94 / 97
逃げ場はない
しおりを挟む
瓦礫と化したホールに、静寂は訪れなかった。
オーギュストの巨大な亡骸を見下ろすメルクリウスの瞳には、感情の波紋ひとつ浮かんでいない。
彼は無造作にその死体を跨ぎ、奥で震える冒険者たちへと視線を向けた。
「進め。石一つ、蟲一匹残すな」
抑揚のない声が、死刑判決のように響き渡る。
隣に立つゼクスが、蒼く凍りついた剣を振るった。
「御意」
ゼクスの足元の氷が蠢き、形を成す。
大気中の水分が凝固し、鋭い牙と爪を持つ半透明の獣――氷の猟犬が数体、具現化する。
「狩れ。逃げる者の背を喰らい尽くせ」
猟犬たちは音もなく床を蹴り、エヴァが消えた方角、そして逃げ惑う冒険者たちの背中を追って散開した。
エヴァは走った。
肺が焼けつくような痛みを訴え、魔力が枯渇した身体は鉛のように重い。
腕の中には、意識を失ったリリス。
その身体は温かく、血の匂いと、微かな植物の青臭さが混じっている。
「はぁ……はぁ……ッ!」
背後から、仲間の断末魔が聞こえる。
肉が裂ける音。
氷が砕ける音。
オーギュストの最期の気配が消滅した感覚が、背筋を凍らせる。
だが、エヴァは振り返らない。
振り返れば、足が止まる。
止まれば、リリスも死ぬ。
「生きろ」という老兵の遺言だけが、切れかけた彼女の精神を強引に繋ぎ止めていた。
厨房の奥、棚の裏に隠された狭い通路へ飛び込む。
壁が崩れかけ、天井から砂埃が舞い落ちる暗闇の中を、エヴァはリリスを庇うように屈みながら進んだ。
通路の出口、ギルドの裏口にあたる鉄扉が見えた。
希望の光ではない。
扉の隙間から、赤い松明の光と、獣の唸り声が漏れ出している。
エヴァは足を止め、息を殺して隙間から外を覗いた。
そこには、既に数体のオークと魔狼が展開し、逃げてくる獲物を待ち構えていた。
裏口は封鎖されている。
計算された包囲網。
魔族は最初から、逃げ道など用意していなかったのだ。
「……っ」
エヴァは音を立てずに後退りし、通路の横にある崩れた石壁の陰に身を滑り込ませた。
逃げ場はない。
前には待ち伏せ、後ろからは追っ手。
完全な袋小路。
ズズッ……。
通路の奥から、鼻を鳴らす音が近づいてくる。
ゼクスが放った氷の猟犬か、あるいは血の匂いを嗅ぎつけた魔狼か。
冷たく湿った空気が、エヴァのうなじを撫でる。
リリスの血が、彼女の服に染み込んでいる。
その濃厚な鉄の匂いは、捕食者にとっては極上の道標だ。
エヴァはリリスを強く抱きしめ、自分の体温でその匂いを隠そうとした。
震える手でリリスの口元を塞ぐ。
自分の呼吸すら止める。
すぐそこの曲がり角から、青白い冷気と共に、飢えた獣の荒い息遣いが聞こえてきた。
爪が石床を削る音が、心臓の鼓動と重なる。
見つかる。
殺される。
死の気配が、物理的な重圧となって二人の頭上にのしかかった。
オーギュストの巨大な亡骸を見下ろすメルクリウスの瞳には、感情の波紋ひとつ浮かんでいない。
彼は無造作にその死体を跨ぎ、奥で震える冒険者たちへと視線を向けた。
「進め。石一つ、蟲一匹残すな」
抑揚のない声が、死刑判決のように響き渡る。
隣に立つゼクスが、蒼く凍りついた剣を振るった。
「御意」
ゼクスの足元の氷が蠢き、形を成す。
大気中の水分が凝固し、鋭い牙と爪を持つ半透明の獣――氷の猟犬が数体、具現化する。
「狩れ。逃げる者の背を喰らい尽くせ」
猟犬たちは音もなく床を蹴り、エヴァが消えた方角、そして逃げ惑う冒険者たちの背中を追って散開した。
エヴァは走った。
肺が焼けつくような痛みを訴え、魔力が枯渇した身体は鉛のように重い。
腕の中には、意識を失ったリリス。
その身体は温かく、血の匂いと、微かな植物の青臭さが混じっている。
「はぁ……はぁ……ッ!」
背後から、仲間の断末魔が聞こえる。
肉が裂ける音。
氷が砕ける音。
オーギュストの最期の気配が消滅した感覚が、背筋を凍らせる。
だが、エヴァは振り返らない。
振り返れば、足が止まる。
止まれば、リリスも死ぬ。
「生きろ」という老兵の遺言だけが、切れかけた彼女の精神を強引に繋ぎ止めていた。
厨房の奥、棚の裏に隠された狭い通路へ飛び込む。
壁が崩れかけ、天井から砂埃が舞い落ちる暗闇の中を、エヴァはリリスを庇うように屈みながら進んだ。
通路の出口、ギルドの裏口にあたる鉄扉が見えた。
希望の光ではない。
扉の隙間から、赤い松明の光と、獣の唸り声が漏れ出している。
エヴァは足を止め、息を殺して隙間から外を覗いた。
そこには、既に数体のオークと魔狼が展開し、逃げてくる獲物を待ち構えていた。
裏口は封鎖されている。
計算された包囲網。
魔族は最初から、逃げ道など用意していなかったのだ。
「……っ」
エヴァは音を立てずに後退りし、通路の横にある崩れた石壁の陰に身を滑り込ませた。
逃げ場はない。
前には待ち伏せ、後ろからは追っ手。
完全な袋小路。
ズズッ……。
通路の奥から、鼻を鳴らす音が近づいてくる。
ゼクスが放った氷の猟犬か、あるいは血の匂いを嗅ぎつけた魔狼か。
冷たく湿った空気が、エヴァのうなじを撫でる。
リリスの血が、彼女の服に染み込んでいる。
その濃厚な鉄の匂いは、捕食者にとっては極上の道標だ。
エヴァはリリスを強く抱きしめ、自分の体温でその匂いを隠そうとした。
震える手でリリスの口元を塞ぐ。
自分の呼吸すら止める。
すぐそこの曲がり角から、青白い冷気と共に、飢えた獣の荒い息遣いが聞こえてきた。
爪が石床を削る音が、心臓の鼓動と重なる。
見つかる。
殺される。
死の気配が、物理的な重圧となって二人の頭上にのしかかった。
0
あなたにおすすめの小説
拾った年上侯爵が甘え上手すぎて、よしよししてたら婚約することになりました
星乃和花
恋愛
⭐︎火木土21:00更新ー本編8話・後日談8話⭐︎
王都の市場で花屋をしているリナは、ある朝――
路地裏で倒れている“美形の年上男性”を拾ってしまう。
熱で弱っているだけ……のはずが、彼はなぜか距離が近い。
「行かないで」「撫でて」「君がいると回復する」
甘えが上手すぎるうえに、褒め方までずるい。
よしよし看病してあげていたら、いつの間にか毎日市場に現れるようになり、
気づけば花屋は貴族の面会所(?)になっていて――
しかも彼の正体は、王都を支える侯爵家の当主だった!?
「君は国のために必要だ(※僕が倒れるから)」
年上当主の“甘え策略”に、花屋の心臓は今日ももたない。
ほのぼの王都日常コメディ×甘やかし捕獲ラブ、開幕です。
忘れ去られた婚約者
かべうち右近
恋愛
『僕はレベッカしか選ばない』
甘い声音でそう話したはずの王太子サイラスは、レベッカを忘れてしまった。
レベッカは、王太子サイラスと付き合っていることを、ある事情により隠していた。舞踏会で関係を公表し、婚約者に指名される予定だったのに、舞踊会の夜にサイラスは薬を盛られて倒れ、記憶喪失になってしまう。
恋人が誰なのかわからないのをいいことに、偽の恋人が次々と名乗りをあげ王太子の婚約者の座を狙ってくる。おかげで不信に陥ったサイラスに、レベッカは自分が恋人だと名乗り出せなくなってしまった。
サイラスの記憶喪失を解消するため、薬師兼魔女であるレベッカは恋人であることを隠しながら、事件調査を協力することになった。そうして記憶が戻らないまま二人の距離は再び近づいていく。だが、そんなおりにサイラスの偽の恋人を名乗りでた令嬢たちが、次々と襲われる事件も起き始めて……!?
※他のサイトにも掲載しています。
毎日更新です。
夫と愛し合った翌朝、一方的に離縁されました【完結保証】
星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
美しい公爵夫人マルグリートは、冷徹な夫ディートリヒと共に、王国の裏で密かに任務をこなす“悪女”。
だがある日、突然夫から離婚を言い渡される。しかもその裏には、平民の愛人の存在が──。
失意の中、王命で新たな婚約者・エルンストと結ばれることに。
どうやら今回の離婚再婚は、王家の陰謀があるよう。
「悪女に、遠慮はいらない」
そう決意した彼女は、華やかな舞踏会で王に真っ向から言い放つ。
「わたくし、人の家庭を壊しておきながら悪びれない方に、下げる頭は持っていませんの。
王族であられる前に、人におなりくださいませ。……失礼」
愛も、誇りも奪われたなら──
今度はこの手で、すべてを取り戻すだけ。
裏切りに燃える、痛快リベンジ・ロマンス!
⚠️本作は AI の生成した文章を一部に使っています。タイトル変えました。コメディーです。主人公は悪女です。
私の息子を“愛人の子の下”にすると言った夫へ──その瞬間、正妻の役目は終わりました
放浪人
恋愛
政略結婚で伯爵家に嫁いだ侯爵令嬢リディアは、愛のない夫婦関係を「正妻の務め」と割り切り、赤字だらけの領地を立て直してきた。帳簿を整え、税の徴収を正し、交易路を広げ、収穫が不安定な年には備蓄を回す――伯爵家の体裁を保ってきたのは、いつも彼女の実務だった。
だがある日、夫オスヴァルドが屋敷に連れ帰ったのは“幼馴染”の女とその息子。
「彼女は可哀想なんだ」
「この子を跡取りにする」
そして人前で、平然と言い放つ。
――「君の息子は、愛人の子の“下”で学べばいい」
その瞬間、リディアの中で何かが静かに終わった。怒鳴らない。泣かない。微笑みすら崩さない。
「承知しました。では――正妻の役目は終わりましたね」
最弱白竜ですが、なぜか学園最強の銀竜に番認定されました
めめめ
恋愛
竜の血を引く者だけが貴族になれるこの世界で、白竜は最も格の低い竜の証。
白竜の男爵令嬢リーゼロッテは、特待生として国内最高峰の王立竜騎学園に入学する。待っていたのは上位貴族からの蔑みと、学園を支配する四人の御曹司「四竜」。
その筆頭、銀竜公爵家の嫡男ルシアンに初日から啖呵を切ったリーゼは、いじめと嫉妬の嵐に巻き込まれていく。
それでも彼女は媚びない、逃げない、折れない。
やがてルシアンはリーゼから目が離せなくなり――
白竜の少女が、学園と王国の運命を変える。
身分差×竜×学園ラブファンタジー、開幕。
皆様ありがとう!今日で王妃、やめます!〜十三歳で王妃に、十八歳でこのたび離縁いたしました〜
百門一新
恋愛
セレスティーヌは、たった十三歳という年齢でアルフレッド・デュガウスと結婚し、国王と王妃になった。彼が王になる多には必要な結婚だった――それから五年、ようやく吉報がきた。
「君には苦労をかけた。王妃にする相手が決まった」
ということは……もうつらい仕事はしなくていいのねっ? 夫婦だと偽装する日々からも解放されるのね!?
ありがとうアルフレッド様! さすが私のことよく分かってるわ! セレスティーヌは離縁を大喜びで受け入れてバカンスに出かけたのだが、夫、いや元夫の様子が少しおかしいようで……?
サクッと読める読み切りの短編となっていります!お楽しみいただけましたら嬉しく思います!
※他サイト様にも掲載
復讐の悪女になるはずが、天使系義兄からピュアな執着と溺愛で邪魔されてます!
鈴宮(すずみや)
恋愛
サウジェリアンナ王国の王女エルシャは、不幸だった前世の記憶を持って生まれてきた。現世ではみんなから愛され、幸せになれると信じていたエルシャだったが、生後五ヶ月で城が襲撃されてしまう。
絶体絶命かと思いきや、エルシャは魔術師の男性から救出された上『リビー』という新たな名前を与えられ、養女として生きることに。
襲撃がジルヴィロスキー王国によるものと気づいたリビーは、復讐のため王太子妃になることを思いつく。けれど、義理の兄であるゼリックがあまりにもリビーを溺愛するため、せっかく王太子アインハードに近づくことに成功しても、無邪気に邪魔され計画がうまく進まない。
ゼリックの干渉を減らすためリビーは彼の婚約者を探したり、ゼリック抜きでアインハードとお茶をして復讐を成功させようと画策する。
そんな中、十六歳に成長したリビーはアインハードと同じ学園に入学し、本格的なアプローチを開始する。しかし、ゼリックが講師として学園へ来てしまい、チャンスをことごとく潰されてしまう。
(わたしは復讐がしたいのに!)
そう思うリビーだったが、ゼリックから溺愛される日々はとても幸せで……?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる