。

「感傷に浸る時間は後だ。エヴァの状態は?」

オーギュストが冷静さを取り戻し、エヴァの傍らへ膝をついた。

エヴァは苦笑を浮かべ、力なく首を振った。

「すみません……魔力が底をついてしまって。自己治癒も、追いつきません」

左足は不自然な方向に曲がり、赤黒く腫れ上がっている。

激痛による脂汗が、雨水と共に彼女の顔を濡らしていた。

「歩ける状態じゃねえな」

ギルダが鼻を啜り上げ、涙を袖で乱暴に拭った。

「よし、担架を作るぞ。オーギュスト、剣を貸しな」

ギルダの手際によどみはなかった。

オーギュストの予備の剣と、周囲に落ちていた盗賊たちの槍の柄を組み合わせ、マントやロープで固定していく。

リリスもおずおずと手を貸した。

結び目を作る指はまだ震えていたが、それでもエヴァのために動けることが嬉しかった。

「……こう、ですか?」

「ああ、そうだ。上手いじゃねえか」

ギルダがニカリと笑い、リリスの頭をポンと叩いた。

即席の担架にエヴァを乗せ、オーギュストとギルダが前後を担ぎ上げた。

リリスはその横に寄り添い、エヴァの手を握った。

「帰ろう。俺たちのギルドへ」

オーギュストの号令と共に、一行は歩き出した。

雨は完全に止み、雲の切れ間からは満天の星空が顔を覗かせていた。

リリスは、オーギュストの背中と、ギルダのたくましい足取り、そして担架の上で安らかに目を閉じるエヴァを見つめた。

マントの下の服はまだ汚れている。

過去の傷も、犯した罪も、消えることはない。

けれど、握りしめた手の温もりだけは、確かな現実だった。

リリスは一歩、また一歩と、泥濘んだ道を踏みしめた。

それは地獄からの逃走ではなく、居場所への帰還であった。
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