奴隷魔族の私に、幸せは訪れない〜救いを求めた少女が、世界の敵になるまで〜

鹿の子

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私は……魔族でも、人間でもない

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湿った冷気が石畳から染み出し、地下特有の淀んだ空気が肺を満たす。

重厚な鉄扉が閉ざされた瞬間、外界の光は完全に断たれた。

残されたのは、廊下の壁に埋め込まれた魔石灯の頼りない薄明かりと、鉄格子の向こうから漂う錆びた鉄の臭いだけである。

リリスは壁際の冷たい石床に投げ出されていた。

両手首と両足首には、黒ずんだ金属製の枷が嵌められている。

表面に刻まれた封印術式が脈打つように淡い紫光を放ち、彼女の体内を巡る魔力の循環を強制的に阻害していた。

指先を動かそうとするだけで、鉛を流し込まれたような鈍重な疲労感が全身を襲う。

魔族の血が持つ再生能力さえも、この鎖の前では沈黙を強いられていた。

天井の遥か上方、分厚い石盤を隔てた地上から、断続的な轟音が響いてくる。

ズン、ズン、と腹の底に響く振動。

時折、何かが爆ぜるような高い破裂音が混じり、それに続いて微かな、しかし確かな人間の悲鳴が耳朶を打つ。

「……あっ、う……」

リリスは枷の重みに耐えながら、鉄格子に縋り付いた。

冷たい鉄の感触が頬に押し当てられる。

その冷たさだけが、ここが現実であることを告げていた。

戦いが始まったのだ。

メルクリウスが解き放った魔族の軍勢が、サラスの街を、そしてギルドを蹂躙し始めている。

あの爆音の下で、誰かが傷つき、誰かが血を流し、誰かが命を落としている。

その中には、顔見知りの冒険者もいるかもしれない。

あるいは、エヴァやオーギュストかもしれない。

「出して……お願い、出して……!」

リリスは嗄れた声で叫んだ。

しかし、返ってくるのは自身の声の虚しい反響のみ。

誰も来ない。

監視兵さえも、地上の防衛に駆り出されたのか、気配は遠ざかっていた。

リリスはズルズルと崩れ落ち、膝を抱えた。

なぜ、こうなってしまったのか。

彼女は自問する。

私は、ただ守りたかっただけだ。

母を救えなかった無力な過去を乗り越え、今度こそ、大切な人たちを守りたかった。

そのために、人間の中で生きることを選び、蔑まれる痛みに耐え、血の滲むような努力で居場所を作ってきたはずだった。

それなのに、結果はどうだ。

「……裏切り者」

オーギュストの言葉が、呪いのように脳裏で繰り返される。

あの時、彼の目には明確な敵意があった。

魔族の手引きをした内通者。

恩を仇で返す汚れた存在。

否定できなかった。

メルクリウスと会っていたのは事実だ。

彼が母の婚約者であり、自分の同胞であることも事実だ。

人間から見れば、それは紛れもない「敵」との接触であり、裏切りの証拠に他ならない。

自分は一体、何者なのか。

リリスは自身の両手を見つめた。

薄暗い灯りの中で、その手は人間の少女のように白く、弱々しく見える。

しかし、その皮膚の下には、人間たちが忌み嫌う魔族の血が流れている。

メルクリウスは言った。

「我々は被害者だ」と。

確かにそうだ。

母アイリスは何も悪いことをしていないのに、人間の欲望によって全てを奪われ、死んだ。

あの娼館での地獄のような日々。

ゼノンたち人間に見捨てられた絶望。

それらは決して消えない傷として、リリスの魂に刻まれている。

同胞たちの復讐には、正当な理由があるのかもしれない。

人間たちの傲慢さが招いた因果応報なのかもしれない。

けれど。

「……それでも」

リリスは唇を噛み締めた。

鉄の味が口の中に広がる。

正義や大義など、今の彼女にはどうでもよかった。

魔族が正しかろうと、人間が悪だろうと、そんな理屈で心は動かない。

彼女の心にあるのは、もっと原始的で、個人的な感情だけだ。

エヴァの笑顔。

「おはよう、リリス」と呼んでくれる優しい声。

怪我をした時に塗ってくれた軟膏の匂い。

二人で分け合った硬いパンの味。

オーギュストの不器用な庇護。

「仕事だ」と言って渡された温かいスープ。

ギルドという場所で感じた、初めての「安心」。

それらは、種族の対立などという巨大な枠組みを超えた、確かな真実だった。

メルクリウスが言う「魔族の誇り」よりも、リリスにとってはエヴァの手の温もりの方が、遥かに尊く、守るべきものだった。

「私は……魔族でも、人間でもない……」

リリスは独白する。

「私は、リリスだ。エヴァさんの家族になりたい、ただのリリスだ」

どちらの陣営にも属せない。

魔族からは「人間に飼い慣らされた裏切り者」と罵られ、人間からは「魔族のスパイ」と断罪される。

どこにも居場所はない。

世界中の誰からも否定され、孤立無援の闇の中にいる。

それでも、守りたいという想いだけが、消えかけた蝋燭の灯火のように揺らめいている。

再び、大きな爆発音が轟いた。

今度は近い。

直上だ。

ギルドの建物自体が悲鳴を上げるように軋み、天井からパラパラと砂埃が落ちてくる。

「っ!」

リリスは身を縮め、頭を覆った。

始まったのだ。

ギルドへの直接攻撃が。

メルクリウスの宣言通り、魔族の精鋭たちが手薄になったギルドを急襲したに違いない。

ギルダさんはいない。

彼女は覚醒級以上の戦力として、第1区画あるいは東門の防衛に出払っている。

今、このギルドに残っているのは、負傷して動けない冒険者たちと、戦闘力を持たない職員、そして魔力枯渇寸前のエヴァだけだ。

そして、指揮を執るオーギュスト。

彼は強いが、多勢に無勢だ。

それに、彼はきっと逃げない。

最後まで仲間を守って戦い、死ぬだろう。

「いや……いやだ……!」

リリスは鎖を引いた。

ガチャン、ガチャンと金属音が地下牢に響く。

手首の皮膚が擦り切れ、血が滲む。

痛みなど感じない。

「出して! お願い、行かせて! 私が……私が戦うから!」

魔封じの鎖が光り、リリスの身体に走る激痛を増幅させる。

焼けるような感覚が神経を焼き切ろうとする。

それでも彼女は鉄格子を蹴り、鎖を引っ張り続けた。

ここで自分が動かなければ、エヴァが死ぬ。

オーギュストが死ぬ。

自分の「家族」が、またしても理不尽な暴力によって奪われる。

母の時と同じように。

「うあああああっ!」

リリスは叫んだ。

それは言葉にならない獣の咆哮に近い。

涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、彼女は己の無力さを呪い、運命を呪い、そして神がいるのなら、その残酷さを呪った。

私は人殺しでもいい。

裏切り者でもいい。

汚れた存在で構わない。

だから、神様。

どうか、あの人たちだけは。

私に初めて優しくしてくれた、あの人たちだけは連れて行かないで。

鉄格子の冷たさに額を押し付け、リリスは嗚咽した。

遠くで響く爆音は、彼女の祈りを嘲笑うかのように、激しさを増していくだけだった。
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