奴隷魔族の私に、幸せは訪れない〜救いを求めた少女が、世界の敵になるまで〜

鹿の子

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冒険者になろう

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エヴァはベッドの上からリリスを見上げ、その頭にそっと手を乗せた。

亜麻色の髪を持つ治癒師の瞳には、深い安堵と慈愛の色が満ちている。

「あなたはもう、立派な鉄槌と坩堝の魔導師ね」

その言葉は、リリスの魂に刻まれた奴隷の焼印を、清浄な光で洗い流していく。

涙が溢れそうになるのを、リリスは奥歯を噛み締めて堪えた。

もう泣かない。エヴァに心配をかける涙は、もう流さない。

「はい……!」

彼女は胸に抱いた樫の木の杖を強く握りしめ、曇りのない笑顔をエヴァに向けた。

あの日から、数日が過ぎた。

ギルドには、嵐の前の静けさにも似た、穏やかな日常が戻っていた。

エヴァの粉砕された足の骨は、彼女自身の高度な治癒魔法によって数日のうちに完全に癒合した。彼女は既に松葉杖なしで歩き回り、医務室の主として、他のギルド員たちの怪我の手当に追われている。

リリスは、そんなエヴァの傍を片時も離れなかった。

薬草を棚に整理し、包帯を巻き直し、床を磨く。エヴァが指示する前に、彼女は甲斐甲斐しく動き回った。それは贖罪のようでもあり、また、守り抜いた温もりを確かめるための儀式のようでもあった。

そして、仕事の合間を見つけては、彼女は誰にも見られないギルドの裏庭で、一人、杖を振るう練習に没頭した。

「大地に眠る咎の種よ……」

低い声で詠唱を反芻し、体に叩き込む。

「我が血を啜りて、鮮血の城壁となれ……」

杖を振るう腕は、まだぎこちない。だが、その瞳に宿る真剣さは、歴戦の戦士のそれにも劣らなかった。

彼女は「魔導師リリス」という役を演じているのではない。その役そのものになろうとしていた。

その日の午後、リリスはオーギュストに執務室へと呼び出された。

「準備はできたようだな」

オーギュストは机に積まれた書類の山から顔を上げ、リリスを値踏みするように見た。

「お前に、初仕事を斡旋する」

リリスの背筋が、緊張でまっすぐに伸びる。

オーギュストは一枚の羊皮紙を彼女の前に滑らせた。それはギルドの正式な依頼書だった。

依頼主は、街の薬師。

内容は、街の西に広がる「静寂の森」に自生する「月光草」を10本採取してくること。

成功報酬は、300ドル。

それは駆け出しの冒険者が受けるにはごく標準的な、しかしリリスにとっては未知の世界への扉だった。

「単独任務だ。護衛はつかん」

オーギュストの言葉は、突き放すように冷たい。だが、その奥に、師としての信頼が滲んでいることをリリスは感じ取った。

「森には、牙兎や森狼が出る。今の貴様の実力を試すには、丁度いい相手だろう」

*私は、試されている。

この力で、一人で、何かを成し遂げられるのかを。

*

リリスは依頼書を見つめた。羊皮紙に書かれた文字が、彼女の未来を指し示している。

「……やります」

彼女は顔を上げ、オーギュストの目を真っ直ぐに見返した。

その声に、もはや奴隷の卑屈な響きはなかった。

午後の陽光が街路樹の葉を透かし、まだらな影を石畳に落としている。

リリスはギルドの分厚い鉄扉を押し開き、一人、外の世界へと足を踏み出した。

背中には薬草採取用の革袋。腰には、バルガスから譲り受けた短剣。そして手には、彼女の新しいアイデンティティである樫の木の杖が握られている。

街の人々の喧騒が、遠い世界の音のように聞こえる。

彼女の意識は、これから向かう森へと集中していた。

静寂の森。

その名の通り、人の気配が希薄な、深い森だ。

森の入り口にたどり着いた時、リリスは足を止めた。

暗い木々のトンネルが、まるで巨大な獣の口のように、彼女を待ち構えている。

その闇の奥から、かつての記憶が蘇る。

煤の底の悪臭。男たちの嘲笑。暴力。無力な自分。

リリスはぎゅっと目を閉じ、首を振った。

*違う。

私はもう、あの時の私じゃない。

*

彼女は杖を胸の前に構え、決意を固めるために、教わった言葉を低く紡いだ。

「――大地に眠る咎の種よ」

その声は、森の静寂に吸い込まれ、誰の耳にも届かない。

だが、それは彼女自身の魂に響き渡り、恐怖という名の影を振り払うための、聖句となった。

リリスは目を開き、迷いのない足取りで、森の中へと進んでいった。

森の中は、ひんやりとした湿った空気に満たされていた。

木漏れ日が苔むした地面を照らし、幻想的な光景を作り出している。

リリスはダミーの魔導書を開き、そこに描かれた月光草の絵と周囲の植物を見比べながら、慎重に歩を進めた。

しばらく進んだ先、開けた場所で、彼女は目的の植物を発見した。

月の光を吸って白く輝く、美しい花弁。

だが、その月光草を守るように、一匹の獣が佇んでいた。

体長は1メートルを超える巨大な兎。額からは、鋭い一本の角が突き出している。牙兎だ。

兎はリリスの存在に気づき、赤い目で威嚇するようにこちらを睨み、低い唸り声を上げた。

リリスの心臓が、恐怖で跳ね上がる。

逃げたいという本能が、全身の筋肉を硬直させる。

*落ち着け。

練習通りにやればいい。

*

彼女は自分に言い聞かせ、震える足を踏みしめた。

杖を持つ手に汗が滲む。

彼女はゆっくりと息を吸い込み、練習した詠唱を口にした。

「深紅の棘よ、眠りを食みて目覚めよ」

声が震え、上ずる。だが、一度口火を切れば、言葉は淀みなく流れ出した。

「我が魂を供物とし、一輪の贖罪を捧ぐ」

「汝、我が敵の血肉を喰らい、その骸に咲き誇れ」

牙兎が地面を蹴り、角を突き立てて突進してくる。

その瞬間、リリスは詠唱の最後の一節を絶叫した。

「咲き散れ――【紅茨】!」

彼女の右腕から、肉を突き破る激痛と共に、真紅の茨に覆われた触手が撃ち出された。

茨は生き物のようにしなり、牙兎の体を正確に貫く。

「キィィイイイッ!」

兎が甲高い悲鳴を上げる。

茨は兎の体内で瞬時に枝分かれし、その肉を養分として吸収し始めた。

兎の体を突き破り、小さな、しかし毒々しいほどに鮮やかな赤いバラが、次々と花開いた。

数秒後、牙兎は完全に動きを止め、血の花を咲かせたグロテスクなオブジェへと成り果てた。

リリスは肩で息をしながら、その光景を見つめていた。

右腕の茨は、するすると体内に戻っていく。

初めて、自分の意志で命を奪った。

誰かを守るためではない。ただ、任務を遂行するために。

吐き気がこみ上げる。だが同時に、体の奥底から、力が満ちてくるような奇妙な高揚感が湧き上がった。

兎の死骸から吸収した生命力が、リリス自身の魔力を補っているのだ。

リリスはしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて顔を上げた。

彼女は死骸に近づき、その傍らに咲く月光草を丁寧に摘み取った。

これが、仕事。これが、冒険者として生きるということ。

彼女は自分にそう言い聞かせた。

その後、彼女は森の奥へとさらに進んだ。

月光草を見つけるたび、その周囲には決まって小動物や弱い魔物がいた。

リリスはもう、躊躇わなかった。

二度、三度と【紅茨】を放つうちに、詠唱は滑らかになり、罪悪感は薄れていった。

代わりに、力を制御する手応えと、任務を遂行する達成感が、彼女の心を支配していく。

彼女は、自分がただの怪物ではないことを証明していた。

この力は、道具だ。使い方次第で、自分と、そして大切な人を守るための、刃になる。

森狼の群れを茨の檻で絡め取り、一斉に花を咲かせて始末した時、彼女はもはや何の感情も抱かなかった。

ただ、効率的に敵を排除し、目的を達成することだけを考えていた。

そうして、彼女は最後の十本目の月光草を採取し終えた。

革袋はずっしりと重い。

死体から吸い上げた生命力で、彼女の体には疲労のかけらもなく、むしろ力がみなぎっていた。

夕暮れの赤い光が森を染め上げる頃、リリスはギルドへの帰路についていた。

その足取りは、森へ入る時とは比べ物にならないほど、確かなものだった。

ギルドのカウンターで、リリスは採取した月光草の入った袋を提出した。

受付の女性が中身を確認し、満足そうに頷く。

「確かに、月光草10本。依頼達成ね。こちらが報酬の300ドルよ」

ずしりとした重みのある革袋が、リリスの手に渡された。

中には、鈍い銀色に輝く硬貨が詰まっている。

これが、自分の力で稼いだ、初めてのお金。

それは奴隷として与えられる残飯とは違う。誰かの慰みものになった対価でもない。

自分の技術と勇気で、正当に勝ち取った報酬。

その重みが、リリスの胸に熱いものを込み上げさせた。

彼女は硬貨の袋を強く握りしめる。

自分はもう、無力な存在ではない。

この手で、未来を掴むことができる。

一人の冒険者として、リリスは、確かにその第一歩を踏み出したのだった。
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