アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)

三矢由巳

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部屋住みの又四郎

肆 朝の光

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 その朝、又四郎は益永寅左衛門に叩き起こされた。

「大変です。早く御目覚めを」
「うるさい、まだ暗いではないか」

 夜分遅くまでオランダの兵法書を読んでいた又四郎は酒も入っていたこともあり眠かった。布団の中でもぞもぞと動いていると、布団を引きはがされた。

「寝ている場合ではありません」

 いつになくしつこい寅左衛門に根負けして又四郎は起き上がった。

「何があったのだ。エゲレスが江戸前の海に攻めて参ったか」
「エゲレスどころではありません」

 寅左衛門はその場に居住まいを正した。ひどく真面目な顔になったので、又四郎も布団の上ではあるが、正座した。

「亡くなられたのです」
「鳥居の妖怪か」
「残念ながら違います」

 寅左衛門はもし鳥居ならば「くたばった」と言うところだがと思ったが、さすがに若様の前では品がなさ過ぎると思いそこまで言うのは自粛した。

「そうか。どなたが亡くなられたのだ」
「本家の若殿様です」

 又四郎は己は寝ぼけているのではないかと思った。聞き間違いではないか。

「寅左衛門、もう一度言ってくれぬか」
「はい。本家の若殿様が未明に中屋敷で眠ったままお亡くなりになられました。半刻ほど前に本家から知らせがありました。ただし、内密にとのことです。あまりに急なことですので」

 信じられなかった。昨夜、一緒に豚肉を食べ酒を飲んだのだ。牛飲馬食の言葉通りに。それなのに。

「病か」
「恐らくは」

 寅左衛門は殿様からお話があるはずと言い、髭と月代を剃ると言った。だが、そんな言葉は耳を素通りしていた。
 いつも明るく楽し気で幸せそうだった。情に厚く又四郎のことを心から案じてくれた。世話好きで誰もが彼を愛していた。

「しばらく一人にしてくれぬか」

 洗顔と剃刀の用意をしてきた寅左衛門はお時間がと言ったが、それを止めたのは控えていた佐野覚兵衛だった。
 寅左衛門は道具だけそこに置いて廊下に出た。不機嫌な顔で寅左衛門は覚兵衛を睨んだ。

「好機だというのに。身なりを整えて備えねば」
「寅左衛門、若様は昨夜一緒に飯を食い、酒を飲んだのだぞ。気持ちがわからぬか」

 覚兵衛は廊下に腰を下ろした。

「若様はお目ざめになったか」

 そこへ田原十郎右衛門がやって来た。

「うむ。だが、本家の若殿様のことを聞き、一人にしてくれと」

 覚兵衛の言葉に十郎右衛門は悲愴な表情を浮かべた。

「まことに惜しい方を」
「ですが、これは好機。分家がなぜあるのか、お二方ともおわかりでしょう」

 寅左衛門の言うことは二人ともわかっていた。本家にことあれば、分家から養子に行くということだ。世継ぎの斉陽が本家の世継ぎになれば、彼らの主が分家の世継ぎになれるかもしれぬ。ことによると本家の世継ぎということもありえるのだ。

「それはそれ、これはこれ。若様のお気持ちを少しは考えよ」

 三人の中で年長の十郎右衛門はそう言うと、覚兵衛の隣に腰を下ろした。

「やれやれ、でも髭くらい剃らないと御正室様が何とおっしゃるやら」

 寅左衛門も腰を下ろし、主の呼び声を待つことにした。
 やがて東の空からまぶしい光が差してきた。三人は目を細めた。
 彼らの背後で障子が開いた。

「朝だな」

 振り返った十郎右衛門は朝の日に照らされた主の表情に決意を見た。若様は己にこれから降りかかる運命に対して覚悟を決められたのだと思った。

「寅左衛門、髭を剃る」
「かしこまりました」

 寅左衛門は張り切っていた。剃り甲斐のある髭だった。





 分家の屋敷ではその日の朝、仏間に殿様が正室瑠璃姫、嫡子の斉陽、次男の又四郎、登美姫を呼び、本家の若殿様の訃報を伝えた。

「御公儀への届けは後日になるゆえ、委細は他に語らぬように。今日は斉陽とともに病の見舞いに参る。又四郎も参れ」

 元よりそのつもりであった。又四郎は斉倫に己の決意を伝えたかった。
 斉倫の世話してくれるはずだった縁談はもはやかなうまい。あれは夢だったのだと思った。
 自室で一人になった時、彼はお佳穂への思いを諦めよう、一人部屋住みの身を貫こうと決めたのだ。
 仏間を去ろうとした時だった。

「又四郎、ちと話がある」

 父斉理に一人残された。珍しいことだった。父と二人だけになることは年に一度か二度しかない。

「もそっと近うへ」

 いつもの席より前に進んだ。父の顔が一間ほど先にある。

「昨晩、中屋敷に行ったそうだな」
「はい」

 外出する際、必ず行先、立寄り先は知らせることになっているから、父が知っていてもおかしくはない。

「若殿様はたいそうお元気でした。食欲もあり、お酒もおいしそうに飲んでおいででした」
「そうか」

 あっさりとした物言いはいつものことだった。斉理はあまり喜怒哀楽を表情に出さない。
 だが、本家の若殿は親戚で息子たちも親しくしているのだから、もう少し悲しんでいいのではないかと又四郎は思う。

「本家の世継ぎは斉陽かそなただ。覚悟せよ」
「は?!」

 本家の次まで考えてもいなかった。今はまだ斉倫を悼むべき時ではないか。

「父上、何を仰せですか」
「寛善院様は何のために分家を作られたのだ。本家に世継ぎがいない時は、分家の男子が継ぐことになっているのだ」

 そうかもしれないが、今はまだ早過ぎだろう。それに決めるのは本家である。

「斉陽が本家を継げば、そなたが分家の主ぞ。あるいはそなたが本家を継ぐか」

 確かに斉倫の死を知らされた時、世継ぎのことがちらりと頭をかすめたのは事実である。だが、本家の斉倫には他家に養子に行った腹違いの弟がおり、そちらに男子が二人いたはずである。その子が本家の養子に入ってもおかしくない。何より、本家の御前様はまだ五十で世継ぎの男子が先々生まれる可能性があった。

「本家の方がお決めになることです」
「建前はそうだ。だが、当家も一族。ゆえに養子をとる際は必ず当家にも打診がある。当家が認めぬ養子は迎えられぬ」

 そんなものなのだろうか。本家の御前様はいざとなれば周りの意見を聞かぬこともあると聞いたことがある。たとえば、奥方様との結婚でも、決まりかけていた許婚者を断り、斉理の妹の聡姫を娶ってしまったのだ。聡姫とは初恋だからということであったが、まるで分家から攫うように奥方様を連れて行ってしまわれたと今でも語り草になっているほどである。そのとばっちりを受けて、斉理は斉尚の正室になるはずだった瑠璃姫と結婚することになってしまった。
 そんな御前様が分家の言うことをきくものであろうか。

「それに斉陽もそなたも聡にとっては甥にあたる。血筋からいっても近い」

 父の言うことももっともだが、あてが外れることのほうが多いと又四郎は知っていた。現に昨夜の斉倫の縁談の話は彼の死によって潰え去った。部屋住みの身では妻は持てぬ。分家の執政になったとしても、本家のお清の中臈を妻にしたいなどと家臣の身で我儘なことは言えぬ。万が一にも大名になれば、縁組の相手を自分で決めるなど無理だった。お佳穂を側室にと思えば可能かもしれぬが、側室は側室。家臣であり家族ではない。結局、自分は恋しい女子を妻にはできぬのだ。わずか一晩だけ夢を見れただけでもよしとしなければ。
 女子のことでさえそうなのだ。本家の御前様が自分を世継ぎにするとは思えない。ふさわしい方々は大勢いる。本家にしろ分家にしろ、世継ぎになるなどありえぬし、自分自身望んではいなかった。世継ぎなどになれば、学問の師匠や仲間との交際を気楽にできる今の生活が失われてしまう。

「お言葉ですが、私のような未熟者では務まりません」
「確かに今のそなたではな。御庭番に中屋敷からつけられるような振舞をしておるのだからな」

 背筋をひやりと冷たいものが流れた。血の気が下がっていくのを感じた。

「私が気づかぬとでも思ったか。金を毎月届けておるのであろう」

 どこにと言わぬが、恐らく知っておいでだと又四郎は思った。

「この辺でやめておいたほうがよいぞ」
「なれど、人の道というものが」
「何かあればそなた一人だけのことでは済まぬぞ。十郎右衛門やその父、本家、そなたの出入りする高輪の若殿様、皆に災難が降りかかろう」

 父の言う通りなのだが、あの人々の窮状を見逃すわけにはいかなかった。

「せめて今月までは」
「まあ、本家の葬儀などで人の出入りも多いゆえ、誤魔化しもきくであろうからな。だが、来月からはならぬ。世継ぎになろうがなるまいが、だ」

 そこをなんとかと言えぬのが、又四郎の立場であった。彼はわずかの捨扶持で生きている部屋住みだった。それに、まことに御庭番が尾行していたなら、いろいろと厄介であった。

「かしこまりました」
「他にも支度せねばならぬことがある。犬と遊んでばかりいるでないぞ」

 遊んでいるわけではなかった。あれは訓練だった。水鳥を追うだけでなく、犬の嗅覚を生かして何ができるか、又四郎は追究していた。
 斉理は立ち上がり仏間を出た。それを頭を下げて見送りながら、又四郎はため息をついていた。
 まことの父であるのになぜこうも遠い人なのであろうか。江戸に来た十の時もどこかよそよそしかった。幼い頃、国許にいた父はいつも笑っていたような気がする。母のいない分までも。だが、江戸で久しぶりに会った父はあまり笑わなくなっていた。父から笑顔を奪ったものは何なのか。江戸の暮らしはそれほどまでに過酷なのだろうか。それとも藩主という地位の孤独ゆえなのか。
 いくら考えてもわからなかった。美しい奥方様に子ども二人がいるというのに。父は幸せに見えなかった。
 同じ大名家でも本家の斉倫と父の御前様の関係は温かなものに感じられた。
 ホーム。エゲレスの言葉を思い出す。家庭。家の庭ではない。家族が一つ家でつつましく暮らす。特に大きな家ではなくともホームと言うらしい。
 その語を知った時、国で父と暮らした家のことを思い出した。あの頃、父は佐野家の養子であった。この屋敷の十分の一もないような家で又四郎とともに暮らしていた。貧しいけれど父は笑っていた。又四郎を抱き締めてくれた。あれこそホームだったのかもしれない。
 父が江戸に行ってからは何もかも変わってしまった。
 江戸に行けば国にいた時と変わらぬ笑顔の父に会えると思っていた。けれど、父も変わってしまった。
 何も子どもの頃のように抱き締めて欲しいわけではない。ただ自分にも笑顔を見せて欲しかった。何の屈託もなかったあの頃のように。

「若様、そろそろ中奥にお戻りを」

 年寄の梅枝が仏間の襖を開けた。
 仏間は奥にあるので、又四郎がそこにいては奥女中らが掃除ができないのである。
 済まぬと言って仏間を出た。中奥へ向かう廊下は庭に面しており日の光を受けて明るかった。
 せめて斉倫がこのような光にあふれた極楽へ往生できるようにと祈ることしか又四郎にはできなかった。





 部屋に戻ると、佐野覚兵衛と田原十郎右衛門が待っていた。
 彼らの目には何やら期待の光があった。

「下野守様から特に話はないぞ」

 又四郎は彼らに期待を持たせたくなかった。二人の目から光が消えた。

「それよりも、例の金子きんすのこと。下野守様もお気づきだ。来月からは無理だ。さてどうしたものか。若殿様もみまかられてしまったしな」
「いえ、今までが恵まれていたのです。若様のご助力がこれまであったのは望外のこと」

 十郎右衛門が無念さを押し隠しているのは明らかだった。

「師への恩を返すのには、他にも方法があろう」
「実はそのことで」

 十郎右衛門は声を低めた。又四郎は不吉なものを感じた。

「何かあったのか」
「中田先生から今朝使いがあり、江戸に一昨日お入りになったと」
「なに!」

 又四郎は思わず叫んでいた。

「今は中田先生の家においでですが、隠れ家を探しておいでとのこと」

 又四郎は腕を胸の前で組んだ。予想外のことであった。 

「まさか、ここにということか?」

 大名屋敷には町奉行所の者が入ることはできない。追われた者が隠れるにはうってつけではある。

「そういうことかと。なれど、昨夜つけられたそうではありませんか。本家の若殿様のことで本家の人の出入りが多くなれば、当家にも顔を出す者も増えましょう。隠しおおせるかどうか」

 若殿の病気見舞いということで大名だけでなく旗本も来る。旗本の中には町奉行の親戚もいる。ことによると町奉行も来るかもしれぬ。

「十郎右衛門、中田先生に文を書くゆえ、届けてくれぬか。覚兵衛は例のものを目黒に頼む。早いほうがよかろう。あの方が戻って来たとなれば、いろいろと物入りであろうから」 

 又四郎の命に二人は畏まりましたと頭を下げた。

「本家中屋敷へ見舞いに参るゆえ、供は寅左衛門に」
「呼んで参ります」

 覚兵衛が部屋を出た後、十郎右衛門は又四郎にいざり寄った。

「大事な時期です。これ以上の御援助はもうおやめください。文を書くのもいけません。もし、誰ぞに見られたらいかがします。それがしから中田先生に申し上げます。しばらく連絡はご遠慮くだされと」
「だが、そなただけでなく私にとっても師なのだ。金子の援助はできぬが、陰ながらできることはして差し上げたい」
「それも御命あってのこと。渡辺様のようになったらいかがします」
「鳥居の妖怪は奉行を罷免されたのだぞ」

 彼らが恐れていた鳥居耀蔵は昨年九月南町奉行を不正を理由に解任された。今年の二月には評定所が肥後人吉相良さがら家御預けを決定、四月には出羽岩崎佐竹家に預け替えられ、もはや恐れる必要はなかった。

「なれど、あの方は町方にとっては許せぬ重罪人。奉行は変われど罪は変わりませぬ」

 十郎右衛門の言葉は正しい。けれど、重罪人になってしまったきっかけを作ったのは鳥居だった。赦免とまではいかぬかもしれぬが、せめてどこぞの家に預かりになればと又四郎は思っている。甘い考えかもしれぬのだが。

「では、文は書かぬ。あの方をここでしばし預かると中田先生に伝えてくれ」
「なんと」

 十郎右衛門は真っ青になっていた。

「次の落ち着き先が見つかるまでの話。あの方の力を欲する大名は必ずおられるはず。そちらは私が探す。名目はシロの世話係でよかろう。私が忙しいから世話係を雇ったとすればよい。覚兵衛が屋敷を出たら御庭番がそちらを追うはず。そなたはその隙に中田先生のお宅へ行くのだ。できたら覚兵衛が戻る前にあの方を連れて参れ」
「そんな……」
「人の出入りが多いからこそ、誤魔化しやすいのだ。長屋の空き部屋で休んでもらえばよい」

 又四郎の大胆な考えに十郎右衛門は呆れた。

「案ずるな。責任はそなたの主である私にある」
「下野守様も丹後守様も責めを負うやもしれませんぞ」
「半人前の部屋住みのしでかしたことゆえ、取り潰しにはならぬ。私がトカゲの尻尾になればよいのだ。あの方をこのまま埋もれさせたら、この国はどうなることか。そなたなら、わかっておるはず」

 この国の行く末。それを言われれば十郎右衛門は何も言えない。彼が蘭学に励むようになったのも、あの方との出会いがあったからだった。
 けれど、主も大事だった。

「かしこまりました。なれど、もし、ここへ参る前にあの方が捕らえられるようなことになったら、それがしは自害します。その際は、知らぬ存ぜぬで御通しください。田原十郎右衛門などこの家にいなかったことにしてください」

 十郎右衛門は死を覚悟してまで主の命に従おうとしている。十郎右衛門に託したことの重みが又四郎の肩にずしりとのしかかった。けれど、いったん口にしたことである。もう引き下がれない。

「すまぬ」

 十郎右衛門は笑った。

「さようなしくじりは致しません。必ず、ここへお連れ申し上げます」
「頼む」

 十郎右衛門を信じるしかなかった。
 寅左衛門のせわしない足音が聞こえてきた。又四郎は立ち上がった。




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