初恋はいつ実る?

三矢由巳

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23 噂だとわかっていても

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 兵庫様からメールが来た。
 母上は不義密通を疑われるから兵庫様に近づかないほうがいいと言っていた。上様の御側に仕えておいでのようだから、左京様のいる場所を御存知かもしれないのだけれど。
 その兵庫様からメールが来た。左京様のことで不審な噂を耳にしたと。
 一体不審な噂とはどういう噂なのだろうか。仕事のことだろうか。でも、仕事で不審なことって一体なんだろうか。「今週の切腹」では公金横領、賄賂等の罪状で切腹する役人が多い。まさか、その類であろうか。いや、ありえない。左京様は真面目だし、何より横領して一体何にお金を使うのだろうか。賭け事も深酒もなさらないし、贅沢な持ち物も持っていないのだ。
 仕事でなければ何だろう。まったく予想もつかなかった。
 知りたい。
 噂を聞いているならどこにおいでになるかも知っているかもしれない。
 だが、母上から言われたことを思えば連絡をとるなどもっての外だった。
 どうすればいいのだろうか。
 知りたい気持ちと不義密通を疑われる恐れの間で私は揺れていた。
 生徒を帰した後、誰もいなくなった教室の戸締りを確認しながら私は返信すべきか迷っていた。
 噂の中身を知りたい。けれど兵庫様に近づくわけにはいかない。どうしたら……。
 そうだ。ひらめいた。
 噂なら兵庫様だけが知っているはずはない。兄もお城の近くで働いているのだ。もしかしたら兄の耳にも入っているかもしれない。
 私は実家に寄ってから帰るので少し遅くなると電話を入れた。電話を取ったのはマキさんだった。夕食の支度を頼んでおいた。ただでさえ忙しい兄嫁に私の分まで夕食を用意してもらうわけにはいかない。





 私が突然来たので、父は驚いていた。

「何かあったのか。左京君と喧嘩でもしたのか」

 そんなことはないと否定した。喧嘩どころか顔を合わせていないとは言えない。
 車のことも聞かれた。私は駐車場が足りないので出勤には使えないと答えた。

「そうか。実は免許を取ろうと思ってな。役料が増えそうでな、少し余裕ができるのだ」

 父の話では兄は次の異動で役職に就くことになったということだった。日本橋の伯父様のお力なのだろうか。いや、兄の力だと思いたかった。
 兄は私より遅れて二十分ほどで帰宅した。
 お話があると言うと兄は部屋に来るように言った。
 部屋に行き、まずは御出世おめでとうございますと言った。兄はありがとう、それだけが要件ではないだろうと言った。私が来ることがわかっていたのかもしれないと思った。たぶん左京様の噂は兄の耳にも入っているのだろう。
 私は左京様が帰国後、急な仕事で登城したまま帰らないこと、その後仕事で二カ月帰れないと手紙があったことを話し、兵庫様から来たメールを見せた。

「一体、どのような噂かと思いまして、兄上にお話を伺いたいと思って参りました」

 兄はしばらく腕組みをしていた。

「噂か……」
「御存知ならお教えください。どんな噂でも構いません」

 私は自分でも思いがけないくらい必死な口調になっていた。もう少し冷静に話そうと思っていたのに。
 兄はゆっくりと口を開いた。

「手紙を持って来たのは浅茅様だったのだな」
「はい」

 浅茅様に何か関わりがあるのだろうかと思った時、胸の中に重く暗い何かが生まれたような気がした。

「これは恐らくやっかみから生まれた噂だと思う」
「やっかみ? どうして……」
「左京の爺さんという人は金で御家人株を買って次男、つまり左京の父親を侍にしたんだ。つまりは町人の出。それが前の上様から加増を受けたとあっては面白くないと思う者もいるだろうな」

 母上が言っていた「男の嫉妬」という言葉を思い出した。あれは浅右衛門の私服写真を奉行所の役人達があれこれ難癖付けた話である。左京様も同じようにやっかみを受けているということなのか。

「しかも可愛らしい妻を娶ったとあれば、ますます妬まれる」
「兄上、ふざけないでください」

 身内から可愛らしいと言われるのはなんだか照れてしまう。

「ふざけてはいない。まあ、要するに幸せな生活を送っているのを羨む奴がどこにでもいるのさ。そういう奴が左京を長期の出張に出したのかもな」
「そんなことって……」

 信じられなかった。上様にお仕えする方々の中に個人的な嫉妬で一人の人間に過酷な仕事を押し付けるなんて。

「案外、その仕事で上様に気に入られて若君様の夏休みの宿題を手伝うことになったのかもな」
「え?」

 私は若君様の宿題の話はしていなかった。

「あ、この前、日本橋の伯父上から聞いたんだ。異動の御礼に行ったら話してくれた」

 やはり兄の出世は伯父様の口利きだったということか。

「でも異動は伯父上は関係ない。伯父上がおっしゃるには、役人に口利きなどしていないそうだ。政府とも取引のある大銀行の頭取の甥の妻の兄を役無しにしておくのはどうかと人事が忖度したのだろうな。つまり直接ではないが、間接的に口利きを受けたようなものだ」

 なるほどそういうことだったのか。

「まあ俺のことはどうでもいい。大奥や中奥に左京が出入りするのをますますやっかむ者がいたのであろうな。妙な噂を流したわけだ」
「御存知なのですね、噂」
「あくまでも噂だ。俺も信じちゃいない。ありえないからな」
「どんな噂なのですか」
「あんまりバカバカしいんだが」
「教えてください」
「左京が御中臈の浅茅様と懇ろになったと」

 何を言っているのか、私はすぐには理解できなかった。

「左京様が、浅茅様と、懇ろになった?」
「ありえない話さ。浅茅様、いくつだと思う? 上様と一つ違いだぞ。十七歳の姫君の父親の上様とだぞ。年増どころじゃない、大大年増だ」

 ありえない話だと理屈ではわかる。けれど、私は浅茅様の自信に満ちた姿を見ている。あの方は女の私の目から見ても魅力があった。左京様が誰にでも心を動かす方ではないと思っていても、浅茅様にならとつい思ってしまった。

「おい、津由子、泣くな。嘘に決まってるんだ」

 兄の声が聞こえる。けれど、こぼれる涙を止めることはできなかった。





 
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