公爵家の五男坊はあきらめない

三矢由巳

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15 口づけ

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 馬車が伯爵領を出て王家直轄領に入ったのは夕刻のことだった。ここでまた新しい馬車に乗り換えた。さらに揺れの少ない馬車で椅子も座り心地がよかった。
 このまま王都に向かうとハンスは言った。宿泊すれば、公爵家の騎士団に見つかる恐れがあるからだった。 
 グスタフは少しだけ安堵していた。宿屋で同じ部屋に休む緊張を思えば、馬車のほうが気楽だった。スカートだから己の身体に起きる異変にも気づかれずにすむ。左手の衝動に耐えねばならぬのはつらいが、昨夜からの緊張で眠気が兆していた。なんとか耐えられるだろうとグスタフは思っていた。
 暗くなる前に、昼食をとった商店のおかみに作ってもらったハムとチーズを挟んだパンを車内で食べた。しばらくたった頃、馬車が急に止まった。
 なんだろうとグスタフもエルンストも外の音に耳を澄ませた。

「どこへ行く」

 居丈高な声が馬車の中にまで響いた。

「都へ参ります」
「どこの者だ。手形を見せろ」
「へい」
「ゴルトベルガー商会フーバー支店支配人ハンス・ホッホ 35歳。間違いないな」
「へい」
「目的は」
「ゴルトベルガー商会の新年の支配人会議に出席するためです。ついでに商会で働く奉公人を連れて来ました」
「奉公人の手形を見せろ」
「へい」

 グスタフとエルンストの手形はハンスに預けている。

「ゲマイン村エルマー20歳と妻グレーテル21歳か。ちょっと顔を見せてもらうぞ」

 グスタフは突然のことにびくりとした。エルンストも動揺を見せた。だが、それは一瞬のことだった。

「失礼」

 囁きと同時に、エルンストはグスタフの身体に両腕を回し引き寄せた。何が起きたかわからぬグスタフは次の瞬間、頭が真っ白になった。
 唇に柔らかなものがぐっと押し付けられた。
 なぜここでと思った時だった。グスタフの座っていた席の横の扉が開かれた。冷たい風が入って来た。

「なんだ、お楽しみ中か」

 すぐに扉が閉められた。

「申し訳ありません。田舎育ちの若い夫婦なもので常識がなくて。後で言い聞かせておきます」

 外ではハンスが申し訳なさそうに頭を下げていた。

「さっさと行け」

 馬車が動き始めた。グスタフはエルンストの機転だったのだと気付いた。だが、唇はいまだ離れない。きっとまだ警戒しているのだろう。
 それならとグスタフは目を閉じてエルンストの唇の感触を味わうことにした。
 口移しで薬を飲ませた時のようにかさついてはいなかった。柔かく瑞々しい。ああ、この唇の奥の濡れた腔内に触れてみたい。グスタフは己の欲望の限りなさを恥じた。スカートの下で起きていることを知ったらエルンストはどう思うことか。
 柔らかな感触は不意に消えた。

「お許しを」

 エルンストの声でグスタフは我に返った。俯いているエルンストは本当に申し訳ないと思っているのだろう。

「驚いたが、おまえのおかげで助かった。なかなかうまいじゃないか」

 そう言って笑ってみせた。
 もう二度とこんなことはあるまいとグスタフは思う。エルンストの唇はきっと美しい花嫁のものになるに違いない。
 グスタフは知らない。これがエルンストにとっても僥倖であったことを。



 ずっと一緒だった。赤子の時は母の乳をともに飲み、同じ籠の中で眠った。一緒に剣を習い、村に行っては畑仕事を手伝い、猪狩りや鹿狩りに従った。
 喧嘩に巻き込まれて怪我をした時、グスタフはエルンストのために闘った。エルンストは自分が守らなければならぬ人に守られたのが情けなかった。絶対にグスタフに命を懸けて仕えると心密かに誓った。
 エルンストはグスタフだけを見つめていた。村の多くの少女たちの熱い眼差しなど彼には何の意味もなかった。相手にされない少女たちはいつしか氷の従者とエルンストを呼んだ。
 エルンストの心を動かすのは、グスタフの姿や声だけだった。
 だからグスタフの言葉が時にエルンストを悲しませる。
 誰にも期待なんかしない、あきらめている、兄たちのように賢くもないし、武器をとって戦う気力もない、森番になるつもりだ……。
 森番になる人生がグスタフにとって最良のものとはエルンストには思えなかった。グスタフは大きな可能性を秘めた人物だとエルンストは思うのだ。村の者たちに慕われるグスタフを見ているとなおさらそう思えた。公爵家を継ぐことはできずとも、公爵領、いやローテンエルデ王国の政界に入ることもできるのではないか。まだ誕生して間もない王国議会の下院議員になれるのではないか。そうなればこの国の人口の多くを占める農民の意見を政治に反映させることができるのではないか。そしていつか大臣にも。
 それは夢かもしれない。けれど、もしグスタフが夢へと歩むのなら自分もそれに従いたかった。いや、夢などではない。現実にするために働こう。エルンストはそう考えていた。
 だから今回の事は予想外ではあったが、グスタフを国政の中心に押し上げるという目的を実現するのには最高の機会だった。無論、一つ間違えば命を失う危険もある。
 けれど、賭けてみたかった。グスタフの運に。そして己の力に。
 
 

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