奴隷魔族の私に、幸せは訪れない〜救いを求めた少女が、世界の敵になるまで〜

鹿の子

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メル…?

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血と膿の臭気が支配するギルドホールに、束の間の静寂が訪れた。

呻き声は途絶え、ただ荒い呼吸音だけが澱んだ空気を揺らしている。

リリスは血に塗れた両手を見つめ、自身の足元に広がる赤い染みを視認した。

エヴァは力尽きたように椅子に崩れ落ち、他の冒険者たちも泥のように眠っている。

戦場のような治療劇は幕を下ろした。

だが、その静けさが、リリスの胸中に潜む一つの棘を鋭く疼かせた。

メル。

あの黒衣の少女。

路地裏に潜む、魔族の血を引く孤児。

爆音と悲鳴が遠く響く中、彼女はどこにいるのか。

人間を拒絶し、人間に拒絶される彼女が、このギルドへ避難してくることなどあり得ない。

魔族の血が濃い者は、人間に殺される。

ならば、彼女は今もあの暗い路地裏で、瓦礫の雨に怯えながら、たった一人で古びた人形を抱いているのではないか。

想像が、リリスの心臓を鷲掴みにした。

かつて「煤の底」で、誰の助けも来ない暗闇の中で震えていた幼き日の自分と、少女の姿が重なる。

見捨てるのか。

自らの保身のために、あの子を見殺しにするのか。

リリスは顔を上げた。

その瞳に、迷いの色は消えていた。

リリスは傍らで欠伸を噛み殺していた監視役の男に歩み寄った。

男は気怠げに視線を向け、剣の柄に手を置いた。

「まだ、終わっていない場所があります」

リリスの声は低く、しかし確信に満ちていた。

「裏通りの廃棄区画です。あそこには身寄りのない者たちが隠れていることがあります。彼らはギルドまで来る体力がないかもしれない」

男は眉をひそめた。

「今は非常時だ。持ち場を離れる許可は……」

「エヴァさんが言っていました。一人も見捨てるなと」

リリスは嘘をついた。

敬愛する治癒師の名を、自らの目的のために利用した。

罪悪感が胸を刺すが、彼女は表情一つ変えず、ただ真っ直ぐに男を見据えた。

「私が薬を持って行きます。確認するだけです。すぐに戻ります」

男はリリスの血に塗れた作業着と、これまでの献身的な働きを思い出したのか、あるいは単なる疲労からか、短く息を吐いて手を振った。

「……さっさと行け。だが、妙な真似をしたらすぐに斬るぞ」

「はい」

リリスは治療鞄を掴み、裏口へと走った。

重い鉄扉を押し開け、冷たい夜気の中に身を躍らせる。

雨上がりの石畳を蹴り、彼女は闇の中へと疾走した。

その背中は、罪人の逃亡ではなく、使命を帯びた者のように見えた。

一方、街の東端。

都市防衛結界の魔力供給塔が聳える広場に、一人の男が立っていた。

メル、あるいは真名メルクリウス。

変身を解いた彼は、捻じれた角を月光に晒し、その足元に広げられた複雑怪奇な図面を見下ろしていた。

それは、帝国が誇る絶対防御の要、「サラス防衛結界」の設計図であった。

同志たちが命を賭して盗み出し、彼に託した、人類の驕りの象徴。

「……傲慢な石積みだ」

メルクリウスは指先で図面をなぞった。

魔力の流路、術式の結節点、そして意図的に隠蔽された脆弱性。

人間の魔導師たちは、この結界を無敵と信じている。

だが、強固すぎる城壁は、内側からの亀裂に脆い。

彼は懐から、あの古びた写真を取り出した。

風に煽られ、写真の中のアイリスが揺れる。

20年前。

炎に包まれた故郷。

略奪される同胞。

そして、連れ去られた最愛の少女。

人間たちは正義を叫びながら、我々を殺した。

彼らにとって、魔族の命など路傍の石ころ以下の価値しかなかった。

だが、石ころにも魂はある。

踏みにじられた者にも、牙はある。

「アイリス。オレはもう、泣かない」

彼は写真を懐に戻し、両手を天に掲げた。

その掌に、どす黒い魔力が収束していく。

それは復讐の炎であり、同時に弔いの灯火でもあった。

メルクリウスの唇が、呪詛のような詠唱を紡ぎ始める。

「深淵の底より這い出し、光を蝕む黒き蛇よ。

 偽りの天蓋を食い破り、忘却された嘆きを奏でよ。

 代償は我が血、我が記憶、我が未来。

 全てを賭して、今、神の座を堕とさん」

空間が歪み、大気が悲鳴を上げる。

「砕けろ――【虚空崩界】」

彼の掌から放たれた漆黒の波動が、目に見えぬ結界の急所へと突き刺さった。

音はない。

だが次の瞬間、夜空を覆っていた薄い光の膜に、巨大な亀裂が走った。

ガラスが砕けるような幻聴が、都市中の人々の脳裏に響き渡る。

聖なる守りは破られた。

メルクリウスは、崩れゆく光の破片を浴びながら、静かに、しかし凄絶に笑った。
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