奴隷魔族の私に、幸せは訪れない〜救いを求めた少女が、世界の敵になるまで〜

鹿の子

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逃げろ

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オーギュストは口内に溜まった血を飲み込み、喉を焼くような熱さを覚える。

目の前に立つ二体の融合級魔族、メルクリウスとゼクス。

その圧倒的な魔力圧は、肌を刺す針のように彼を苛む。

背後には、守るべき部下たち。

エヴァ、そして意識を失ったリリス。

この戦力差、自身の消耗度。

計算などするまでもなく、解は見えている。

死だ。

オーギュストは首を巡らせず、背中でエヴァに語り掛ける。

「エヴァ」

低く、だが重い声。

「リリスを連れて逃げろ。裏口の隠し通路を使え」

エヴァが息を呑む気配がする。

「マスター……何を……」

「命令だ。俺がこいつらを抑える。その隙に行け」

「嫌です! 私も戦います! 貴方を置いてなんて……!」

「馬鹿者っ!!」

オーギュストの怒声が響く。

「今のお前に何ができる! 魔力も尽き、立つのがやっとだろう! リリスはどうする! あの子は命を懸けてお前を守ったんだぞ!」

エヴァの言葉が詰まる。

「あの子を犬死にさせるつもりか。俺たちの希望を、ここで絶やすな」

オーギュストは大剣を握り直し、前を見据える。

「行け。生き延びろ。そして、必ず光ある場所へ辿り着け」

それは遺言だった。

エヴァは唇を噛み締め、涙を堪えながらリリスを抱き上げる。

「……はい。必ず」

彼女の足音が遠ざかるのを確認し、オーギュストは口元を歪めた。

これでいい。

背負うものがなくなった老兵は、ただの死に損ないの獣に戻る。

ゼクスが無言で一歩を踏み出す。

蒼氷の剣が煌めく。

「覚悟は済んだか」

問いかけではない。

宣告だ。

ゼクスが姿を消す。

速い。

オーギュストの動体視力が、辛うじて青い軌跡を捉える。

「温いッ!」

オーギュストは大剣「断崖」を垂直に振り下ろす。

鋼鉄の質量と魔導の氷刃が衝突する。

ガキィィンッ!

高い音が響き、冷気が爆発する。

衝撃が腕を伝い、骨を軋ませる。

だが、違和感がある。

大剣が重い。

見れば、刀身が蒼い氷に覆われ、急速に凍結し始めている。

「無駄だ。我が氷は鋼すら眠らせる」

ゼクスの声と共に、氷が大剣の柄へ、そしてオーギュストの手甲へと浸食する。

「凍てつけ――【蒼氷の咎剣・絶対零度】」

詠唱など不要とばかりに、ゼクスが剣を押し込む。

パキパキと音を立てて、オーギュストの両腕が氷塊の中に閉ざされる。

感覚が消える。

血液が凍り、筋肉が機能を停止する。

「ぐぅ……ッ!」

オーギュストは膝に力を入れるが、凍りついた大剣が錨となり、彼を地面に縫い止める。

メルクリウスは一歩も動かない。

腕を組み、冷ややかな瞳でその光景を見下ろしている。

介入など必要ない。

これは戦いではない。

ただの処理であり、必然的な結果の確認に過ぎない。

彼の視線はオーギュストの抵抗を嘲笑うでもなく、ただ事実として観測する。

「見事な気迫だが、肉体の限界は精神では超えられぬ」

淡々とした批評。

それが逆に、絶対的な強者の隔絶を示す。

オーギュストは歯を食い縛り、凍りついた腕で大剣を引き抜こうとする。

だが、動かない。

老いた体躯は既に限界を超え、生命の灯火が消えかけている。

「まだだ……まだ……」

彼の視線が、エヴァたちが消えた裏口の方角を一瞬だけ彷徨う。

まだ時間が足りない。

一秒でも長く、こいつらをここに留めなければ。

ゼクスが氷の剣を引き抜く。

オーギュストの防御が完全に崩れる。

胸板が無防備に晒される。

「終いだ」

ゼクスが剣を水平に構える。

「貫け――【蒼氷の咎剣・心葬】」

蒼い閃光が走る。

オーギュストの胸を、氷の刃が深々と貫通する。

音はない。

血すらも凍りつき、一滴も流れない。

心臓が氷像と化し、砕け散る。

オーギュストの瞳から光が消える。

巨体が揺らぐ。

「……リリス……エヴァ……」

声にならない最期の言葉。

ドサリ。

重い音を立てて、オーギュスト・ブロンズハンマーは膝を屈し、うつ伏せに倒れた。

鉄槌と坩堝の主。

サラスの守護者。

その生涯は、瓦礫と氷の中で静かに幕を下ろした。
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