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解ける謎
漆 椿屋敷の人
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足音が近づいて来た。
目付の部下らに引かれて来た伶観であった。
「一体、あたしに殿様たちが何の用だい」
辺りを見回していた尼は縛られた斉理を見つけた。
「あれ、あんたは、どっかで見た事があるねえ。男だったのかい。道理で声が低いと思ったよ」
「尼殿、どこで見たのだ」
又四郎の問いに、尼はにやりと笑った。
「いやあ、いい男だねえ。おまえさんのお尋ねならなんでも答えるよ。なにしろ番屋の連中はいかつい顔ばかりでねえ。やっぱり御殿の中に住んでるとお顔立ちも違うんだねえ。この年まで生きててよかった」
「伶観、若殿様の御前ぞ、まじめに答えよ」
吉井の声に尼はおお、こわっと言って、肩をすくめた。
「どこでって、広尾村の庵さ。いい乗り物に乗っておいでだった。いつもこんな頭巾をしてね。どんな暑い日でも絶対に頭巾を取らなかった。着てる物もいい生地でさ。金払いもよかったし。一体、どちらの御家中の御年寄だろうって思ったよ。でも、袱紗に入った一分銀全部、ぶちまけろって言われてぶちまけたけど、あれどうなったんだい。あたしの物に一枚くらいならないのかい」
「袱紗とはこれか」
又四郎は袱紗を見せた。
「ああ、こいつだよ。いい匂いのする袱紗でさ、前の晩に御使いだっていう若い侍が来て、これを明日の朝浪人が来た時に、目の前でぶちまけろって言うんだよ。浪人は手を傷つけるかもしれぬが、殺しはしないってね。で、浪人が落としたと言えって。そういや、あの侍、今日、あたしを斬りに来たのと似てるような気がするんだけど。前に会った時は暗くてよく顔が見えなかったから、確かなことはわからないけどね」
吉井は絶句した。尼はあたかも己だけがひどい目に遭ったかのように話をしており、袱紗を事前に持っていたとは語っていなかったのである。
「伶観、それはまことのことか。今まで偽りを申していたのか」
「全部嘘じゃないけど。でも、袱紗を持ってたなんて言ったら、あたしが袱紗泥棒ってことにされるじゃないか。腐ってもあたしは盗みだけはしないんだ」
さも当然のように尼は言った。
それまで黙って聞いていた斉理は言った。
「そなたらは、かようないい加減な尼のことを信じるのか」
「信じる」
淑姫が口を開いた。
「尼は我ら月野家の者となんの利害関係もない。叔父上が奥女中であると認めても、認めなくとも、すでにお志麻をたぶらかした罪は明らか。今更、嘘を言って罪が軽くなるとは思ってはおるまい。そうであろう」
「お姫様、なんか難しいこと言ってるけど、あたしのこと信じてくれるのかい。ありがたいね。ああ、嘘じゃないよ。この頭巾のお人は庵に来た奥女中さ。初めて来た日に仕えている御方やこの人のことを占ったよ。えっと丁巳寛政九年(一七九七年)の弥生十日の江戸生まれだろ。引っ越しが多いって卦が出てるから江戸からどっか西のほうに移ってまた江戸に戻って来たんじゃないかって言ったら当たっていると仰せでねえ。ま、こちとら、国の訛りを聞けば西の人間か東の人間かなんてよくわかるのさ。なのに、ころっと騙されて」
ケケケと尼は笑った。
斉理はカッと尼を睨みつけた。
「おお、こわっ。お役人さん、早く座敷に戻しとくれ。奥女中の真似事をしてた男の顔なんぞ、見たくもないよ」
「連れて行け」
吉井の命令に配下の者らは従った。
尼が去った後、又四郎は言った。
「下野守様、そろそろ本当のことを仰せになってください。証拠は明白です」
「馬鹿犬やあのような尼の言うことを信じるのか」
「それには理由があります」
又四郎は斉陽と登美姫を見た。
「これから話すことは聞かせたくはないゆえ、出てもらえぬか」
「どういうことだ」
「斉陽殿と登美姫の父上の不義の話ゆえ」
「構いません」
そう言ったのは登美姫だった。
「恐らくそうであろうと薄々気づいておりました。父上が川村と不義の仲であることを」
「まことか」
斉陽にとって思いも寄らぬ妹の言葉であった。いや、佳穂にも斉尚にも聡姫にも淑姫にも。
「父上から川村の香の匂いがしたのでございましょう」
又四郎は登美姫の言葉にうなずいた。
「そうだ。恐らく、あれは瑠璃姫様が三十を過ぎた頃、床を遠慮された頃のことだと思う。父が私の部屋を訪ねて来て話をしたことがあった。その時に何やらうっすらと甘い匂いがした。そんなことが幾度かあった。忘れていたが、やっと思い出したのだ。そしておそらく、今日の朝、川村は父上に呉竹の殺害の予定を伝えた。その時に香が沁みたのではないか。無論、寺の線香の香りもあるゆえ、人にはわからぬものであろう。だが、犬にはわかったのだ。紛らわしい匂いの中に、父上に染みついた袱紗と同じ川村の香りがあることに」
一同は押し黙ってしまった。そのような事実が隠されていたとは、誰も想像できなかったのである。
「そこまで、そこまで気づいておったのか」
斉理の声が沈黙を破った。
「言い分があるのか。頭巾を外してやれ」
斉尚の命を受け、又四郎は頭巾を解いた。
「なぜ、私だけが……、斉尚、そなたにはわかるまい。分家の者の思いなど」
血を吐くような叫びだった。佳穂は寒気を覚えた。
「又四郎、そなたならわかるであろう。私は次男ゆえ江戸を離れ国許の椿屋敷で女子のなりで育てられた。元服後は守役であった佐野の養子として暮らしていた。そなたの母とは早くに死に別れたが、そなたとの暮らしはそれなりに幸せであった。なのに、兄が死に、私は江戸へ呼び戻された。まだ七つのそなたを置いてだ。そなたは私が分家の主になったがために、佐野の家から離れ月輪郷の椿屋敷に入れられ、女子のなりをさせられた。遊びたい盛りであったであろうに。私も江戸に来ると縁組相手までも決められていた。亡くなった兄の許婚者を娶れと本家の命令でな。しかも分家の主となったはいいが、大名とは名ばかりのような暮らし。城に上がれば、公方様に御目通りするにしても十把一絡げの扱い。多くの格上の大名の中で窮屈な思いばかりじゃ。参勤交代がないゆえ、国にも戻れぬ。だが、私にはお千勢がいた。幼い頃に国許で共に遊んだ仲であった。中臈のお千勢が愛しくてならなかった。だが、側室を置けば金がかかる。お千勢も奥で出世をしたいと言い、我らは密通するしかなかったのだ」
お千勢が誰か佳穂は知っている。叔母のまことの名である。だが、それよりも驚いたのは、椿屋敷であった。そこに又四郎がいた。それも女子の姿で。
佳穂は又四郎を見た。まさか、そんなことがあるのだろうか。もし、そうなら……。
佳穂は又四郎の長いまつげを見た。けぶるような千代のまつげを思い出す。背筋を伸ばした凛とした立ち姿も、笑う時に見えた白い歯も、血色のいい顔も。千代とそっくりではないか。
長い間、千代こそが佳穂にとって光明だった。あばたのことを病に打ち勝った証、誇るべきものと言っていた千代。千代がいなければ、佳穂は己の境遇を恨むばかりで奥女中になろうなどとは思わなかったかもしれない。佳穂を導いてくれた光。その千代が、又四郎だとしたら。
月野下野守斉理の断罪の場であるにもかかわらず、佳穂の胸からは熱い思いがあふれそうになっていた。
「父上、さようなことをずっと思っておいでだったのですか」
斉陽は父を見つめた。
「そなたたちのことは可愛い。だが、私とて、願いがあった。お千勢とともにいたいという」
「それで母上を離縁するためにかようなことをなさったのですか」
登美姫にとってそれは否定して欲しい問いだった。
「そうだ。離縁して、私が隠居すれば、お千勢と暮らせる。そう思ったのだ。だが、なかなかうまくいかぬ。瑠璃はまことによくできた女子であったからな。それで、瑠璃を罠にはめることにした。又四郎の命を狙ったとな。ただし、又四郎に死なれては困る。又四郎が本家におれば、私は本家当主の実の父。瑠璃の持参金を星川家に返しても暮らしに困ることはないゆえな。それで尼とお志麻の方を使ったのだ」
「なぜ、昨年からお志麻の方に近づいたのですか」
又四郎にとって最大の疑問だった。
「ああ、それはな。お志麻の方と若殿の間を裂くためじゃ」
又四郎はまさかと思った。逆ではないのかと。
「まだ若殿は元気であったゆえ、お千勢が言ったのだ。姪のお佳穂を若殿の側室にできぬかと。お佳穂が若殿の側室になれば、この先自分も本家の側室の叔母として奥で力を振えるとな。だから、私は知り合いの旗本から占いのよく当たる尼がいると聞き、奥女中の姿で近づいたのだ。さような尼なら欲深いはずと思い、大川端の花火見物にお志麻達が忍んで行くことやお志麻の家族のことなどを教え、尼がお志麻に信用されるように企てた。お志麻は簡単に尼を信用し、若殿の寵愛を受け続けるために尼の言いなりになった。
だが、おかしなことに尼の助言の通りにお志麻は動いたのに、若殿は逆にそれで惹かれてしまった。町娘のような言葉遣いをすれば、面白いと言い、団子や桜餅が食べたいと言えば、若殿まで一緒に味を覚えてうまいうまいと言う。目論見が外れてしまった。だが、あっけなく死んでくれたおかげで、又四郎に本家の跡継ぎの地位が舞い込んだ。これで私は本家の当主の父だ。だが、瑠璃が邪魔だった。なんとか離縁できぬかと思い、又四郎の命を狙っていたという話をお千勢と考えた。お千勢は、姪のお佳穂にかねてから瑠璃の悪評を吹き込んでおった。優秀な又四郎を嫌っていると言ってな」
佳穂は己も斉理や叔母の手のひらの上で踊らされていたのだと気づいた。叔母の言っていたことは瑠璃姫を陥れるための罠だったのだ。しかも奥で権力を握るために、先日亡くなられた若殿様の側室に佳穂を考えていたとは。佳穂の幸せなどみじんも考えていなかった叔母は、同じようにお志麻のことも手駒の一つとしか考えていなかったらしい。当然のことながら、伶観や赤岩もまた用が済めば消せばいいと思っていたのだろう。
叔母の権力を求める気持ちの強さに恐怖を覚えた。が、佳穂とて、権力が欲しいと思ったことはある。人は同じことを思っても、ほんのわずかのことで結果が変わってしまう。佳穂は己もまたどこかで道を間違えれば、叔母のようになるかもしれぬと思った。ただ、佳穂には又四郎がいた。もうすぐ別れねばならぬ定めであるが、又四郎を思うがゆえの闇に惑いたくはなかった。
「尼を使い、お志麻を唆した。又四郎の側近につけていた佐野の倅にも手伝わせた。あれこれ手をまわしてお志麻を又四郎の閨に送った。町娘に殺せるわけはなかろう。企み通りにお志麻は捕われ、尼の名が出た。尼にはお千勢がとっておいた袱紗に一分銀を入れたものをぶちまけさせた」
「赤岩は」
「佐野の倅は神田の玄武館で赤岩と共に剣術を学んでいた。それで赤岩に尼を襲わせた。尼は実はイカサマの占いで主君の家族を惑わしたゆえ脅かして欲しい、謝礼は品川の茶屋で奥の方が渡すからと言うてな。赤岩という男は金に困っていたようでな。貧乏人の多い長屋で手習いの師匠などやっていても、食べていくのが精一杯だからな。脅す程度ならと請け負ったのだ。ただ、佐野には赤岩を殺すことは言わなかった。佐野には赤岩を危険な目に遭わせるつもりはなかったのだ」
「そして、あなたは奥女中に扮して口止めのため茶屋へ行ったのですか」
「その通りだ。赤岩は佐野が月野家の家臣だと知っておったからな。生かしておくわけにはいかなかった。星川家に元いた赤岩が尼を傷つけたならば、星川家の出の瑠璃が関わっていると、誰もが思う。その赤岩を殺したのは、瑠璃に仕える奥女中ということにすれば、何もかも瑠璃の責任ということになろう。だが、そなたがそこまで考えておったとは」
「父上が離縁と隠居を急がれているようでしたので」
「焦りは禁物か」
斉理は苦笑いを浮かべた。だが、他の者は誰も笑えなかった。
愛する者と幸せになりたい。たったそれだけのために、人を殺めた。その事実は重かった。
斉尚は苦し気な表情で又四郎を見た。
「又四郎、もうよい。そなたの実の父ではないか。後は余が」
「かしこまりました」
又四郎は頭を下げた。
「シロ、スタンダップ、カメ、スイット」
シロは立ち上がり又四郎に近づきその横に座った。まるで昔から仕えていた家来のようであった。
「目付以外は皆下がれ。瑠璃姫を広敷の座敷に。斉陽殿、登美姫、広敷にて母上を待つがよい」
「かしこまりました」
いまだ胸にさまざまな思いを抱え呆然とする佳穂の手を又四郎の手がつかんだ。佳穂はその顔を見上げた。わずかに微笑んだ表情には悲しみと苦しみが秘められていた。
この手をここで振りほどくことなどできなかった。
二人を先導するようにシロが廊下に出た。
西に傾きかけた日差しが廊下を歩く若い人々と犬を照らした。
座敷には斉尚、目付の吉井、斉理だけが残った。
目付の部下らに引かれて来た伶観であった。
「一体、あたしに殿様たちが何の用だい」
辺りを見回していた尼は縛られた斉理を見つけた。
「あれ、あんたは、どっかで見た事があるねえ。男だったのかい。道理で声が低いと思ったよ」
「尼殿、どこで見たのだ」
又四郎の問いに、尼はにやりと笑った。
「いやあ、いい男だねえ。おまえさんのお尋ねならなんでも答えるよ。なにしろ番屋の連中はいかつい顔ばかりでねえ。やっぱり御殿の中に住んでるとお顔立ちも違うんだねえ。この年まで生きててよかった」
「伶観、若殿様の御前ぞ、まじめに答えよ」
吉井の声に尼はおお、こわっと言って、肩をすくめた。
「どこでって、広尾村の庵さ。いい乗り物に乗っておいでだった。いつもこんな頭巾をしてね。どんな暑い日でも絶対に頭巾を取らなかった。着てる物もいい生地でさ。金払いもよかったし。一体、どちらの御家中の御年寄だろうって思ったよ。でも、袱紗に入った一分銀全部、ぶちまけろって言われてぶちまけたけど、あれどうなったんだい。あたしの物に一枚くらいならないのかい」
「袱紗とはこれか」
又四郎は袱紗を見せた。
「ああ、こいつだよ。いい匂いのする袱紗でさ、前の晩に御使いだっていう若い侍が来て、これを明日の朝浪人が来た時に、目の前でぶちまけろって言うんだよ。浪人は手を傷つけるかもしれぬが、殺しはしないってね。で、浪人が落としたと言えって。そういや、あの侍、今日、あたしを斬りに来たのと似てるような気がするんだけど。前に会った時は暗くてよく顔が見えなかったから、確かなことはわからないけどね」
吉井は絶句した。尼はあたかも己だけがひどい目に遭ったかのように話をしており、袱紗を事前に持っていたとは語っていなかったのである。
「伶観、それはまことのことか。今まで偽りを申していたのか」
「全部嘘じゃないけど。でも、袱紗を持ってたなんて言ったら、あたしが袱紗泥棒ってことにされるじゃないか。腐ってもあたしは盗みだけはしないんだ」
さも当然のように尼は言った。
それまで黙って聞いていた斉理は言った。
「そなたらは、かようないい加減な尼のことを信じるのか」
「信じる」
淑姫が口を開いた。
「尼は我ら月野家の者となんの利害関係もない。叔父上が奥女中であると認めても、認めなくとも、すでにお志麻をたぶらかした罪は明らか。今更、嘘を言って罪が軽くなるとは思ってはおるまい。そうであろう」
「お姫様、なんか難しいこと言ってるけど、あたしのこと信じてくれるのかい。ありがたいね。ああ、嘘じゃないよ。この頭巾のお人は庵に来た奥女中さ。初めて来た日に仕えている御方やこの人のことを占ったよ。えっと丁巳寛政九年(一七九七年)の弥生十日の江戸生まれだろ。引っ越しが多いって卦が出てるから江戸からどっか西のほうに移ってまた江戸に戻って来たんじゃないかって言ったら当たっていると仰せでねえ。ま、こちとら、国の訛りを聞けば西の人間か東の人間かなんてよくわかるのさ。なのに、ころっと騙されて」
ケケケと尼は笑った。
斉理はカッと尼を睨みつけた。
「おお、こわっ。お役人さん、早く座敷に戻しとくれ。奥女中の真似事をしてた男の顔なんぞ、見たくもないよ」
「連れて行け」
吉井の命令に配下の者らは従った。
尼が去った後、又四郎は言った。
「下野守様、そろそろ本当のことを仰せになってください。証拠は明白です」
「馬鹿犬やあのような尼の言うことを信じるのか」
「それには理由があります」
又四郎は斉陽と登美姫を見た。
「これから話すことは聞かせたくはないゆえ、出てもらえぬか」
「どういうことだ」
「斉陽殿と登美姫の父上の不義の話ゆえ」
「構いません」
そう言ったのは登美姫だった。
「恐らくそうであろうと薄々気づいておりました。父上が川村と不義の仲であることを」
「まことか」
斉陽にとって思いも寄らぬ妹の言葉であった。いや、佳穂にも斉尚にも聡姫にも淑姫にも。
「父上から川村の香の匂いがしたのでございましょう」
又四郎は登美姫の言葉にうなずいた。
「そうだ。恐らく、あれは瑠璃姫様が三十を過ぎた頃、床を遠慮された頃のことだと思う。父が私の部屋を訪ねて来て話をしたことがあった。その時に何やらうっすらと甘い匂いがした。そんなことが幾度かあった。忘れていたが、やっと思い出したのだ。そしておそらく、今日の朝、川村は父上に呉竹の殺害の予定を伝えた。その時に香が沁みたのではないか。無論、寺の線香の香りもあるゆえ、人にはわからぬものであろう。だが、犬にはわかったのだ。紛らわしい匂いの中に、父上に染みついた袱紗と同じ川村の香りがあることに」
一同は押し黙ってしまった。そのような事実が隠されていたとは、誰も想像できなかったのである。
「そこまで、そこまで気づいておったのか」
斉理の声が沈黙を破った。
「言い分があるのか。頭巾を外してやれ」
斉尚の命を受け、又四郎は頭巾を解いた。
「なぜ、私だけが……、斉尚、そなたにはわかるまい。分家の者の思いなど」
血を吐くような叫びだった。佳穂は寒気を覚えた。
「又四郎、そなたならわかるであろう。私は次男ゆえ江戸を離れ国許の椿屋敷で女子のなりで育てられた。元服後は守役であった佐野の養子として暮らしていた。そなたの母とは早くに死に別れたが、そなたとの暮らしはそれなりに幸せであった。なのに、兄が死に、私は江戸へ呼び戻された。まだ七つのそなたを置いてだ。そなたは私が分家の主になったがために、佐野の家から離れ月輪郷の椿屋敷に入れられ、女子のなりをさせられた。遊びたい盛りであったであろうに。私も江戸に来ると縁組相手までも決められていた。亡くなった兄の許婚者を娶れと本家の命令でな。しかも分家の主となったはいいが、大名とは名ばかりのような暮らし。城に上がれば、公方様に御目通りするにしても十把一絡げの扱い。多くの格上の大名の中で窮屈な思いばかりじゃ。参勤交代がないゆえ、国にも戻れぬ。だが、私にはお千勢がいた。幼い頃に国許で共に遊んだ仲であった。中臈のお千勢が愛しくてならなかった。だが、側室を置けば金がかかる。お千勢も奥で出世をしたいと言い、我らは密通するしかなかったのだ」
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佳穂は又四郎を見た。まさか、そんなことがあるのだろうか。もし、そうなら……。
佳穂は又四郎の長いまつげを見た。けぶるような千代のまつげを思い出す。背筋を伸ばした凛とした立ち姿も、笑う時に見えた白い歯も、血色のいい顔も。千代とそっくりではないか。
長い間、千代こそが佳穂にとって光明だった。あばたのことを病に打ち勝った証、誇るべきものと言っていた千代。千代がいなければ、佳穂は己の境遇を恨むばかりで奥女中になろうなどとは思わなかったかもしれない。佳穂を導いてくれた光。その千代が、又四郎だとしたら。
月野下野守斉理の断罪の場であるにもかかわらず、佳穂の胸からは熱い思いがあふれそうになっていた。
「父上、さようなことをずっと思っておいでだったのですか」
斉陽は父を見つめた。
「そなたたちのことは可愛い。だが、私とて、願いがあった。お千勢とともにいたいという」
「それで母上を離縁するためにかようなことをなさったのですか」
登美姫にとってそれは否定して欲しい問いだった。
「そうだ。離縁して、私が隠居すれば、お千勢と暮らせる。そう思ったのだ。だが、なかなかうまくいかぬ。瑠璃はまことによくできた女子であったからな。それで、瑠璃を罠にはめることにした。又四郎の命を狙ったとな。ただし、又四郎に死なれては困る。又四郎が本家におれば、私は本家当主の実の父。瑠璃の持参金を星川家に返しても暮らしに困ることはないゆえな。それで尼とお志麻の方を使ったのだ」
「なぜ、昨年からお志麻の方に近づいたのですか」
又四郎にとって最大の疑問だった。
「ああ、それはな。お志麻の方と若殿の間を裂くためじゃ」
又四郎はまさかと思った。逆ではないのかと。
「まだ若殿は元気であったゆえ、お千勢が言ったのだ。姪のお佳穂を若殿の側室にできぬかと。お佳穂が若殿の側室になれば、この先自分も本家の側室の叔母として奥で力を振えるとな。だから、私は知り合いの旗本から占いのよく当たる尼がいると聞き、奥女中の姿で近づいたのだ。さような尼なら欲深いはずと思い、大川端の花火見物にお志麻達が忍んで行くことやお志麻の家族のことなどを教え、尼がお志麻に信用されるように企てた。お志麻は簡単に尼を信用し、若殿の寵愛を受け続けるために尼の言いなりになった。
だが、おかしなことに尼の助言の通りにお志麻は動いたのに、若殿は逆にそれで惹かれてしまった。町娘のような言葉遣いをすれば、面白いと言い、団子や桜餅が食べたいと言えば、若殿まで一緒に味を覚えてうまいうまいと言う。目論見が外れてしまった。だが、あっけなく死んでくれたおかげで、又四郎に本家の跡継ぎの地位が舞い込んだ。これで私は本家の当主の父だ。だが、瑠璃が邪魔だった。なんとか離縁できぬかと思い、又四郎の命を狙っていたという話をお千勢と考えた。お千勢は、姪のお佳穂にかねてから瑠璃の悪評を吹き込んでおった。優秀な又四郎を嫌っていると言ってな」
佳穂は己も斉理や叔母の手のひらの上で踊らされていたのだと気づいた。叔母の言っていたことは瑠璃姫を陥れるための罠だったのだ。しかも奥で権力を握るために、先日亡くなられた若殿様の側室に佳穂を考えていたとは。佳穂の幸せなどみじんも考えていなかった叔母は、同じようにお志麻のことも手駒の一つとしか考えていなかったらしい。当然のことながら、伶観や赤岩もまた用が済めば消せばいいと思っていたのだろう。
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「佐野の倅は神田の玄武館で赤岩と共に剣術を学んでいた。それで赤岩に尼を襲わせた。尼は実はイカサマの占いで主君の家族を惑わしたゆえ脅かして欲しい、謝礼は品川の茶屋で奥の方が渡すからと言うてな。赤岩という男は金に困っていたようでな。貧乏人の多い長屋で手習いの師匠などやっていても、食べていくのが精一杯だからな。脅す程度ならと請け負ったのだ。ただ、佐野には赤岩を殺すことは言わなかった。佐野には赤岩を危険な目に遭わせるつもりはなかったのだ」
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「焦りは禁物か」
斉理は苦笑いを浮かべた。だが、他の者は誰も笑えなかった。
愛する者と幸せになりたい。たったそれだけのために、人を殺めた。その事実は重かった。
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「又四郎、もうよい。そなたの実の父ではないか。後は余が」
「かしこまりました」
又四郎は頭を下げた。
「シロ、スタンダップ、カメ、スイット」
シロは立ち上がり又四郎に近づきその横に座った。まるで昔から仕えていた家来のようであった。
「目付以外は皆下がれ。瑠璃姫を広敷の座敷に。斉陽殿、登美姫、広敷にて母上を待つがよい」
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この手をここで振りほどくことなどできなかった。
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座敷には斉尚、目付の吉井、斉理だけが残った。
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