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解ける謎
陸 懐剣と御高祖頭巾
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「スイット」
シロは斉理の前でお座りをした。
「この犬をどうにかせい」
斉理は顔を青ざめさせていた。よほど犬が嫌いらしい。
「しばらく堪えてください。シロは私が命じなければ動きません」
「どういうことだ」
斉陽は又四郎とシロを交互に見た。
「父上はこの袱紗と同じ匂いがするということですか。袱紗は父上が持っておいでだったということですか」
登美姫は言った。同じことを佳穂も考えていた。
「あるいは、母上が持っていた物ゆえ、父上からも同じ匂いがしたということか」
斉陽の言うことも一理あると佳穂は思った。
「いいえ。違います。下野守様にシロが寄ったのは、わけがありますが、その説明は後ほど。袱紗を持っていたのは分家の奥の川村です」
佳穂以外のその場の者には全員、わけがわからなかった。
又四郎は驚くほど冷静な口調で話し始めた。
「先ほど分家にお邪魔して、袱紗の匂いをシロにかがせて探させたのです。すると、川村のいる場所にシロは参りました。中年寄の呉竹殿の部屋でした」
「で、では、呉竹ではないか、袱紗を持っていたのは」
斉理は叫んだ。又四郎は首を横に振った。
「シロが飛びかかったのは、川村でした。呉竹殿の部屋にいた川村は呉竹殿をどういう方法でかわかりませんが、眠らせ、自害をしたかのように見せかけようとしていたのです。わざわざ遺書まで用意して。幸い、呉竹殿は殺されることはありませんでしたが、懐剣の鞘が抜かれて落ちていましたので、今少し遅れたら呉竹殿は殺されていたはず」
吉井は懐から封書を出して、「遺書」を広げて読み上げた。その場の人々は一人を除いてその内容に震えあがった。佳穂も改めて耳で聞くと震撼せざるを得なかった。叔母がかようなことを書くとは。
「呉竹が書いたものであろうが」
斉理の声は震えていた。
吉井は立ち上がり佳穂の下座に座り、「遺書」を佳穂の目の前に広げた。
「この文字に見覚えがありませんか」
まさか、このような場所で再び問われると思っていなかった佳穂はすぐには声を出せなかった。斉理の視線が突き刺さるようだった。佳穂の言葉次第では許さぬと言わんばかりの強い視線だった。だが、嘘は言えない。佳穂の主は奥方様であり、本家の方々。その方たちに求められたら、真実を言うしかない。
それに、吉井は佳穂を信頼している。川村の姪であるにも関わらず。その信頼を裏切ることはできない。
叔母の罪によって又四郎に仕えることができなくなっても致し方ない。これまでがあまりに幸せ過ぎたのだ。あばたのある己が愛されるなど分不相応だったのだ。
せめてこんな自分を大切にしてくれている又四郎や月野家の人々には誠実でありたかった。
大きく息を吸って、声を出した。
「はい。叔母の川村の文の文字と同じです。この『候』という文字は私への文に書いてあるものと同じ形」
「では、後ほど、文を見せていただけますか」
「はい」
吉井は上座の斉理を見た。
「これは川村殿の文字ということ、明らかです。下野守様、おわかりいただけましたか」
斉理の顔色が赤くなっていた。怒りのためであろうか。
「お佳穂、そなた、又四郎の御手付きゆえ、又四郎の言いなりになっておるのであろうが。それでも、月影藩国家老川村三右衛門の娘か。叔母を愚弄するとは」
思いもかけぬ斉理の攻撃だった。佳穂は叔母を愚弄するつもりなどなかった。真実を伝えただけだった。仕える本家の目付の命令に従って。
「お佳穂は嘘など申しません」
聡姫はぴしゃりと言った。
「お佳穂を愚弄なさっているのは兄上ではありませんか」
斉理はぐっとこぶしを握った。
佳穂はふだんは物静かな奥方様がどれだけのお気持ちで実の兄に言ったのか、その気持ちを想像し、ありがたくも勿体ないことと思った。
「文字のことは目付らが詳細に調べましょう。ただ瑠璃姫様の打掛には袱紗と同じ香りがしなかったことは確か。袱紗は瑠璃姫様が浪人の一件に関わったという証拠にはなりません。従って、捕縛の必要はありません。ましてや離縁など。下野守様も隠居される必要はありません。めでたいことではありませんか」
又四郎の言葉が佳穂には皮肉めいて聞こえた。
「罰するべきは川村一人でしょう。勝手に瑠璃姫様の気持ちを斟酌し、私を殺害せんと三か月も前に主の袱紗を盗み、いえ、昨年の夏大川端で光信院様と花火見物をしていたお志麻の方に尼を近づけたのですから。まことに計画的。しかしながら、私は昨年の夏はまだ分家の部屋住み。どうせ殺すなら食事に毒でも入れれば食あたりで死んだということで終わったはずなのですが。どうして、かように手の込んだことを川村はしたのやら」
又四郎は斉理を見た。シロに睨まれ動けぬ斉理の顔はいまだに赤い。何を怒っているのか。
「それにしても、この遺書に書かれていることをすべて川村殿一人でやったとすれば、死罪は免れませぬな。かようなことは月野家始まって以来」
吉井は言った。
「川村にできるわけなかろう。御客応答ぞ。勝手な外出などできるはずなかろう」
斉理の言葉は先ほどより力がなくなっていた。
「ええ、そうでしょうね。奥の女子は重職にあればあるほど頻繁に外に出ることはできません。中臈のお佳穂でさえ、めったに分家の叔母に会うことはなかったのですから。ですが、これが男なら外に出ることはできます。私も部屋住みでしたが、供の者をつけて夕刻までに帰宅すると届け出れば、外出は簡単でした。下野守様もそうでしょう」
「又四郎、何が言いたいのだ」
斉理は息子を睨んだ。
「又四郎殿、ところで、なぜに、シロは父上のところから離れぬのか。父上が袱紗を持っていたわけではなかろうに。シロが呉竹の部屋まで行ったのは偶然ではないか。シロの鼻はまこと正しいのか」
斉陽の言葉で皆、そういえばと思い出した。確かにおかしい。
「少々お待ちを。その前にやることがあります。シロ、スタンダップ、カメ、スイット」
シロは再び、又四郎の前に控えた。斉理は犬がいなくなったと安堵したのか、姿勢を正した。
又四郎は吉井を見た。
「吉井殿、あれを」
吉井は長い包みを畳の上に置き広げた。姿を現したのは懐剣だった。
「これは、浪人の背中に刺さっていた懐剣。血はすでに拭っております」
吉井の説明に佳穂は寒気を覚えた。佳穂もまた懐剣を持っているが、使う機会はなかった。
「ですが、この懐剣には、浪人を刺した者の証拠が残っております。人はたとえ何もしていなくとも見えない汗をかいておると知り合いの医師が申しておりました。緊張すると汗の量が増えるとも。ましてや、今は秋に入ったとはいえまだ暑い日々が続いております。そんな時に人を殺そうとする者はどれほど汗をかいていることか。つまり、懐剣の柄には浪人を刺した者の汗が多く残っているのです。その匂いもシロにはわかるのです」
又四郎はそう言うと、吉井に脇差を貸すように言った。そして、自分の脇差も畳の上に置いた。
二本の脇差を畳の上に置くと、シロに命じた。
「お佳穂、シロの注意をひきつけてくれぬか。こちらを見ぬように」
佳穂はどういう意図があるのかわからぬが、シロにカメと言った。シロは佳穂に近づいた。佳穂はその首筋を撫でた。
「ぐっじょぶ」
シロは嬉しそうに尾を振った。
その背後では、又四郎はどちらかの脇差を選ぶように斉陽に言った。斉陽は吉井の脇差を選んだ。
「お佳穂、脇差の柄をシロにかがせてサーチと言ってもらえぬか」
佳穂はシロを座らせると、吉井の脇差の鞘を持って柄の部分をシロの鼻先にもっていった。シロは鼻をクンクンさせた。
「さあち」
佳穂の命令にシロは遊びと思ったのか嬉しそうに歩き始めたかと思うと、吉井の前でワンと吠えた。佳穂はシロにぐっじょぶと言い首を撫でた。
「凄いな、これは」
斉陽だけでなく皆目を見張った。ただ一人、斉理をのぞいて。
「かように、犬には汗の匂いもわかるのです。それゆえ、異国では行方のわからぬ者を犬に探させることもあるとか」
又四郎は懐剣を見た。
「私の考えが正しければ、この懐剣の主はこの屋敷内にいるはずです。そこで、今からシロに懐剣の持ち主を捜してもらいます。なにしろ、浪人をすでに一人殺している者ですから、それを放置するわけにはいきません。父上、よろしいでしょうか」
斉尚は問われてうなずいた。
「よかろう。さような凶悪な者を野放しにはできぬ」
又四郎は懐剣の柄をシロにかがせた。
「サーチ」
シロは動き始めた。だが、座敷の外には出なかった。
とことこと歩くと、またもや斉理の前で吠えた。
「この馬鹿犬が」
斉理は脇差を抜いた。
「父上」
斉陽は驚き立ち上がり父を背後から羽交い絞めにすると、脇差を父の手から叩き落した。親戚とはいえ他家の座敷で脇差を抜くなどあってはならぬことだった。
「殺生はなりませぬ」
「ええい、放せ」
斉尚は斉理の鬼のように凄まじい形相に驚いた。
「下野守、いかがした。乱心か」
吉井は斉陽を手伝い、早縄で斉理の腕を後ろ手に縛った。捕縄術を使うのは若い時以来だった。その早業を皆呆然と見ていた。
「離せ、目付ごときが何をする」
縛った斉理をその場に座らせた吉井はシロに言った。
「すいっと」
するとシロは斉理を見張るかのようにその前に座った。斉理の赤い顔が青くなった。
「見事だな、吉井」
又四郎は驚いた。いつの間にコマンドを覚えたのかと。
「先ほどから聞いておればわかります。さて、若殿様、ご説明をお願いします。これはいかなることか、それがしにもわかりかねますゆえ」
又四郎はゆっくりとシロの後ろに立って実父月野下野守斉理を見下ろした。
「この懐剣は父上の物でございましょう。父上が浪人赤岩半兵衛を殺したのでしょう」
「知らぬ。何のことじゃ。大体、わしは奥女中ではないぞ。懐剣は奥女中の持つ物」
斉理は息子を睨みつけた。
又四郎は周囲の家族と佳穂を見回した。
「我が月影藩月野家分家の役目は本家に世継ぎ無き時の備え。従って、分家は決して血筋を絶やすことが許されません。特に男子は大切に育てられます。病に冒されぬように、次男以下は江戸だけでなく国許にやられ、子どもの頃から元服の一年ほど前まで女子の姿で育てられます。斉陽殿もさようであったはず」
斉陽は少し照れたようにうなずいた。
「ああ、そうじゃ。まこと気恥ずかしくてならなかったのう」
「私も斉陽殿も。それに下野守様も。その兄上もそうだったはずです。男子は全員女子の姿で育てられるのです。髪型も装束も。呼び名も女子の名をつけて」
身体の弱い男児は女児の姿で育てられると佳穂も聞いたことがあった。
又四郎もそうだったのだろうか。佳穂はある可能性に気付いた。まさか、そんなことが……。
「ゆえに、女子の恰好をするのは慣れておるはず」
「馬鹿を言うでない」
斉理は否定した。子どもの時ならいざ知らず、大人になってから女子の姿をするというのは無理な話だと佳穂は思った。眉を剃ったり、鉄漿を付けねばならないのだから。
「そうでしょうか。奥女中の着物を着て御高祖頭巾をして目だけ見せればどうでしょうか。奥女中のように鉄漿をしていなくとも口を隠していればわかりません」
そうかもしれぬが、斉理が女装というのは信じられなかった。
「屋敷を男子の姿で出て、途中どこかの屋敷、品川や広尾に近い場所で奥女中の装束に着替え、浪人を殺害し、そのまま屋敷に戻り血に汚れた衣裳を脱ぎ元の男の姿になれば、気付かれずに戻ることができます」
又四郎は袂から紫の布を出すと、さっと斉理の頭を器用に包み始めた。すぐに御高祖頭巾の形となった。
「目付殿、尼を連れて来てもらえぬか」
「はっ」
吉井は廊下に控えていた配下の者に命じた。斉理は目を大きく見開いた。信じられぬという顔に見えた。
「馬鹿な」
頭巾の下からくぐもった声が聞こえた。
「馬鹿ではありません。あなたは、佐野覚兵衛に命令したのでしょう。伶観を殺せと。佐野から聞きました」
まだ尼が佐野に襲われたことを佳穂以外その場の者は知らなかった。
「まことか」
「父上、まことにございます。なれど佐野はしくじり傷を負って臥せっております。尼は生きております」
斉理の目には怒りの色が見えた。
「なぜに尼を殺すなど」
聡姫の疑問に答えたのは佳穂だった。
「畏れながら、尼は尋ねて来た奥女中の顔を知っているのではありませんか。奥女中は尼が生きていては困るのでは」
皆一言も口をきけなかった。重苦しい雰囲気が座敷を包んだ。
シロは斉理の前でお座りをした。
「この犬をどうにかせい」
斉理は顔を青ざめさせていた。よほど犬が嫌いらしい。
「しばらく堪えてください。シロは私が命じなければ動きません」
「どういうことだ」
斉陽は又四郎とシロを交互に見た。
「父上はこの袱紗と同じ匂いがするということですか。袱紗は父上が持っておいでだったということですか」
登美姫は言った。同じことを佳穂も考えていた。
「あるいは、母上が持っていた物ゆえ、父上からも同じ匂いがしたということか」
斉陽の言うことも一理あると佳穂は思った。
「いいえ。違います。下野守様にシロが寄ったのは、わけがありますが、その説明は後ほど。袱紗を持っていたのは分家の奥の川村です」
佳穂以外のその場の者には全員、わけがわからなかった。
又四郎は驚くほど冷静な口調で話し始めた。
「先ほど分家にお邪魔して、袱紗の匂いをシロにかがせて探させたのです。すると、川村のいる場所にシロは参りました。中年寄の呉竹殿の部屋でした」
「で、では、呉竹ではないか、袱紗を持っていたのは」
斉理は叫んだ。又四郎は首を横に振った。
「シロが飛びかかったのは、川村でした。呉竹殿の部屋にいた川村は呉竹殿をどういう方法でかわかりませんが、眠らせ、自害をしたかのように見せかけようとしていたのです。わざわざ遺書まで用意して。幸い、呉竹殿は殺されることはありませんでしたが、懐剣の鞘が抜かれて落ちていましたので、今少し遅れたら呉竹殿は殺されていたはず」
吉井は懐から封書を出して、「遺書」を広げて読み上げた。その場の人々は一人を除いてその内容に震えあがった。佳穂も改めて耳で聞くと震撼せざるを得なかった。叔母がかようなことを書くとは。
「呉竹が書いたものであろうが」
斉理の声は震えていた。
吉井は立ち上がり佳穂の下座に座り、「遺書」を佳穂の目の前に広げた。
「この文字に見覚えがありませんか」
まさか、このような場所で再び問われると思っていなかった佳穂はすぐには声を出せなかった。斉理の視線が突き刺さるようだった。佳穂の言葉次第では許さぬと言わんばかりの強い視線だった。だが、嘘は言えない。佳穂の主は奥方様であり、本家の方々。その方たちに求められたら、真実を言うしかない。
それに、吉井は佳穂を信頼している。川村の姪であるにも関わらず。その信頼を裏切ることはできない。
叔母の罪によって又四郎に仕えることができなくなっても致し方ない。これまでがあまりに幸せ過ぎたのだ。あばたのある己が愛されるなど分不相応だったのだ。
せめてこんな自分を大切にしてくれている又四郎や月野家の人々には誠実でありたかった。
大きく息を吸って、声を出した。
「はい。叔母の川村の文の文字と同じです。この『候』という文字は私への文に書いてあるものと同じ形」
「では、後ほど、文を見せていただけますか」
「はい」
吉井は上座の斉理を見た。
「これは川村殿の文字ということ、明らかです。下野守様、おわかりいただけましたか」
斉理の顔色が赤くなっていた。怒りのためであろうか。
「お佳穂、そなた、又四郎の御手付きゆえ、又四郎の言いなりになっておるのであろうが。それでも、月影藩国家老川村三右衛門の娘か。叔母を愚弄するとは」
思いもかけぬ斉理の攻撃だった。佳穂は叔母を愚弄するつもりなどなかった。真実を伝えただけだった。仕える本家の目付の命令に従って。
「お佳穂は嘘など申しません」
聡姫はぴしゃりと言った。
「お佳穂を愚弄なさっているのは兄上ではありませんか」
斉理はぐっとこぶしを握った。
佳穂はふだんは物静かな奥方様がどれだけのお気持ちで実の兄に言ったのか、その気持ちを想像し、ありがたくも勿体ないことと思った。
「文字のことは目付らが詳細に調べましょう。ただ瑠璃姫様の打掛には袱紗と同じ香りがしなかったことは確か。袱紗は瑠璃姫様が浪人の一件に関わったという証拠にはなりません。従って、捕縛の必要はありません。ましてや離縁など。下野守様も隠居される必要はありません。めでたいことではありませんか」
又四郎の言葉が佳穂には皮肉めいて聞こえた。
「罰するべきは川村一人でしょう。勝手に瑠璃姫様の気持ちを斟酌し、私を殺害せんと三か月も前に主の袱紗を盗み、いえ、昨年の夏大川端で光信院様と花火見物をしていたお志麻の方に尼を近づけたのですから。まことに計画的。しかしながら、私は昨年の夏はまだ分家の部屋住み。どうせ殺すなら食事に毒でも入れれば食あたりで死んだということで終わったはずなのですが。どうして、かように手の込んだことを川村はしたのやら」
又四郎は斉理を見た。シロに睨まれ動けぬ斉理の顔はいまだに赤い。何を怒っているのか。
「それにしても、この遺書に書かれていることをすべて川村殿一人でやったとすれば、死罪は免れませぬな。かようなことは月野家始まって以来」
吉井は言った。
「川村にできるわけなかろう。御客応答ぞ。勝手な外出などできるはずなかろう」
斉理の言葉は先ほどより力がなくなっていた。
「ええ、そうでしょうね。奥の女子は重職にあればあるほど頻繁に外に出ることはできません。中臈のお佳穂でさえ、めったに分家の叔母に会うことはなかったのですから。ですが、これが男なら外に出ることはできます。私も部屋住みでしたが、供の者をつけて夕刻までに帰宅すると届け出れば、外出は簡単でした。下野守様もそうでしょう」
「又四郎、何が言いたいのだ」
斉理は息子を睨んだ。
「又四郎殿、ところで、なぜに、シロは父上のところから離れぬのか。父上が袱紗を持っていたわけではなかろうに。シロが呉竹の部屋まで行ったのは偶然ではないか。シロの鼻はまこと正しいのか」
斉陽の言葉で皆、そういえばと思い出した。確かにおかしい。
「少々お待ちを。その前にやることがあります。シロ、スタンダップ、カメ、スイット」
シロは再び、又四郎の前に控えた。斉理は犬がいなくなったと安堵したのか、姿勢を正した。
又四郎は吉井を見た。
「吉井殿、あれを」
吉井は長い包みを畳の上に置き広げた。姿を現したのは懐剣だった。
「これは、浪人の背中に刺さっていた懐剣。血はすでに拭っております」
吉井の説明に佳穂は寒気を覚えた。佳穂もまた懐剣を持っているが、使う機会はなかった。
「ですが、この懐剣には、浪人を刺した者の証拠が残っております。人はたとえ何もしていなくとも見えない汗をかいておると知り合いの医師が申しておりました。緊張すると汗の量が増えるとも。ましてや、今は秋に入ったとはいえまだ暑い日々が続いております。そんな時に人を殺そうとする者はどれほど汗をかいていることか。つまり、懐剣の柄には浪人を刺した者の汗が多く残っているのです。その匂いもシロにはわかるのです」
又四郎はそう言うと、吉井に脇差を貸すように言った。そして、自分の脇差も畳の上に置いた。
二本の脇差を畳の上に置くと、シロに命じた。
「お佳穂、シロの注意をひきつけてくれぬか。こちらを見ぬように」
佳穂はどういう意図があるのかわからぬが、シロにカメと言った。シロは佳穂に近づいた。佳穂はその首筋を撫でた。
「ぐっじょぶ」
シロは嬉しそうに尾を振った。
その背後では、又四郎はどちらかの脇差を選ぶように斉陽に言った。斉陽は吉井の脇差を選んだ。
「お佳穂、脇差の柄をシロにかがせてサーチと言ってもらえぬか」
佳穂はシロを座らせると、吉井の脇差の鞘を持って柄の部分をシロの鼻先にもっていった。シロは鼻をクンクンさせた。
「さあち」
佳穂の命令にシロは遊びと思ったのか嬉しそうに歩き始めたかと思うと、吉井の前でワンと吠えた。佳穂はシロにぐっじょぶと言い首を撫でた。
「凄いな、これは」
斉陽だけでなく皆目を見張った。ただ一人、斉理をのぞいて。
「かように、犬には汗の匂いもわかるのです。それゆえ、異国では行方のわからぬ者を犬に探させることもあるとか」
又四郎は懐剣を見た。
「私の考えが正しければ、この懐剣の主はこの屋敷内にいるはずです。そこで、今からシロに懐剣の持ち主を捜してもらいます。なにしろ、浪人をすでに一人殺している者ですから、それを放置するわけにはいきません。父上、よろしいでしょうか」
斉尚は問われてうなずいた。
「よかろう。さような凶悪な者を野放しにはできぬ」
又四郎は懐剣の柄をシロにかがせた。
「サーチ」
シロは動き始めた。だが、座敷の外には出なかった。
とことこと歩くと、またもや斉理の前で吠えた。
「この馬鹿犬が」
斉理は脇差を抜いた。
「父上」
斉陽は驚き立ち上がり父を背後から羽交い絞めにすると、脇差を父の手から叩き落した。親戚とはいえ他家の座敷で脇差を抜くなどあってはならぬことだった。
「殺生はなりませぬ」
「ええい、放せ」
斉尚は斉理の鬼のように凄まじい形相に驚いた。
「下野守、いかがした。乱心か」
吉井は斉陽を手伝い、早縄で斉理の腕を後ろ手に縛った。捕縄術を使うのは若い時以来だった。その早業を皆呆然と見ていた。
「離せ、目付ごときが何をする」
縛った斉理をその場に座らせた吉井はシロに言った。
「すいっと」
するとシロは斉理を見張るかのようにその前に座った。斉理の赤い顔が青くなった。
「見事だな、吉井」
又四郎は驚いた。いつの間にコマンドを覚えたのかと。
「先ほどから聞いておればわかります。さて、若殿様、ご説明をお願いします。これはいかなることか、それがしにもわかりかねますゆえ」
又四郎はゆっくりとシロの後ろに立って実父月野下野守斉理を見下ろした。
「この懐剣は父上の物でございましょう。父上が浪人赤岩半兵衛を殺したのでしょう」
「知らぬ。何のことじゃ。大体、わしは奥女中ではないぞ。懐剣は奥女中の持つ物」
斉理は息子を睨みつけた。
又四郎は周囲の家族と佳穂を見回した。
「我が月影藩月野家分家の役目は本家に世継ぎ無き時の備え。従って、分家は決して血筋を絶やすことが許されません。特に男子は大切に育てられます。病に冒されぬように、次男以下は江戸だけでなく国許にやられ、子どもの頃から元服の一年ほど前まで女子の姿で育てられます。斉陽殿もさようであったはず」
斉陽は少し照れたようにうなずいた。
「ああ、そうじゃ。まこと気恥ずかしくてならなかったのう」
「私も斉陽殿も。それに下野守様も。その兄上もそうだったはずです。男子は全員女子の姿で育てられるのです。髪型も装束も。呼び名も女子の名をつけて」
身体の弱い男児は女児の姿で育てられると佳穂も聞いたことがあった。
又四郎もそうだったのだろうか。佳穂はある可能性に気付いた。まさか、そんなことが……。
「ゆえに、女子の恰好をするのは慣れておるはず」
「馬鹿を言うでない」
斉理は否定した。子どもの時ならいざ知らず、大人になってから女子の姿をするというのは無理な話だと佳穂は思った。眉を剃ったり、鉄漿を付けねばならないのだから。
「そうでしょうか。奥女中の着物を着て御高祖頭巾をして目だけ見せればどうでしょうか。奥女中のように鉄漿をしていなくとも口を隠していればわかりません」
そうかもしれぬが、斉理が女装というのは信じられなかった。
「屋敷を男子の姿で出て、途中どこかの屋敷、品川や広尾に近い場所で奥女中の装束に着替え、浪人を殺害し、そのまま屋敷に戻り血に汚れた衣裳を脱ぎ元の男の姿になれば、気付かれずに戻ることができます」
又四郎は袂から紫の布を出すと、さっと斉理の頭を器用に包み始めた。すぐに御高祖頭巾の形となった。
「目付殿、尼を連れて来てもらえぬか」
「はっ」
吉井は廊下に控えていた配下の者に命じた。斉理は目を大きく見開いた。信じられぬという顔に見えた。
「馬鹿な」
頭巾の下からくぐもった声が聞こえた。
「馬鹿ではありません。あなたは、佐野覚兵衛に命令したのでしょう。伶観を殺せと。佐野から聞きました」
まだ尼が佐野に襲われたことを佳穂以外その場の者は知らなかった。
「まことか」
「父上、まことにございます。なれど佐野はしくじり傷を負って臥せっております。尼は生きております」
斉理の目には怒りの色が見えた。
「なぜに尼を殺すなど」
聡姫の疑問に答えたのは佳穂だった。
「畏れながら、尼は尋ねて来た奥女中の顔を知っているのではありませんか。奥女中は尼が生きていては困るのでは」
皆一言も口をきけなかった。重苦しい雰囲気が座敷を包んだ。
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