ふたりの旅路

三矢由巳

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第三章

拾弍 旅は続く

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 まだ暗いうちに目覚めた志緒は佐助の休んでいる部屋を覗いた。すでに佐助は起きて支度を終えていた。志緒の姿を見ると慌てておはようございますと頭を下げた。

「昨日はご苦労様でした」
「滅相もないことでございます」

 使用人としては当然のことと謙遜している佐助であった。

「旦那様に荒垣殿と幸之助様の話はしたの」
「いいえ。手前の口からはとても申せません。ただ」

 佐助はうつむき加減になった。

「ただ?」
「江戸で旦那様の耳に誰か吹き込むかもしれません。荒垣様の御子息が同じ中屋敷においでとなると黙ってはいられない者がおりましょうから」 

 確かにそうだった。今の志緒たちのように城下から江戸に行く者は少なくない。城下の出来事を江戸屋敷の者が知らないはずがなかった。

「奥様、あまりお気になさらぬように。旦那様を妬む者の思うツボです」

 源之輔を嫉妬する者がいるなど思ってもいなかった。

「妬む者とは」

 佐助は残念ながらと前置きした。

「我こそは若殿様のお側にお仕えしたいと思う者は大勢おります。されど妬みは世の常。気を大きく持って少々のことには目をつぶられるのがよろしいかと」
「ありがとう、佐助」
「おそれいります。ただ、くれぐれも荒垣様の御次男には近づかれぬほうがよろしいかと。旦那様があらぬ疑いをかけられます」
「あらぬ疑い」

 一体佐助は何を言っているのか、志緒には意味がわからなかった。

「こんなことを申し上げるのは心苦しいのですが、幸之助様が死んだのは御次男のせいだと思う者は多いのです。旦那様と親しくなったりすれば、幸之助様のことは旦那様が仕組んだなどととんでもないことを言う者が出てこないとも限りません」

 馬鹿なことをと口に出そうになったが、志緒は呑み込んだ。
 馬鹿げたことをあることないこと取沙汰されて荒垣銑次郎は養子の口を失い大坂へ出たのだ。似たようなことが江戸で起きないとは限らない。
 そろそろ源之輔が起きる頃だった。志緒は今日もよろしくと言って部屋に戻った。



 出立は明け六つの鐘と同時と決めていた。
 宿の主人は二人の旅の平安を祈り見送った。
 女将は忙しいので見送れないとのことだった。実は嬉し涙に濡れた顔を見せるのは不吉なことと遠慮していたのだった。
 大勢の旅人たちが行き交う中、志緒は忙しそうに駆けて行く番所の役人に気付いた。昨日夫を連れて行った者である。

「あれは昨日の」
「これだけの宿場です。いざこざは絶えないでしょう」

 彼らも日常に戻ったのだ。   
 やがて二人の目の前に川が立ちふさがった。酒匂さかわ川である。洪水による水害で幾度も多くの人々を苦しめた川に橋は架かっていない。旅人は大井川同様に川越し人足によって川を渡らねばならない。
 一行の姿を見た渡し場の頭が走って来た。

「駒井様、お待ちしておりました」
「いかにも、駒井だが」
「お奉行様からよしなにと」

 どうやら役人は罪滅ぼしのつもりか、渡し場に話をつけてくれたらしい。

「それは困る。私は旅の費用を上役から預かっている。払わぬわけにはいかぬ」
「それでは手前ども、いえお奉行様の顔が立ちません」

 払う、払わなくてよいと問答になるとキリがない。志緒も佐助も困ったものと顔を見合わせた。

「お奉行様からは詫びもあった。それ以上のことは望まぬ」
「困ります。お奉行様だけでなく殿様の顔が立ちません」
 
 殿様が出てきてはさすがに源之輔も拒めなかった。
 
「あいわかった」
「ではこちらへ」

 大井川を渡った時のような連台が用意されていた。男たちはいずれもがっちりした体格をしていた。人足の中でも選りすぐりの者なのだろう。
 源之輔とともに連台に座った志緒は陽の光の照り返しでまぶしい川面を目を細めて見つめた。
 男達の掛け声と同時に連台が高く上げられ向こう岸がはっきり見えた。
 あの先に江戸がある。源之輔と二人一緒に生きていく江戸である。
 江戸屋敷では人の心の闇が渦巻いているかもしれない。けれど、今志緒の目の前に広がる川面も向こう岸の街並みも輝きに満ちていた。これほど世の中が明るければ、源之輔がいれば、闇に呑まれることはないと志緒には思えた。





 城下から江戸に行くには東海道の他に中山道がある。山道は険しいが大井川や酒匂川のような川止めがないので天候さえよければ東海道を使うよりも早く江戸に着くことができる。
 板橋宿を往還する人々の中にひときわ美しい武家の女性がいた。お供の娘と挟み箱を持つ中間は女性を守るように後についていた。だが娘はやや遅れがちになっていた。

「美園さま、お待ちください」
「遅い。屋敷まであとわずか三里ぞ」

 娘ははあはあと息をしながら後を追った。奥の下働きの中からお供に選ばれ険しい山道を行き峠をいくつも越えてここまで来たのだ。足を止めるわけにはいかない。
 美園は己の主と同様に己が使う者に対して厳しかった。振り返ることなく足を進めた。
 厳しき主亀の方は美園に命令を下した。江戸屋敷へ赴き若殿様を守れと。
 若殿様の周囲には多くの家臣がいて今更美園が守る必要はないように思える。だが亀の方の考えは違う。美園にもその考えは理解できた。
 すでに亀の方は江戸屋敷に美園を遣わすと文を送っている。美園は期日までに江戸に到着するため中山道を選んだのだった。
 己と前後して妹の志緒も夫の駒井源之輔とともに江戸屋敷に入る予定と聞いている。
 江戸で二人と顔を合わせる折が果たしてあるであろうか。そもそも源之輔が江戸に着くことができるのか。亀の方はそんなことを口にしていた。
 美園にはわからない。
 はっきりとわかっているのは己に与えられた務めの厳しさのみである。
 見上げれば薄曇りの空が広がっていた。街道から見えるはずの富士の高嶺も見えなかった。
 江戸に行けばいずれは見える折もあろう、大体物見遊山ではないのだからと心の中で己を律し、美園は足を速めた。

 

  第三章 おわり

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感想 5

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みんなの感想(5件)

みいーさん
2024.12.14 みいーさん
ネタバレ含む
解除
九鬼健一
2024.09.01 九鬼健一

素晴らしい作品ですね!一晩で第一章を読み終えました。続きが愉しみです!これを読み終えたら他の作品も拝読させていただきます。ほんとうに良い作者に出会えました。ありがとう御座います。

2024.09.06 三矢由巳

九鬼健一さま
感想ありがとうございます。
励みになります。

解除
九鬼健一
2024.09.01 九鬼健一

素晴らしい作品ですね。一日で第一章を読み終えました。続き
が楽しみです。良い昨日を有難うございます。

解除

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