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よかった…?
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夜が明け、灰色の朝が訪れた。
リリスは寝台から体を起こし、強張った四肢を動かす。
鏡に映る自身の顔には生気がなく、瞳は澱んだ沼のように光を失っていた。
答えは出なかった。
告発することも、接触することも選べぬまま、ただ時間だけが過ぎ去っていった。
彼女は作業着に袖を通し、重い足取りで部屋を出た。
廊下には既に監視役の冒険者が立っており、無言で彼女の背後についた。
ギルドのホールへ降りると、喧騒が一瞬にして止み、冷たい沈黙が広がった。
リリスは視線を床に固定し、清掃用具を手に取る。
彼女がモップを床に滑らせるたび、背後からひそやかな囁き声が波のように押し寄せた。
「まだ居るのか」「空気が穢れる」「近寄るな」言葉の一つ一つが、見えない刃となって彼女の精神を薄く削り取っていく。
彼女は感情を凍結させ、機械のように手を動かし続けた。
だが、その指先は微かに震え、呼吸は浅く、乱れていた。
扉が乱暴に開かれ、冷気を帯びた風と共にフィオナが踏み込んできた。
彼女の銀色の髪は風に靡き、琥珀色の瞳は獲物を探す猛禽類のように鋭く細められていた。
彼女の背後には武装した帝国兵が続き、ギルドの空気は一気に張り詰めたものへと変わった。
フィオナはホールの中央まで大股で歩み寄り、清掃中のリリスの前で足を止めた。
「相変わらず、薄汚いふりをしていることね」
フィオナの声は氷のように冷徹だった。
彼女はリリスの顔を覗き込み、その挙動、視線の揺らぎ、不自然な強張りを検分する。
リリスはモップを握る手に力を込め、俯いたまま呼吸を止めた。
その姿は、罪悪感に苛まれる罪人のようにも、恐怖に怯える小動物のようにも見えた。
フィオナは鼻を鳴らし、踵を返してオーギュストの元へ向かった。
カウンターの奥から現れたオーギュストに対し、フィオナは単刀直入に告げた。
「街で再び、微弱だが不審な魔力反応が感知されたわ。私の目は誤魔化せない。この娘、明らかに何かを隠している」
彼女は指先でリリスを指し示した。
その指先には魔力が収束し、微かな火花が散っている。
「監視などという生温い処置では不十分よ。今すぐ拘束し、精神感応魔法による直接尋問を行うべきだわ。彼女の脳をこじ開ければ、スパイの居場所などすぐに吐くでしょう」
オーギュストは眉間に深い皺を刻み、沈黙した。
エヴァが青ざめた顔で進み出て、声を震わせながら訴えた。
「待ってください。彼女はずっと監視下にありました。外部と接触する機会など……」
「黙りなさい、治癒師」
フィオナは一瞥もくれずに切り捨てた。
「情に絆されたあなたの証言になど、価値はないわ。オーギュスト殿、帝国の安全のためです。拒否するなら、相応の手段を取らせてもらう」
リリスは血の気が引くのを感じた。
精神への直接干渉。
それをされれば、メルのこと、自分の迷い、全てが暴かれる。
彼女は膝が震え、立っているのがやっとの状態だった。
フィオナが再びリリスに向き直り、魔杖を構えようとした、その時だった。
フィオナの腰に提げられた魔導通信機が、甲高い警告音を発した。
彼女は舌打ちをして通信機を取り出し、耳に当てた。
「……何? ……場所は? ……第1区画だと?」
彼女の表情が驚愕に染まり、次いで悔しげに歪んだ。
第1区画。
それはここから最も離れた、貴族街のあるエリアだった。
「馬鹿な……ここからでは、転移魔法を使わない限り間に合わない……」
通信機からは、部下の悲鳴と爆発音が漏れ聞こえていた。
強力な魔族反応。
それは現在進行形で暴れている脅威であり、今ここにいるリリスには物理的に不可能な犯行だった。
「ちっ……! 小賢しい真似を!」
フィオナは通信機を握り潰さんばかりに強く握りしめ、リリスを睨みつけた。
「命拾いしたわね、汚れた娘。だが、これで終わったと思わないことよ」
彼女は憎悪を込めて吐き捨てると、マントを翻して出口へと疾走した。
兵士たちが慌ただしくその後を追う。
扉が激しい音を立てて閉まり、ギルドには再び静寂が戻った。
リリスは力が抜け、その場に崩れ落ちそうになるのを、モップの柄に縋り付いて辛うじて堪えた。
第1区画。
遠い。
ここからは、あまりにも遠い。
そして、強力な反応。
メルではない。
あの子は、あんな小さな体で、あんな場所で暴れたりしない。
あの子はただの、寂しがり屋の孤児なのだ。
リリスは深く、長く息を吐いた。
肺に溜まっていた鉛のような空気が抜け、代わりに微かな安堵が満ちていく。
メルは敵ではなかった。
私の迷いは、杞憂だったのかもしれない。
彼女は震える手で自身の胸を押さえ、誰も見ていない床の染みを見つめながら、心の中で小さく呟いた。
よかった、と。
リリスは寝台から体を起こし、強張った四肢を動かす。
鏡に映る自身の顔には生気がなく、瞳は澱んだ沼のように光を失っていた。
答えは出なかった。
告発することも、接触することも選べぬまま、ただ時間だけが過ぎ去っていった。
彼女は作業着に袖を通し、重い足取りで部屋を出た。
廊下には既に監視役の冒険者が立っており、無言で彼女の背後についた。
ギルドのホールへ降りると、喧騒が一瞬にして止み、冷たい沈黙が広がった。
リリスは視線を床に固定し、清掃用具を手に取る。
彼女がモップを床に滑らせるたび、背後からひそやかな囁き声が波のように押し寄せた。
「まだ居るのか」「空気が穢れる」「近寄るな」言葉の一つ一つが、見えない刃となって彼女の精神を薄く削り取っていく。
彼女は感情を凍結させ、機械のように手を動かし続けた。
だが、その指先は微かに震え、呼吸は浅く、乱れていた。
扉が乱暴に開かれ、冷気を帯びた風と共にフィオナが踏み込んできた。
彼女の銀色の髪は風に靡き、琥珀色の瞳は獲物を探す猛禽類のように鋭く細められていた。
彼女の背後には武装した帝国兵が続き、ギルドの空気は一気に張り詰めたものへと変わった。
フィオナはホールの中央まで大股で歩み寄り、清掃中のリリスの前で足を止めた。
「相変わらず、薄汚いふりをしていることね」
フィオナの声は氷のように冷徹だった。
彼女はリリスの顔を覗き込み、その挙動、視線の揺らぎ、不自然な強張りを検分する。
リリスはモップを握る手に力を込め、俯いたまま呼吸を止めた。
その姿は、罪悪感に苛まれる罪人のようにも、恐怖に怯える小動物のようにも見えた。
フィオナは鼻を鳴らし、踵を返してオーギュストの元へ向かった。
カウンターの奥から現れたオーギュストに対し、フィオナは単刀直入に告げた。
「街で再び、微弱だが不審な魔力反応が感知されたわ。私の目は誤魔化せない。この娘、明らかに何かを隠している」
彼女は指先でリリスを指し示した。
その指先には魔力が収束し、微かな火花が散っている。
「監視などという生温い処置では不十分よ。今すぐ拘束し、精神感応魔法による直接尋問を行うべきだわ。彼女の脳をこじ開ければ、スパイの居場所などすぐに吐くでしょう」
オーギュストは眉間に深い皺を刻み、沈黙した。
エヴァが青ざめた顔で進み出て、声を震わせながら訴えた。
「待ってください。彼女はずっと監視下にありました。外部と接触する機会など……」
「黙りなさい、治癒師」
フィオナは一瞥もくれずに切り捨てた。
「情に絆されたあなたの証言になど、価値はないわ。オーギュスト殿、帝国の安全のためです。拒否するなら、相応の手段を取らせてもらう」
リリスは血の気が引くのを感じた。
精神への直接干渉。
それをされれば、メルのこと、自分の迷い、全てが暴かれる。
彼女は膝が震え、立っているのがやっとの状態だった。
フィオナが再びリリスに向き直り、魔杖を構えようとした、その時だった。
フィオナの腰に提げられた魔導通信機が、甲高い警告音を発した。
彼女は舌打ちをして通信機を取り出し、耳に当てた。
「……何? ……場所は? ……第1区画だと?」
彼女の表情が驚愕に染まり、次いで悔しげに歪んだ。
第1区画。
それはここから最も離れた、貴族街のあるエリアだった。
「馬鹿な……ここからでは、転移魔法を使わない限り間に合わない……」
通信機からは、部下の悲鳴と爆発音が漏れ聞こえていた。
強力な魔族反応。
それは現在進行形で暴れている脅威であり、今ここにいるリリスには物理的に不可能な犯行だった。
「ちっ……! 小賢しい真似を!」
フィオナは通信機を握り潰さんばかりに強く握りしめ、リリスを睨みつけた。
「命拾いしたわね、汚れた娘。だが、これで終わったと思わないことよ」
彼女は憎悪を込めて吐き捨てると、マントを翻して出口へと疾走した。
兵士たちが慌ただしくその後を追う。
扉が激しい音を立てて閉まり、ギルドには再び静寂が戻った。
リリスは力が抜け、その場に崩れ落ちそうになるのを、モップの柄に縋り付いて辛うじて堪えた。
第1区画。
遠い。
ここからは、あまりにも遠い。
そして、強力な反応。
メルではない。
あの子は、あんな小さな体で、あんな場所で暴れたりしない。
あの子はただの、寂しがり屋の孤児なのだ。
リリスは深く、長く息を吐いた。
肺に溜まっていた鉛のような空気が抜け、代わりに微かな安堵が満ちていく。
メルは敵ではなかった。
私の迷いは、杞憂だったのかもしれない。
彼女は震える手で自身の胸を押さえ、誰も見ていない床の染みを見つめながら、心の中で小さく呟いた。
よかった、と。
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