奴隷魔族の私に、幸せは訪れない〜救いを求めた少女が、世界の敵になるまで〜

鹿の子

文字の大きさ
69 / 97

フォオナは、なぜここに…

しおりを挟む
任務によって再び満たされた革袋の重みは、リリスにとって、エヴァの笑顔と交換するための、ただの引換券に過ぎなかった。

その金属の冷たさは、彼女の心の空虚さを埋めることはなく、むしろ、失われゆく温もりとの対比によって、その虚無をより一層際立たせるばかりであった。

彼女は、その報酬のほとんどをたった一つの夜のために投じることを、何のためらいもなく決断した。

向かった先は、サラスの貴族街にひっそりと佇む、街で最も格式高いと言われるレストラン「黄金の獅子亭」。

その扉は、リリスのような身分の者が、本来決して開けることのできない、重厚な階級の壁そのものであった。

しかし、今の彼女は違う。

覚醒級冒険者という身分、そして手にした大金が、その壁を一時的に取り払う。

「……今宵、二人分の席を」

受付の男が、リリスの簡素な服装と、その手に握られた報酬袋を見比べて、露骨に侮蔑の色を浮かべた。

だが、彼女が袋の中身をカウンターにぶちまけ、金貨が硬質な音を立てて転がった時、男の顔から侮りは消え、卑屈なまでの恭順へと変化した。

*金が、扉を開ける。金が、人の態度を変える。*

それは、彼女が娼館で学んだ、世界の残酷な真理の一つだった。

彼女は、その夜の予約を済ませると、何も言わずにレストランを後にした。

背後で男が慌てて金貨をかき集める音が、やけに耳障りに響いていた。

その夜、リリスは、先日購入したばかりの、まだ袖を通していない一番上等のブラウスに身を包み、エヴァの部屋の扉を叩いた。

「エヴァさん、今夜は、私に付き合ってください。とっておきの場所があるんです」

そう言って微笑むリリスの完璧な笑顔に、エヴァは息を呑んだ。

その瞳の奥に揺らめく、深い悲しみの影に気づかないほど、彼女は鈍感ではなかった。

しかし、その健気なまでの献身を、彼女は拒絶することができなかった。

「黄金の獅子亭」の壮麗なエントランスを前に、エヴァは気圧されて立ち尽くした。磨き上げられた大理石の床、天井から吊り下げられた巨大なシャンデリア、そして壁を飾る豪奢な絵画。その全てが、自分たちがいるべき場所ではないと、雄弁に物語っていた。

「リリス……ここは……」

「今夜は、いいんです」

リリスはエヴァの手を取り、その不安を振り払うかのように、力強く言った。

「エヴァさんは、私の恩人です。世界で一番素晴らしいもてなしを受ける権利があります」

二人は、窓際の最も良い席へと案内された。

銀の食器が魔石灯の光を反射してきらめき、テーブルには見たこともないような美しい花が飾られている。

運ばれてくる料理は、どれもが芸術品のように繊細で、口に含むたびに、至福の味が広がった。

「美味しい……」

思わず感嘆の声を漏らすエヴァに、リリスは満足そうに頷いた。

「よかった」

彼女は、ほとんど料理に手をつけることなく、ただ幸せそうに食事をするエヴァの横顔を、その目に焼き付けるように、じっと見つめていた。

*この顔を、覚えていたい。この瞬間を、永遠にしたい。*

しかし、その献身的な眼差しが、エヴァの心を鋭い罪悪感で抉っていることを、リリスは知らなかった。

この豪華な食事の一皿一皿が、彼女が血と泥の中で戦い、稼ぎ出した対価だと思うと、エヴァにはその味を純粋に楽しむことなど到底できなかった。

この食卓は、幸福の仮面を被った、あまりにも悲しい罪悪感の晩餐だった。

幸福と罪悪感が交錯する、歪んだ晩餐の時間は、突如として闖入者によって断ち切られた。

それは、一人の女性だった。

エルフ特有の尖った耳、琥珀色の冷たい瞳、そして、背筋が凍るような、絶対零度の魔力。

その顔を、リリスは決して忘れることがなかった。

「冬の森の断罪者」――フィオナ。

かつて、オルレアン侯爵邸の祝賀会で、彼女の喉元に風の刃を突きつけ、ゼノンに選択を迫り、結果として彼女を地獄へと突き落とす引き金となった、神聖ルミナール帝国の魔導師。

フィオナは、リリスたちのテーブルの前で足を止めると、その琥珀色の瞳を侮蔑に細めた。

「……なぜ、貴様のようなものが、ここにいる?」

その声は、冬の夜気のように冷え切っていた。

「バーンズ子爵に売り飛ばされた、魔族の血を引く奴隷が。なぜ、このような人間の場所で、食事などをしている?」

フィオナの言葉に、周囲のテーブルにいた客たちが、好奇と侮蔑の入り混じった視線を一斉に向けた。

レストランの華やかな雰囲気は、一瞬にして凍りついた。

リリスの体から、血の気が引いていく。

忘れかけていた「奴隷」という言葉が、熱した鉄のように彼女の心を焼いた。

「失礼ですが!」

リリスが何かを言うより先に、エヴァが毅然として立ち上がった。

「彼女はもはや奴隷ではありません! 私たちのギルド、鉄槌と坩堝が身元を保証する、正式な覚醒級冒険者です!」

エヴァはフィオナを真っ直ぐに睨みつけ、リリスを庇うようにその前に立った。

その背中は小さく震えていたが、その瞳には、リリスを守るという強い意志が宿っていた。

だが、フィオナはエヴァの言葉を鼻で笑った。

「冒険者だと? 魔族の血が、か? 笑わせるな。所詮、汚れた血はどこまで行っても汚れた血。いつ裏切るとも知れん」

フィオナはエヴァを意にも介さず、その冷徹な視線を再びリリスへと向けた。

「貴様に聞きたいことがある。単刀直入に言え。何か、知っていることはないか」

「……何のことでしょうか」

リリスは、かろうじて声を絞り出した。

「とぼけるな」

フィオナは舌打ちを一つすると、懐から一枚の魔法写真を取り出した。

それは、魔力を流すことで映像を記録、再生できる、高価な魔道具だ。

「先日、このサラス市に、帝国の魔術師が極秘裏に設置した広域防衛結界の設計図が盗まれた。犯人は、この街に潜入していた、魔族のスパイだ」

フィオナはそう言うと、魔法写真をテーブルの上に置いた。

写真には、一人の若い男の姿が、鮮明に写し出されていた。

艶やかな黒髪。

彫りの深い、端正な顔立ち。

そして、その瞳は、闇そのものを溶かし込んだかのように、深く、昏い。

「こいつは、純粋な魔族だ。貴様のような雑種とは、魔力の波長が根源から異なる。だが、同じ魔の血を引く者として、何か感じるところがあるのではないか?」

フィオナの尋問は、静かだが、逃げ場のない圧力を伴っていた。

リリスは、その写真を見た瞬間、全身の血が凍りつくのを感じた。

*黒髪……魔族の血……。*

脳裏に、あの路地裏で出会った少女の姿が、鮮明に蘇る。

メル。

ガラス玉のような瞳で、自分を見つめていた、孤独な少女。

彼女から感じた、あの魔族の気配。

まさか。

いや、違う。

写真に写っているのは、紛れもなく「男」だ。

年齢も、メルよりもずっと上に見える。

性別も、年齢も、違う。

だが、あの時感じた、血の繋がりを思わせる、根源的な響き。

もし、関係があるとしたら?

もし、自分がメルのことを話せば、あの少女はどうなる?

*悪い狼が寄ってくる。*

自分が、その狼を呼び寄せることになるのか?

リリスの思考は、一瞬でそこに行き着いた。

彼女は、顔を上げた。

その瞳には、恐怖も、動揺も、何の色も浮かんでいない。

ただ、底なしの静寂があるだけだった。

「……何も、知りません」

リリスは、はっきりと嘘をついた。

「このような男は、見たこともありませんし、何も感じません」

それは、メルを守るための嘘であり、そして何よりも、これ以上厄介事に巻き込まれたくないという、自己保身のための嘘だった。

フィオナは、リリスの返答を、値踏みするように、しばらくの間、無言で見つめていた。

その琥珀色の瞳は、嘘を暴こうとするかのように、リリスの心の奥底まで見通そうとしていた。

やがて、彼女はふいと視線を逸らし、魔法写真を懐にしまった。

「……そうか」

その声には、納得した様子は微塵もなかった。

「ならばいい。だが、覚えておけ。もし、何かを思い出すか、あるいは、この男を見かけるようなことがあれば、直ちに帝国軍の駐屯地に報告しろ。これは、命令だ」

フィオナは一方的にそう告げると、もはやリリスたちには何の興味もないというように背を向け、レストランの喧騒の中へと姿を消していった。

後に残されたのは、完全に白けた空気と、周囲の客からの好奇と蔑みの視線、そして、手付かずのまま冷めていく豪華な料理だけだった。

「リリス、大丈夫……?」

エヴァが、心配そうにリリスの顔を覗き込む。

「……ええ。大丈夫です」

リリスは、再び、あの完璧な笑顔の仮面を顔に貼り付けた。

「さあ、エヴァさん。せっかくの料理が、冷めてしまいますよ。続けましょう」

彼女は、何事もなかったかのようにフォークを手に取り、冷え切った肉を口に運んだ。

味は、もうしなかった。

盗まれた設計図。

そして、謎の少女、メル。

リリスは、その不吉な予兆を胸の内に押し殺し、ただひたすらに、目の前の幸福な晩餐を演じ続けるのだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

拾った年上侯爵が甘え上手すぎて、よしよししてたら婚約することになりました

星乃和花
恋愛
⭐︎火木土21:00更新ー本編8話・後日談8話⭐︎ 王都の市場で花屋をしているリナは、ある朝―― 路地裏で倒れている“美形の年上男性”を拾ってしまう。 熱で弱っているだけ……のはずが、彼はなぜか距離が近い。 「行かないで」「撫でて」「君がいると回復する」 甘えが上手すぎるうえに、褒め方までずるい。 よしよし看病してあげていたら、いつの間にか毎日市場に現れるようになり、 気づけば花屋は貴族の面会所(?)になっていて―― しかも彼の正体は、王都を支える侯爵家の当主だった!? 「君は国のために必要だ(※僕が倒れるから)」 年上当主の“甘え策略”に、花屋の心臓は今日ももたない。 ほのぼの王都日常コメディ×甘やかし捕獲ラブ、開幕です。

忘れ去られた婚約者

かべうち右近
恋愛
『僕はレベッカしか選ばない』 甘い声音でそう話したはずの王太子サイラスは、レベッカを忘れてしまった。 レベッカは、王太子サイラスと付き合っていることを、ある事情により隠していた。舞踏会で関係を公表し、婚約者に指名される予定だったのに、舞踊会の夜にサイラスは薬を盛られて倒れ、記憶喪失になってしまう。 恋人が誰なのかわからないのをいいことに、偽の恋人が次々と名乗りをあげ王太子の婚約者の座を狙ってくる。おかげで不信に陥ったサイラスに、レベッカは自分が恋人だと名乗り出せなくなってしまった。 サイラスの記憶喪失を解消するため、薬師兼魔女であるレベッカは恋人であることを隠しながら、事件調査を協力することになった。そうして記憶が戻らないまま二人の距離は再び近づいていく。だが、そんなおりにサイラスの偽の恋人を名乗りでた令嬢たちが、次々と襲われる事件も起き始めて……!? ※他のサイトにも掲載しています。 毎日更新です。

夫と愛し合った翌朝、一方的に離縁されました【完結保証】

星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
美しい公爵夫人マルグリートは、冷徹な夫ディートリヒと共に、王国の裏で密かに任務をこなす“悪女”。 だがある日、突然夫から離婚を言い渡される。しかもその裏には、平民の愛人の存在が──。 失意の中、王命で新たな婚約者・エルンストと結ばれることに。 どうやら今回の離婚再婚は、王家の陰謀があるよう。 「悪女に、遠慮はいらない」 そう決意した彼女は、華やかな舞踏会で王に真っ向から言い放つ。 「わたくし、人の家庭を壊しておきながら悪びれない方に、下げる頭は持っていませんの。  王族であられる前に、人におなりくださいませ。……失礼」 愛も、誇りも奪われたなら── 今度はこの手で、すべてを取り戻すだけ。 裏切りに燃える、痛快リベンジ・ロマンス! ⚠️本作は AI の生成した文章を一部に使っています。タイトル変えました。コメディーです。主人公は悪女です。

私の息子を“愛人の子の下”にすると言った夫へ──その瞬間、正妻の役目は終わりました

放浪人
恋愛
政略結婚で伯爵家に嫁いだ侯爵令嬢リディアは、愛のない夫婦関係を「正妻の務め」と割り切り、赤字だらけの領地を立て直してきた。帳簿を整え、税の徴収を正し、交易路を広げ、収穫が不安定な年には備蓄を回す――伯爵家の体裁を保ってきたのは、いつも彼女の実務だった。 だがある日、夫オスヴァルドが屋敷に連れ帰ったのは“幼馴染”の女とその息子。 「彼女は可哀想なんだ」 「この子を跡取りにする」 そして人前で、平然と言い放つ。 ――「君の息子は、愛人の子の“下”で学べばいい」 その瞬間、リディアの中で何かが静かに終わった。怒鳴らない。泣かない。微笑みすら崩さない。 「承知しました。では――正妻の役目は終わりましたね」

お久しぶりです旦那様。そろそろ離婚ですか?

奏千歌
恋愛
[イヌネコ] 「奥様、旦那様がお見えです」 「はい?」 ベッドの上でゴロゴロしながら猫と戯れていると、侍女が部屋を訪れて告げたことだった。

最弱白竜ですが、なぜか学園最強の銀竜に番認定されました

めめめ
恋愛
竜の血を引く者だけが貴族になれるこの世界で、白竜は最も格の低い竜の証。 白竜の男爵令嬢リーゼロッテは、特待生として国内最高峰の王立竜騎学園に入学する。待っていたのは上位貴族からの蔑みと、学園を支配する四人の御曹司「四竜」。 その筆頭、銀竜公爵家の嫡男ルシアンに初日から啖呵を切ったリーゼは、いじめと嫉妬の嵐に巻き込まれていく。 それでも彼女は媚びない、逃げない、折れない。 やがてルシアンはリーゼから目が離せなくなり―― 白竜の少女が、学園と王国の運命を変える。 身分差×竜×学園ラブファンタジー、開幕。

皆様ありがとう!今日で王妃、やめます!〜十三歳で王妃に、十八歳でこのたび離縁いたしました〜

百門一新
恋愛
セレスティーヌは、たった十三歳という年齢でアルフレッド・デュガウスと結婚し、国王と王妃になった。彼が王になる多には必要な結婚だった――それから五年、ようやく吉報がきた。 「君には苦労をかけた。王妃にする相手が決まった」 ということは……もうつらい仕事はしなくていいのねっ? 夫婦だと偽装する日々からも解放されるのね!? ありがとうアルフレッド様! さすが私のことよく分かってるわ! セレスティーヌは離縁を大喜びで受け入れてバカンスに出かけたのだが、夫、いや元夫の様子が少しおかしいようで……? サクッと読める読み切りの短編となっていります!お楽しみいただけましたら嬉しく思います! ※他サイト様にも掲載

復讐の悪女になるはずが、天使系義兄からピュアな執着と溺愛で邪魔されてます!

鈴宮(すずみや)
恋愛
 サウジェリアンナ王国の王女エルシャは、不幸だった前世の記憶を持って生まれてきた。現世ではみんなから愛され、幸せになれると信じていたエルシャだったが、生後五ヶ月で城が襲撃されてしまう。  絶体絶命かと思いきや、エルシャは魔術師の男性から救出された上『リビー』という新たな名前を与えられ、養女として生きることに。  襲撃がジルヴィロスキー王国によるものと気づいたリビーは、復讐のため王太子妃になることを思いつく。けれど、義理の兄であるゼリックがあまりにもリビーを溺愛するため、せっかく王太子アインハードに近づくことに成功しても、無邪気に邪魔され計画がうまく進まない。  ゼリックの干渉を減らすためリビーは彼の婚約者を探したり、ゼリック抜きでアインハードとお茶をして復讐を成功させようと画策する。  そんな中、十六歳に成長したリビーはアインハードと同じ学園に入学し、本格的なアプローチを開始する。しかし、ゼリックが講師として学園へ来てしまい、チャンスをことごとく潰されてしまう。 (わたしは復讐がしたいのに!)  そう思うリビーだったが、ゼリックから溺愛される日々はとても幸せで……?

処理中です...