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みのがして
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魔狼の喉の奥から、湿った唸り声が漏れる。
開かれた顎から粘つく涎が滴り、エヴァの足元の石畳を濡らす。
腐肉の臭気と、獣の体温が混じった生温かい風が、隠れ場所である瓦礫の隙間に吹き込む。
エヴァはリリスの頭を胸に抱き寄せ、自身の背中で彼女を覆い隠すように縮こまる。
逃げ場はない。
背後の通路は崩れかけ、目の前には死神の使いが牙を剥いている。
魔狼が後脚に力を溜め、飛び掛かる予備動作に入る。
エヴァは強く目を閉じた。
せめて、この子が痛みを感じる前に。
彼女の思考が途切れかけた、その時であった。
空間が軋む音がした。
魔狼の動きが、空中で静止したかのように硬直する。
獣の喉から漏れていた威嚇音が、怯えた悲鳴へと変わり、巨大な体躯が地面に平伏する。
冷気が満ちる。
瓦礫の陰に潜むエヴァの肌に、氷の針で刺されたような悪寒が走る。
靴音が響く。
獣の吐息すら消え失せた静寂の中、硬い靴底が石を踏む音だけが、一定のリズムで近づいてくる。
カツ、カツ、カツ。
エヴァはおそるおそる顔を上げた。
赤い松明の光が揺れる裏口の前に、一人の男が立っている。
漆黒のロングコート。
額から伸びる捻じれた角。
そして、深淵のような哀しみを湛えた瞳。
メルクリウスである。
彼は平伏する魔狼たちに目もくれず、真っ直ぐにエヴァとリリスの隠れる瓦礫へと歩み寄る。
エヴァは息を呑み、リリスを抱く腕に力を込めたが、体は金縛りにあったように動かない。
男から放たれる圧倒的な魔力の質量が、生物としての格の違いを無慈悲に突きつけ、抵抗の意思を根こそぎ奪い去っていた。
メルクリウスが足を止める。
エヴァの眼前、わずか数歩の距離。
彼はゆっくりと視線を落とし、エヴァの腕の中でぐたりとしている少女を見つめた。
その表情には、憎悪でも殺意でもなく、張り裂けんばかりの痛切な哀愁が浮かんでいた。
「……リリス」
紡がれた声は低く、そして優しかった。
それは敵に対するものではなく、失われた過去への呼びかけのようであった。
「我が愛しき人の娘よ。アイリスの血を引く、唯一の希望よ」
メルクリウスは膝を折り、エヴァを無視してリリスの頬に触れようと手を伸ばす。
指先が震えている。
「なぜだ」
問いかけと共に、彼の瞳に暗い炎が宿る。
「なぜ、そこまでする。なぜ、貴様の母を奪い、尊厳を踏みにじり、地獄へ突き落とした人間どものために、その命を燃やす」
彼はリリスの傷だらけの身体を視線でなぞる。
焼かれた背中、砕けて再生した手首、魔力枯渇による衰弱。
そのすべてが、人間を守るために負った代償である事実が、彼の胸をえぐる。
「アイリスが味わった屈辱を忘れたか。あの優しかった女が、家畜以下の扱いを受け、最後には炎の中で朽ち果てた無念を、貴様は知っているはずだ」
メルクリウスの声が震え、悲痛な響きを帯びる。
「それとも、魔族の血を裏切り、母を殺した種族の犬として死ぬことが、貴様の望みなのか」
「……う……」
微かな呻き声が、リリスの喉から漏れた。
メルクリウスの声が、混濁した意識の底に届いたのか。
リリスの瞼が、重そうに持ち上がる。
焦点の定まらない瞳が、彷徨った末に、目の前の黒い人影を捉える。
角。
哀しい瞳。
かつて母が、古い写真を見つめながら語っていた面影。
リリスは、それが誰であるかを本能で理解する。
「……おじ……さま……?」
掠れた声。
空気が漏れるような、頼りない音。
メルクリウスの指先がピクリと止まる。
リリスは、震える手でエヴァの腕を掴んだ。
自分を抱きしめる温かい体温。
命を懸けて自分を運び、守ろうとしてくれている人。
リリスは残された最後の力を振り絞り、メルクリウスを見つめ返した。
「……おねがい……します……」
「……何をだ」
「このひと……だけは……エヴァさん……だけは……」
リリスの瞳から、一筋の涙が零れ落ちる。
「……ころさないで……」
メルクリウスの眉間が険しく寄る。
「人間だぞ。貴様を利用し、蔑む人間の一人だ」
「ちが……う……」
リリスは首を横に振ろうとして、力なく枕元の瓦礫に頭を預けた。
「……ママが……私を愛してくれたように……この人も……私を……愛してくれた……」
リリスは血の滲む唇を動かし、母の元婚約者である魔族の指揮者に、情を乞う。
「……貴方が……ママを……愛していたなら……わかる……はず……」
愛する者を守りたいという想い。
理屈でも、種族の恨みでもない。
ただ純粋な、個としての情愛。
「……アイリスの……娘の……おねがい……」
リリスの手が、力尽きてエヴァの腕から滑り落ちる。
「……みのがして……」
場に、重い沈黙が降りる。
メルクリウスは、動かなくなった少女の手を見つめ、凍り付いたように立ち尽くしていた。
開かれた顎から粘つく涎が滴り、エヴァの足元の石畳を濡らす。
腐肉の臭気と、獣の体温が混じった生温かい風が、隠れ場所である瓦礫の隙間に吹き込む。
エヴァはリリスの頭を胸に抱き寄せ、自身の背中で彼女を覆い隠すように縮こまる。
逃げ場はない。
背後の通路は崩れかけ、目の前には死神の使いが牙を剥いている。
魔狼が後脚に力を溜め、飛び掛かる予備動作に入る。
エヴァは強く目を閉じた。
せめて、この子が痛みを感じる前に。
彼女の思考が途切れかけた、その時であった。
空間が軋む音がした。
魔狼の動きが、空中で静止したかのように硬直する。
獣の喉から漏れていた威嚇音が、怯えた悲鳴へと変わり、巨大な体躯が地面に平伏する。
冷気が満ちる。
瓦礫の陰に潜むエヴァの肌に、氷の針で刺されたような悪寒が走る。
靴音が響く。
獣の吐息すら消え失せた静寂の中、硬い靴底が石を踏む音だけが、一定のリズムで近づいてくる。
カツ、カツ、カツ。
エヴァはおそるおそる顔を上げた。
赤い松明の光が揺れる裏口の前に、一人の男が立っている。
漆黒のロングコート。
額から伸びる捻じれた角。
そして、深淵のような哀しみを湛えた瞳。
メルクリウスである。
彼は平伏する魔狼たちに目もくれず、真っ直ぐにエヴァとリリスの隠れる瓦礫へと歩み寄る。
エヴァは息を呑み、リリスを抱く腕に力を込めたが、体は金縛りにあったように動かない。
男から放たれる圧倒的な魔力の質量が、生物としての格の違いを無慈悲に突きつけ、抵抗の意思を根こそぎ奪い去っていた。
メルクリウスが足を止める。
エヴァの眼前、わずか数歩の距離。
彼はゆっくりと視線を落とし、エヴァの腕の中でぐたりとしている少女を見つめた。
その表情には、憎悪でも殺意でもなく、張り裂けんばかりの痛切な哀愁が浮かんでいた。
「……リリス」
紡がれた声は低く、そして優しかった。
それは敵に対するものではなく、失われた過去への呼びかけのようであった。
「我が愛しき人の娘よ。アイリスの血を引く、唯一の希望よ」
メルクリウスは膝を折り、エヴァを無視してリリスの頬に触れようと手を伸ばす。
指先が震えている。
「なぜだ」
問いかけと共に、彼の瞳に暗い炎が宿る。
「なぜ、そこまでする。なぜ、貴様の母を奪い、尊厳を踏みにじり、地獄へ突き落とした人間どものために、その命を燃やす」
彼はリリスの傷だらけの身体を視線でなぞる。
焼かれた背中、砕けて再生した手首、魔力枯渇による衰弱。
そのすべてが、人間を守るために負った代償である事実が、彼の胸をえぐる。
「アイリスが味わった屈辱を忘れたか。あの優しかった女が、家畜以下の扱いを受け、最後には炎の中で朽ち果てた無念を、貴様は知っているはずだ」
メルクリウスの声が震え、悲痛な響きを帯びる。
「それとも、魔族の血を裏切り、母を殺した種族の犬として死ぬことが、貴様の望みなのか」
「……う……」
微かな呻き声が、リリスの喉から漏れた。
メルクリウスの声が、混濁した意識の底に届いたのか。
リリスの瞼が、重そうに持ち上がる。
焦点の定まらない瞳が、彷徨った末に、目の前の黒い人影を捉える。
角。
哀しい瞳。
かつて母が、古い写真を見つめながら語っていた面影。
リリスは、それが誰であるかを本能で理解する。
「……おじ……さま……?」
掠れた声。
空気が漏れるような、頼りない音。
メルクリウスの指先がピクリと止まる。
リリスは、震える手でエヴァの腕を掴んだ。
自分を抱きしめる温かい体温。
命を懸けて自分を運び、守ろうとしてくれている人。
リリスは残された最後の力を振り絞り、メルクリウスを見つめ返した。
「……おねがい……します……」
「……何をだ」
「このひと……だけは……エヴァさん……だけは……」
リリスの瞳から、一筋の涙が零れ落ちる。
「……ころさないで……」
メルクリウスの眉間が険しく寄る。
「人間だぞ。貴様を利用し、蔑む人間の一人だ」
「ちが……う……」
リリスは首を横に振ろうとして、力なく枕元の瓦礫に頭を預けた。
「……ママが……私を愛してくれたように……この人も……私を……愛してくれた……」
リリスは血の滲む唇を動かし、母の元婚約者である魔族の指揮者に、情を乞う。
「……貴方が……ママを……愛していたなら……わかる……はず……」
愛する者を守りたいという想い。
理屈でも、種族の恨みでもない。
ただ純粋な、個としての情愛。
「……アイリスの……娘の……おねがい……」
リリスの手が、力尽きてエヴァの腕から滑り落ちる。
「……みのがして……」
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メルクリウスは、動かなくなった少女の手を見つめ、凍り付いたように立ち尽くしていた。
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