初恋はいつ実る?

三矢由巳

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24 涙を拭いて

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 泣いている場合ではないと気付いたのは、差し出された兄の手拭で顔をぬぐった時だった。
 不義密通が大問題になるのは、左京様ではなく浅茅様のほうだ。大奥に仕える女性の中でも地位の高い方々は一生奉公といって大奥から出ることなく仕事ができる限りお仕えすると聞いている。当然のことながら男性との交際はもっての外。
 ましてや浅茅様である。己の生きる道を大奥と定めたあの方が男に心を移し不義密通をするなどありえなかった。この噂は左京様よりも浅茅様にとって致命的なことになりかねない。

「浅茅様は御存知なのでしょうか、この噂」
「どうかな。本人の周囲は知っていても黙ってることがあるからな」
「浅茅様が大変です。お知らせしなければ」

 兄はそうかと呟いた。

「この手の噂は男よりも女にダメージがある。ということは……」

 兄は考え込んでいた。
 私は浅茅様にお知らせする手段を考えていた。一介の御家人の妻が大奥に電話して浅茅様につなげてくれるわけがない。ましてや大奥ではネットはできないのだ。
 そういえば。
 私は部屋の外に出て携帯端末を操作した。
 電話に出たのは芙二子さんのお母様だった。連絡することがあると言うと、芙二子さんに代わってくれた。

「浅茅様からいただいた連絡先は持っていますか」
『はい』
「どうしても連絡をとらねばならないことができました。連絡先を教えてもらえますか」

 生徒相手に図々しい依頼だった。けれど芙二子さんは少し待ってくださいと言って、電話口で読み上げた。
 連絡先は意外にもメールアドレスだった。アドレスにohiroshikiという文字が含まれていた。大奥の御広敷にはネット環境があるのだろうか。

「ありがとう、助かりました」
『先生のお役に立ててよかったです』

 と言って一息置いた後、芙二子さんは言った。

『先週の日曜日に、母の従姉のけいおばさまに招かれて大奥へ参りました』
「え? それじゃ進学は」

 まさか芙二子さんは進学を諦めたのか。

『いえ、ただの見学です。御台所様の部屋子は決まったそうですから』
「そう」
『大勢の女の人が働いていました。金魚のお世話係の方とお話ができました。大学の生物学科を卒業したそうです。浅茅様とも少しだけお話ができました。御台所様に送られる海外の方からの手紙の翻訳もなさるそうです。大学を出た後のほうがお役に立てると思いました。』
「いい経験をしましたね」
『はい』

 通話を終えた後、私はほっとした。芙二子さんは自分の人生を生きようと頑張っている。と同時に運動会の時に来た少年を思い出した。あの少年は何者なのだろう。そして芙二子さんはまだ文通を続けているのだろうか。

「津由子、ちょっと」

 障子を開けて兄が顔を出した。私は部屋に戻った。

「ところで、その兵庫のメールだけど、返信する?」

 そうだった。決断しなければならなかった。

「浅茅様の件ではない別の噂だとしたら……」
「俺みたいな木っ端役人の耳には入って来ないような噂かもしれないな。今兵庫は御小姓組にいるから別の噂の可能性はある」
「だから返信したいのですけれど、母上は不義密通を疑われるから兵庫様に近づかないほうがいいと」
「このメール見せたのか」
「いいえ。左京様が九月になっても戻らないので兵庫様に伺ってみたらと言ったら母上がそのように」
「直接顔を合わせれば疑われるからな。返信して、電話で聞いてみたらいい」
「いいのでしょうか」
「電話くらいで不義密通だと騒がれることはない。俺も知ってるわけだし」

 兄の言う通りだとは思う。でも、母上に逆らうようでなんだか怖い。

「噂の中身がわかったら教えてくれないか。微力だが、真偽のほどを確認できるかもしれない」
「かもしれないって」
「俺は木っ端役人だからな」

 兄は笑うが、次の異動では出世するのだ。

「もうすぐ木っ端じゃなくなるのに」
「だからって、御小姓組の話まではなかなか入ってこないんだぞ。それにしても、左京、噂が出るほど妬まれているとはな。よほど上様の覚えめでたいようだな」

 不義密通の噂が出るなんてあまり有り難くない上様の覚えだった。浅茅様にとっても足を引っ張られるような噂が流れるのは迷惑な話だろう。そんな陰湿な噂が飛び交う場所に小学校を出たばかりの芙二子さんを行かせるなんてとんでもない話だった。





 帰宅すると、マキさんの終業時間の7時を過ぎていた。
 マキさんの残したメモを見ると、母上は編集の方との打ち合わせで銀座のイタリア料理店に行くとのことだった。
 私は一人の夕食を終え、母上が帰らないうちに浅茅様にメールを送った。御広敷役人の目に触れてもいいように、芙二子さんの大奥見学の礼を述べた後、直接的な表現は控えた文面にした。
 送信すると9時前だった。そろそろ母上が帰って来る。
 私は離れに行き、兵庫様のメールをそのまま返信した。
 一体何時頃電話が来るのだろうか。わからないが、まさか夜中ということはあるまい。
 そう思っていると、端末の着信音が鳴った。
 きたと思っていたら、母上からだった。友人がやっているバーに寄るので少し遅くなるとのことだった。少し酔っているような声だった。
 母上もたまには飲みたくなるようなことがあるのかもしれなかった。
 私はごゆっくり、お気をつけてと返事をした。
 お風呂に入り、持ち帰った仕事をしながら着信を待った。
 11時前、そろそろ就寝の時間になる頃、着信音が鳴った。
 電話帳にない番号だった。恐らく兵庫様だろう。何を聞いてもうろたえるまい。私は覚悟を決めた。




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