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聖なる反撃
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遠く第1区画から響く爆音が、石畳を微かに揺らしていた。
路地裏の湿った影の中、メルは膝の上で古びた人形を撫でながら、その音を聴いていた。
唇が小さく歪み、悲しげな笑みが浮かぶ。
聞こえる。
同胞たちの魂が砕け散る音が。
彼らは自らの命を薪とし、紅蓮の炎となって、人間たちの目を欺くための篝火となったのだ。
弱い我らは、こうして血肉を捧げることでしか、強大な人間の暴力に対抗する術を持たない。
一人は囮となり、一人は盾となり、そして一人は、歴史の影に埋もれる捨て石となる。
「ありがとう。あなたたちの痛みは、無駄にはしない」
メルは独りごちた。
その声は震え、純粋な哀悼の色を帯びていた。
彼らは知っていたのだ。
自分たちが捨て駒であることを。
帝国の誇る「冬の森の断罪者」フィオナの目を欺くには、命を燃やすほどの強烈な魔力反応が必要であることを。
メルは自身の掌を見つめた。
白く華奢な少女の手。
「あのお姉さん……リリス、だったか。彼女のおかげだよ」
偶然の出会い。
魔族の血を引くあの娘が、無自覚に垂れ流す微弱な魔力の波紋。
それがノイズとなり、フィオナの鋭敏な感知能力を霧で覆うように撹乱してくれた。
彼女がギルドで疑われ、監視されている間に、我々は布石を完了させた。
意図したことではなかったかもしれない。
けれど、結果として彼女は同胞を守ったのだ。
メルは感謝などしていなかった。
ただ、運命の皮肉な巡り合わせを噛み締めていた。
「ごめんね。君もまた、人間に虐げられる側なのに」
呟きと共に、メルの輪郭が陽炎のように揺らぎ始めた。
骨格が軋み、皮膚が泡立つように変質する。
黒いワンピースが魔力の粒子となって霧散し、その下から、本来の肉体が露わになった。
伸びた手足。
引き締まった筋肉。
額から伸びる、捻じれた二本の黒い角。
そして、背中には飛膜を失った傷跡のある翼痕。
そこに立っていたのは、無邪気な少女などではない。
深い絶望と、それを上回る殺意をその身に宿した、一人の魔族の青年だった。
青年は、生成された漆黒のコートの懐から、大切に包まれた油紙を取り出した。
震える指先でそれを開く。
中には、一枚の古びた写真が入っていた。
端が焼け焦げ、セピア色に変色しているが、そこに写る二人の子供の笑顔は、今の彼には眩しすぎるほど鮮明だった。
一人は、まだ角の生えかけの、気弱そうな少年の自分。
そしてもう一人は、野の花を髪に飾り、太陽のような笑顔を向ける少女。
「……アイリス」
青年は、その名を呼ぶだけで、喉が焼き付くような感覚を覚えた。
およそ20年前か。
人類が「聖戦」と称する侵略。
村は焼かれた。
大人たちは殺され、子供たちは奴隷として鎖に繋がれた。
青年は思い出す。
炎の中で、帝国兵に腕を引かれていくアイリスの姿を。
彼女は泣き叫びながら、何度も、何度も、彼の方へ手を伸ばしていた。
助けて! 助けて!
だが、当時の彼はあまりにも弱かった。
恐怖で足が竦み、瓦礫の陰で息を殺し、愛する婚約者が連れ去られるのを、ただ見ていることしかできなかった。
「オレは……逃げた。君の手を離して、自分だけが生き延びた」
写真の表面に、大粒の涙が落ちた。
それは乾いた石畳に染みを作り、消えていく。
20年。
長い、あまりにも長い歳月だった。
その間、彼は地獄を這いずり回った。
力を求めて禁忌に触れ、肉体を改造し、心を憎悪で塗り固めた。
全ては、この日のために。
アイリスがどうなったのかは知らない。
だが、人間の玩具にされ、幸福な結末など迎えているはずがない。
彼女の笑顔を奪ったのは、人間たちの傲慢な正義だ。
彼らは「魔族は悪だ」と叫びながら、我々の村を焼き、女を奪い、尊厳を踏みにじった。
あの時、自分はあまりにも無力だった。
ただ隠れて、震えて、親友が連れ去られるのを見ていることしかできなかった。
人間は言う。
魔族は悪だと。
世界を脅かす災厄だと。
だが、本当に悪魔なのはどちらか。
純粋な愛を踏みにじり、違いを許さず、弱い者を食い物にして繁栄を貪る者たちこそが、真の怪物ではないのか。
瞳から一筋の涙が零れ落ち、石畳に染みを作った。
その涙は悲しみの雫であり、同時に、決して消えることのない憎悪の結晶でもあった。
ならば、今こそ思い知らせてやる必要がある。
奪われる痛み、焼かれる恐怖、理不尽な暴力によって全てを失う絶望を。
青年は、愛おしげに写真に口づけを落とすと、再び懐深くへと仕舞い込んだ。
涙は既に止まっていた。
その瞳に残っているのは、冷え切った硝子のような、研ぎ澄まされた殺意のみ。
「見ていてくれ、アイリス」
彼は路地の出口へ向けて歩き出した。
その足取りに、もはや迷いはない。
フィオナはいない。
オーギュストの主力部隊も出払った。
今のギルドにあるのは、傷ついた弱者と、油断しきった偽善者たちだけだ。
「20年遅れたけれど……今のオレなら、返せる。君が受けた痛みの、千倍の苦しみを、彼らに」
それは魔族にとっての、遅すぎた、しかし聖なる反撃の狼煙だった。
路地裏の湿った影の中、メルは膝の上で古びた人形を撫でながら、その音を聴いていた。
唇が小さく歪み、悲しげな笑みが浮かぶ。
聞こえる。
同胞たちの魂が砕け散る音が。
彼らは自らの命を薪とし、紅蓮の炎となって、人間たちの目を欺くための篝火となったのだ。
弱い我らは、こうして血肉を捧げることでしか、強大な人間の暴力に対抗する術を持たない。
一人は囮となり、一人は盾となり、そして一人は、歴史の影に埋もれる捨て石となる。
「ありがとう。あなたたちの痛みは、無駄にはしない」
メルは独りごちた。
その声は震え、純粋な哀悼の色を帯びていた。
彼らは知っていたのだ。
自分たちが捨て駒であることを。
帝国の誇る「冬の森の断罪者」フィオナの目を欺くには、命を燃やすほどの強烈な魔力反応が必要であることを。
メルは自身の掌を見つめた。
白く華奢な少女の手。
「あのお姉さん……リリス、だったか。彼女のおかげだよ」
偶然の出会い。
魔族の血を引くあの娘が、無自覚に垂れ流す微弱な魔力の波紋。
それがノイズとなり、フィオナの鋭敏な感知能力を霧で覆うように撹乱してくれた。
彼女がギルドで疑われ、監視されている間に、我々は布石を完了させた。
意図したことではなかったかもしれない。
けれど、結果として彼女は同胞を守ったのだ。
メルは感謝などしていなかった。
ただ、運命の皮肉な巡り合わせを噛み締めていた。
「ごめんね。君もまた、人間に虐げられる側なのに」
呟きと共に、メルの輪郭が陽炎のように揺らぎ始めた。
骨格が軋み、皮膚が泡立つように変質する。
黒いワンピースが魔力の粒子となって霧散し、その下から、本来の肉体が露わになった。
伸びた手足。
引き締まった筋肉。
額から伸びる、捻じれた二本の黒い角。
そして、背中には飛膜を失った傷跡のある翼痕。
そこに立っていたのは、無邪気な少女などではない。
深い絶望と、それを上回る殺意をその身に宿した、一人の魔族の青年だった。
青年は、生成された漆黒のコートの懐から、大切に包まれた油紙を取り出した。
震える指先でそれを開く。
中には、一枚の古びた写真が入っていた。
端が焼け焦げ、セピア色に変色しているが、そこに写る二人の子供の笑顔は、今の彼には眩しすぎるほど鮮明だった。
一人は、まだ角の生えかけの、気弱そうな少年の自分。
そしてもう一人は、野の花を髪に飾り、太陽のような笑顔を向ける少女。
「……アイリス」
青年は、その名を呼ぶだけで、喉が焼き付くような感覚を覚えた。
およそ20年前か。
人類が「聖戦」と称する侵略。
村は焼かれた。
大人たちは殺され、子供たちは奴隷として鎖に繋がれた。
青年は思い出す。
炎の中で、帝国兵に腕を引かれていくアイリスの姿を。
彼女は泣き叫びながら、何度も、何度も、彼の方へ手を伸ばしていた。
助けて! 助けて!
だが、当時の彼はあまりにも弱かった。
恐怖で足が竦み、瓦礫の陰で息を殺し、愛する婚約者が連れ去られるのを、ただ見ていることしかできなかった。
「オレは……逃げた。君の手を離して、自分だけが生き延びた」
写真の表面に、大粒の涙が落ちた。
それは乾いた石畳に染みを作り、消えていく。
20年。
長い、あまりにも長い歳月だった。
その間、彼は地獄を這いずり回った。
力を求めて禁忌に触れ、肉体を改造し、心を憎悪で塗り固めた。
全ては、この日のために。
アイリスがどうなったのかは知らない。
だが、人間の玩具にされ、幸福な結末など迎えているはずがない。
彼女の笑顔を奪ったのは、人間たちの傲慢な正義だ。
彼らは「魔族は悪だ」と叫びながら、我々の村を焼き、女を奪い、尊厳を踏みにじった。
あの時、自分はあまりにも無力だった。
ただ隠れて、震えて、親友が連れ去られるのを見ていることしかできなかった。
人間は言う。
魔族は悪だと。
世界を脅かす災厄だと。
だが、本当に悪魔なのはどちらか。
純粋な愛を踏みにじり、違いを許さず、弱い者を食い物にして繁栄を貪る者たちこそが、真の怪物ではないのか。
瞳から一筋の涙が零れ落ち、石畳に染みを作った。
その涙は悲しみの雫であり、同時に、決して消えることのない憎悪の結晶でもあった。
ならば、今こそ思い知らせてやる必要がある。
奪われる痛み、焼かれる恐怖、理不尽な暴力によって全てを失う絶望を。
青年は、愛おしげに写真に口づけを落とすと、再び懐深くへと仕舞い込んだ。
涙は既に止まっていた。
その瞳に残っているのは、冷え切った硝子のような、研ぎ澄まされた殺意のみ。
「見ていてくれ、アイリス」
彼は路地の出口へ向けて歩き出した。
その足取りに、もはや迷いはない。
フィオナはいない。
オーギュストの主力部隊も出払った。
今のギルドにあるのは、傷ついた弱者と、油断しきった偽善者たちだけだ。
「20年遅れたけれど……今のオレなら、返せる。君が受けた痛みの、千倍の苦しみを、彼らに」
それは魔族にとっての、遅すぎた、しかし聖なる反撃の狼煙だった。
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